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503: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/07(金) 22:12:05.34 ID:24Ivjpmq0




 館内に戻り、お昼時を過ぎだいぶ人の少なくなったフードコートで昼食を済ませることにした。

 水族館ということもあって、やはり海産物が多く、人気のメニューは海鮮丼やら刺身を使った定食らしい。

 別にこれといって食べたかったものも無かったし、道中でなぎさからお菓子をいろいろ貰ったからお腹がすいているというわけでもない。

 思いつかないし適当に合わせるか、と先に買うことを勧めると、彼女は焼きそば、ハンバーグ、サラダやらが乗ったプレート料理にしたようだった。
 二日連続はどうなのかと一瞬考えたが、夜と被る可能性もあるし、彼女に続いてそれを注文した。

 テラスに出て、運ばれてきた料理を食べる。

 近くでは木々の葉鳴りが、少し上からはアシカショーの歓声が聴こえる。






504: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/07(金) 22:12:57.30 ID:24Ivjpmq0


「時間合うかわからないけど、これ食べたら行ってみるか?」

「ええ……と。どうしましょうか」

 一応この水族館の目玉であるし、行きたいというなら、と思っていたが、彼女の反応的にどっちでもいいらしい。

 まだ一階部分しか周っていないし、お昼過ぎからは上演回数がそう多くもないだろう。

「それ見せて、いつやるか書いてあると思うし」

「あ、はい。どうぞ」

 なぎさからパンフレットを受け取って上演時間を確認すると、次の上演は九十分後だった。

 なんていうか、思ってた通り微妙な時間だ。

「そうだな……。他のところ周って、時間がちょうど良かったら行くか」

「そうですね、それでいいですよ」

 うん、と軽く頷きを返すと、彼女はそのままパンフレットを広げて、どこに行くか決めましょう、と声高に言った。






505: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/07(金) 22:14:44.39 ID:24Ivjpmq0


 さっきまで見て周っていたところは、名前の通り、ここらの地域や日本近海の魚を集めていた。

 それに対して二階の展示は『世界のうみ』と銘打っており、オセアニア、アフリカ、ヨーロッパなど、世界の地域ごとに観ることができるらしい。
 その他にも、一階部分よろしく屋外展示もあり、多くの人はそこに行くようだった。

 二人でいるといつも予定を決めることもなくふらーっと行動していたからか、何かを決めてから行動するのは少し新鮮に思える。

 料理を食べ終えた後、フードコートに隣接されているお土産ショップに行くことにした。

 そういえば姉にお土産を頼まれていたと思い、スマートフォンを取り出すと、さっき送った写真に返信が来ていた。

『かわいいね』
『デート楽しんでる?』
『スタンプ(ニヤニヤした顔の)』

 デート云々はスルーすることして、姉が好きそうな食べ物やぬいぐるみなんかの写真を撮って、この中で欲しいものある? と送ることにした。






506: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/07(金) 22:16:02.41 ID:24Ivjpmq0


「何してるんですか?」

 突然何も言わず写真をぱしゃぱしゃ撮り出した俺になぎさは訝しげな視線を向ける。

「あれだ、あっちで待ってくれている愛する姉に買って行ってあげようって思って」

「おお、そうなんですか。じゃあ私も杏に買いましょうかね?」

「いいな、喜ぶと思うぞ」

「さっき私と杏のこと言ってましたけど、はるくんと楓さんも一歳差とは思えないほど仲良いですよね」

「……んー、普通じゃねぇの?」

「えー……普通じゃないですよー。
 なんですかね、お互いがお互いを信頼してるって感じが出てるって思いますよ」

「そうか……」

 信頼。
 ……信頼、か。

 なぎさの目にはそう映ったらしいが、実際のところどうなのだろうか。






507: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/07(金) 22:16:59.35 ID:24Ivjpmq0


 千咲にも似たようなことを言われたけれど、本当に最近まで──この夏まで、大して喋るわけでも無かったと思う。

 だからなのかは定かではないが、最近の姉と過ごす時間はそれまでよりも濃いように感じる。

 どれが普通かなんてわからないと思ったが、裏を返せば、どれが普通でないのかも全くわからない。

 手元を見ると、既に姉からの返信が来ていて、左端にあるカメのぬいぐるみを買ってこい、と。

 御達しの通りぬいぐるみコーナーに戻ると、なぎさも俺について来て、近くのぬいぐるみを物色しだした。

 手にはどこででも買えそうな箱入りの饅頭が握られている。
 どうやら、俺が考えているうちに買うものは決めていたらしい。






508: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/07(金) 22:17:58.40 ID:24Ivjpmq0


「カメ、ですか」

「これがいいんだと」

「これまた随分とリアルなやつですね」

「まあな。でもなんかよく見るとかわいいところあるじゃん」

 ほい、と目の前にカメを差し出すと、なぎさは顔を近付けてまじまじとそれを見た。

「……なんていうか、メロンパンみたいですね」

 そう言ってくすりと笑う。

「お腹もう空いたの? それとも足りなかった?」

「いいえ、お腹いっぱいですよ」

「……」

 ……普通に返してくるか。
 戸惑っていると、もう一度くすりと笑いかけられた。

 そのまま、そうですね……、と彼女は話し始めた。

「……私たちって、いつも電車に乗るじゃないですか」

「えっと……通学の時とかか?」






509: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/07(金) 22:18:46.48 ID:24Ivjpmq0


「そうですそうです。
 ……で、学校のほうの駅前にメロンパンの移動販売が来てたりするじゃないですか」

「うん……そんで?」

「いつも食べたいなあって思ってて……」

「あー、遠目でしか見たことないけどたしかに美味しそうだな」

「ですよね! 店名がちょっと謎ですけど、クラスの子とか並んでるのよく見ますし」

 にこにこしている。
 同時に、何か期待するような、そんな目で見つめられた。多分。

 思わず首をかしげる。

 これは、そういうことなのか……?
 いや……でも、俺の思い過ごしってことだってある。

 その場でどうにか取り繕おうとも考えた。
 でも、ちょっと考えてすぐにやめることにした。

 再び目を合わせると、緊張したような空気が流れる。






510: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/07(金) 22:19:26.50 ID:24Ivjpmq0


 ……しばしの沈黙。
 その後、彼女の視線がすーっと棚の方へとスライドした。

「さっきの話ですけど、これ欲しいです」

 さっきの話、さっきの話……。
 行きたいから誘ってくれ、という意思表示をしていたわけでは無かったのか。

 胸の前にエイのぬいぐるみを押し付けられる。
 随分とデフォルメされたやつだこと、若干かわいい。

「あ、うん。それ買って欲しいと」

「え、えっと……。あの、お昼前のバスで何かプレゼントくれるって」

 そうだ、言ったわ。
 名前呼びとは別にってことね。

「言ったな」

「おお、良かったです。この歳でボケちゃったのかと思いました」

「ボケてるって……」






511: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/07(金) 22:20:20.28 ID:24Ivjpmq0


「それで、はるくんにはこのサメをプレゼントいたします!」

 反対側の棚からビーズの入ったシュモクザメのぬいぐるみを取り出す。

「プレゼント交換ってことか?」

「それです。誕生日近いですし、お互い記憶に残るものがいいな、と」

「いや、貰えるなら嬉しいけど、別に俺は……」

「いいんですよ、貰っといてください。
 それにあれですね、次に泊まりに行ったときに私が使いますから」

「え、なに。またうちに来るの?」

「楓さんと千咲先輩に誘われましたよ?」

「……俺、何も聞いてねぇよ……」

「……まあ、杏が行きたいって楓さんに言ってたんですけどね」






512: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/07(金) 22:22:47.60 ID:24Ivjpmq0


「それなら良いな。杏が来たいなら仕方ない」

「どんだけ杏のこと好きなんですか。
 いくら私でもちょっと引きますよ……」

 半分くらいネタのつもりだったが。
 それに、そんな呆れたような目で見られても。

 いろいろと困るんだよ、俺だって普通に男だし。
 俺以外は全員女子、その日確実にコウタのことを誘わなくては。吉野さんも来るだろうし誘えば乗ってくるだろ。

「じゃあ、レジ行くか」

「は、はい。あの、これでいいんですよね?」

「うん、ありがとな」

 落ち着いて考えてみると、うちに泊まるからと言っても、また俺の部屋に寝るわけじゃないだろ。

 寝たいって言うならそれはそれで……ないか。ないわな、流石に。






513: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/07(金) 22:23:38.52 ID:24Ivjpmq0




「じゃあ、右回りで行きますか」

「そうだな、行くか」

 二階へと続くエスカレーターは進むにつれてどんどん明るさを増して行った。

 一階、フードコートよりも人の数が格段に多く、ショー帰りの客とすれ違う。

 地域の海よりも断然人気があるというのは大丈夫なのか、
 なんて思ったけれど、近くを見るより遠くを見るほうがいいのかなと適当に納得することにした。






514: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/07(金) 22:25:44.14 ID:24Ivjpmq0


 最初の地域は『オセアニア』で、グレートバリアリーフの魚たちを集めているらしい。

 少し進んで横にはペンギンコーナー。

 つくりは岩場とプールで、小さめのペンギンが、よちよちと歩くか、すいすいと泳ぐかしている。

 ペンギンともなると当然目立つし人気もあり、右回りの人も左回りの人も、ほぼ全員がそこで足を止めている。

「かわいいですね、フェアリーペンギン? ですよね」

「そうみたいだな。……人多すぎないか、ここ」

「……そう、ですね。あっち空いてますから行きましょうか」

 円を囲む展示台の裏側。
 プールから陸地、岩場になっているところは人気が少なくなっていた。

 だいたいの写真を撮っている人たちは、ペンギンの泳いでいる姿を収めているらしい。






515: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/07(金) 22:26:26.17 ID:24Ivjpmq0


 いくつかある二人がけの椅子は若いカップルで埋まっていて、手すりにもたれかかった。
 なぎさはなぎさで岩場を歩くペンギンをぱしゃりと撮り出したので、俺もそれに続いてスマートフォンで撮った。

 何枚か撮って、すぐ横を見ると、いい構図のものが撮れたのか隣にいる彼女はつやつやした嬉しそうな顔になっていた。

 そんな様子を見るとなんだか気恥ずかしくなってきて、展示をぼんやりと見つめることにした。
 ……ぼんやりと、と言っても全体を見るというよりは、一点を視線をずらしながら見ていくような、そんなふうに。

 周りを見ると、それは俺だけではないのだろう。

 そこにいた人たちの多くは、寄り添う二羽のペンギンに目を止めていた。






516: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/07(金) 22:27:51.00 ID:24Ivjpmq0


 ああいうのは一目で分かる。昔、結構有名な『皇帝ペンギン』という映画で見た記憶がある。

 イメージがひとり歩きしているだけなのかもしれないが、しばしばペンギンの夫婦は一夫一妻制のロールモデルかのように扱われている。

 ペンギンの夫婦を見て考えることは皆同じようで、少し後ろにいる俺らと同世代くらいのカップルの女の方が、
「ペンギンは一度夫婦になると一生添い遂げるんだよね」「それってすっごく理想的じゃない?」
 と小声で呟いた。

 隣に座る男もそれに同調し、より一層やさしげな目で彼女に向かって笑みを浮かべた。

 他の人も同じく、型にはまったような話をして、ゆったりとした甘い空気を漂わす。

 俺も俺で、隣にはかわいい女の子がいて。

 ……でも、そういう雰囲気にあてられることなんてなかった。

 べつに、重ねようとしたわけじゃない。
 うちとは大違いだな、なんて思っていたわけじゃない。






517: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/07(金) 22:28:25.59 ID:24Ivjpmq0


 ただ、一瞬だけ。ほんの僅かだけ。
 また、それを怖いと思ってしまった。

 異様だ。けれど、行き着く先は同じだと言い切れない。

 愛や恋なんてものは多種多様であって。
 今の時代片親も何も珍しくないし、不倫浮気もこぞってメディアに取り上げられるくらいだ。

 そういうのを見るたびに、聞くたびに、まあ実際はそんなもんだろ、と達観した風にして逃げてきた。

 自分は、自分たちは特殊じゃないと思いたかった。

 俺が何かを考えていたって意味は全くない。誰の慰めにもならない。

 ひと息つこうとした。それで気が晴れるとは微塵にも思っていなかったが、何かをせずにはいられなかった。

 でも、そうはしなかった。
 なんとなく、今はまだそれを飲み下すときではないと感じたから。

 そして次に、やめようか、と考えた。

 思考はループする。だんだんと悪い方に傾いていく。

 読んで字の如く、悪循環だ。

 どうすりゃいいんだよ、と思う気持ちすら失せ始めてきた。






518: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/07(金) 22:29:04.86 ID:24Ivjpmq0


 ぐるぐると渦巻く感情に対処できずにいると、ふいに横から「ごめんなさい」と小さい声がした。
 肩のあたりを強めに叩かれて、我に返る。

「あの……どうしましたか?」

 目を開けると、心配そうになぎさが俺を見ていた。

 すぐに慌ててしまう。
 ……またやってしまった。

「なんでもない。ちょっと……考えごとしてた」

「……そうですか」

 それに頷くと、
 彼女は、んー、と顎に手を当てて考え込むように首をかしげた。

「ほんとうに大丈夫ですか?」

「……うん。なんでもないよ」

 もっと答えようはあったかもしれない。
 例えば、寝不足でちょっと、とか(それはそれで失礼極まりないのだが)。






519: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/07(金) 22:29:45.80 ID:24Ivjpmq0


 言葉を続けるべきなんじゃないかと思って口に出そうとしたとき、彼女の表情が僅かながらも曇った。

 何か言いたげな顔。
 もしかしてですけど、とおどおどしたような様子で俺に言いかけて、彼女の口は止まった。

 その、もしかしての続きは……。

 ……さすがにないだろう、と思いつつも、それ以外に彼女が口籠ることなんてあるのか? とも思う。

 直接自分からそれに言及したという心当たりは……ない。
 が、付き合いは思ったよりも長くて、関わっているうちに知られていてもおかしいとは思わない。

 肌寒い館内なのに、背中には冷や汗を感じる。

 どうにもいかなくなって、やっぱり何も言えなくて、
 けれど、彼女に急に頬に触れられて、身体が後ろに仰け反った。

「な、なに?」






520: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/07(金) 22:30:37.37 ID:24Ivjpmq0


 言うと、すぐに手を離された。
 かと思ったら、今度は左手を握られた。

「さっきからずっとぼーっとしてたので、どこか具合が悪いのかな、と思いまして」

 ちがいましたか? という付け加えと共に、手を離された。

 あ、と一瞬気分が沈んだ。
 表情に出して悟られるのは子供みたいだから、それは我慢した。

 今更ながら、今日はつくづくダメな日みたいだ。
 すべてが空回りしているような。

「うん、うん……ごめん」

「……いえ、謝らなくていいんですよ。
 ここ寒いですし、はるくん薄着ですし」

「なぎさは……」

「なんですか?」

 俺のことを気遣っての知らないふりか、それとも本当にそう思っているのか。






521: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/07(金) 22:31:25.19 ID:24Ivjpmq0


 普段ならわかりやすいはずの彼女の意図が、なぜか読めない。

 それが判決の先延ばしのように思えて、どういうわけかもどかしい。

「なんでもない」

「そうですか」

「続き行こっか。体調はもう大丈夫」

 ぽん、と彼女の頭に手を置いてみる。
 不自然なほどのスムーズさに、俺自身も驚いた。

「……珍しいですね」

「そう?」

 えぇ……、と少し拗ねたような口調で返される。

「……逆に珍しくないとすれば、日常的に人の頭を撫でていることになると思いますけど」

「……」

 ……そうなるか。

「ま、それについてはお互い様ですかね、許します」

「……どういうこと?」

「さあ、どういうことでしょうかね?」

 そう言って、くすくす笑う。

 そして、でも、お互い様ということは認められたみたいで嬉しいですね、と彼女は続けた。

 会話の流れからズレたような物言いに、なんの話をしてたんだっけ、と思った。







525: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/15(土) 21:26:59.50 ID:NyVnNshE0




 各地域のコーナーを比較的ゆっくりと進み、ゴール地点まで辿り着いた。

 感想はそこそこ、それなりに疲れた。

 ショーには行かなかった。
 時間も気にして、というよりは、最終公演で混雑すると予想してやめることにした(実際的中した)。

 途中、電話がきた。

 当初の予定よりも帰りの時間が早くなったことと、迎えには誰か他の人に頼むことを手短に言われた。

「もう一周しますか?」「いや、遠慮しとこうかな」というある種形式ばったようなやりとりを交わして、水族館の外に出た。

 気温は昼間と比べるとだいぶ落ち着いていて、あまり苦ではない。

 付設の臨海公園のベンチに座って、迎えが来るのを待つことにした。

「これ、どうぞ」

「おう、さんきゅー」

 カフェスペースで買ってきてもらった飲み物を受け取った。

 商業施設にあるカフェはコーヒー一杯でも値が張るのが嫌なところだ。
 スタバとかタリーズとか、あるのは助かるけれど、注文するとき妙に緊張するし……。






526: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/15(土) 21:29:03.80 ID:NyVnNshE0


 家の近くのカフェは一杯150円でおかわり何回でも無料。すごく良心的。
 店主に名前を覚えられてるくらい常連。でも最近は全く通っていない。

 渡された飲み物に口をつける。

「これ何円だった?」

「えっと、350円です」

「うい」

 予想していたよりも高いわけではなかった。
 お金だけ先に渡しとけば良かったな。

「……そういえばさ」

「……なんですか?」

 訊きたかったのは少し前の続き。

 その場では流したが、気になるものは気になる。

 不必要な、というと言い方が悪いか。
 それが彼女に迷惑をかけるレベルのことなら、今のうちに正しておくのが筋のように思える。

「さっきのことでさ」

「はい。さっきの? ……と言いますと?」






527: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/15(土) 21:29:49.77 ID:NyVnNshE0


 訊きたいという気持ちが先立って俺から言い出したものの、
 こうしてまっすぐ見つめられると、やはり続きを口にするべきかどうか躊躇した。

 考えてみると、彼女の提案、要求は楽しむことだったはずだ。

 "俺が"もやもやしていることに変わりはない。
 でも、この件についてはあの場で終わったことだ。

 何かしら遺恨が残ってしまったとしても、今それを蒸し返すのでは彼女の気遣いを反故にするのではないか。

 彼女が察しているという仮定で進めてもこの状態であるから、
 察していない(ただ俺の様子を変に思っただけであるとか)なら、勝手に俺が要領を得ないような話を始めるということになる。

 もっと考えてから行動しろよ。
 最近になって何度もそう思った気がする。

 だとしたら、それは今まで押し込めていたものなのかもしれない。






528: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/15(土) 21:30:40.52 ID:NyVnNshE0


 ちょっと人と近付くと、一旦立ち止まって、ということが疎かになる。

 ……駄目だな。

「……どのコーナーが一番楽しかった?」

「えっ……と、二階のですか?」

 彼女は一瞬戸惑ったように見えた。
 それも俺の勘違いかもしれないけれど。

「うん、そう」

「どうですかね……。どれも楽しかったですけど、強いて言うならアフリカコーナーです」

「あー……。水族館なのに魚いなかったな」

「そうですね。爬虫類とか両生類とかばかりでしたね」

「カメレオンが特にかわいかったな、のろのろしてて」

「はるくんもアフリカコーナーが一番好きですよね?」

「なぜわかった」

「顔に出てましたよ。あと足取りも軽快といいますか、そんな感じでした」

「そんなに俺ってわかりやすいかな?」

「うーん……なんといいますか、慣れですかね」

 でもだいたいは予想の範疇で、それが当たってたら嬉しいくらいの感覚です、と付け加えて彼女は俺に向けてはにかんだ。






529: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/15(土) 21:31:32.68 ID:NyVnNshE0


「そっか」

「そうですよー」

 ある程度年を重ねてからは『何を考えているかわからない』と評されることが多かったように思える。

 おまえってわかりやすいな、と言ってきた人だっていたかもしれない。

 けれど、記憶にはあまり残っていない。

 ──何を考えているのか、全然わからないんです。
 ──私のことが嫌なら嫌って言って下さい。直せるなら直しますから。
 ──嘘ですよね? 私は、そんなこと、ひとことも言ってないです。

 そんな風に言われたのはいつのことだったっけ。

 向かいのベンチで二人組の女の子が揃ってシャボン玉を飛ばしている。
 その隣のベンチでは男の子がラムネを飲んでいる。

「……あついな」

「まあ、ここ日陰ですけど、そうですね」

「待ち合わせの時間過ぎてるし……」

「飲み終わっちゃいましたね」

 ベンチに座ったまま足をバタバタしている。
 お互い暇、というか時間を持て余している。






530: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/15(土) 21:32:32.57 ID:NyVnNshE0


「……そういえばさ、シャボン玉って春の季語らしいよ」

「夏じゃないんですか?」

「うん、理由は知らないけど」

 答えるとすぐに、
 ちょっと、と正面を向いたまま言われた。

「あの……さっきからずっと後ろから視線を感じるんですけど」

「視線って……」

 そう言われるとビビるわ。てか怖いわ。

「迎えの人じゃないかなと思いますけど」

「あ、そう」

 先にそれを言えよ、俺がビビリだと露見しちまうだろうが。

 振り返る。女の人と目が合う。

 その女の人は俺たちに向けてにっこり笑うと、ずんずんと近付いてきた。

「はるー! ひさしぶりー、元気だった?」

 独特なゆるい声音。聞き覚えがあってどこか懐かしいような感覚。

 ひらひらと手を振って、これまたゆるい顔で微笑みかけられた。

「おひさしぶりです。ゆかり……さん」






531: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/15(土) 21:33:12.60 ID:NyVnNshE0


「もー……。敬語なんて使わなくてもいいのに!
 昔はゆかりお姉ちゃんゆかりお姉ちゃんってかわいかったのになー」

 ……いつの話だそれ、マジで覚えてねぇぞ。
 ゆかりさんって呼んでた、そしてその前はゆかりちゃん。

「じゃあ……ゆかりさん、でいいよね?」

「うんうん。……で、そちらの子は?」

 なぎさは、はっと顔を上げて、深々とお辞儀をした後に、軽く自己紹介をした。

「学校の後輩でバイトが同じ、ね……。
 んー……ここにはデートしに来たの? 二人は付き合ってるの?」

 うりうりと肘で脇腹を小突かれる。

「……付き合ってないよ。
 そんで、ここにはバイト休みだから出掛けるかってことで来た」

「へー。まあ、外だとなんだし、車あっちに停めてあるから行こっか」

 キーチェーンを指先で遊ばせて、くるりとターンをした。
 なんでこの人はこんなにテンション高いんだろう。

「あの……ゆかりさん? とはどういったご関係で」

 言われてみると、たしかにゆかりさん名乗ってないわ。

「父親の妹、叔母さんにあたる人だよ」

「え、っと……。はるくんのお父さんの妹さんにしては随分と若く見えますが」

「あー、それな」

「……」

「よく知らないけど歳めっちゃ離れてるんだよ。
 お若いですね、とか喜びそうだから絶対言うなよ」

「なるほど……。いや、全然なるほどじゃないですけど、わかりました」

 適当な説明なのに一応納得はしてくれるのな……。話が早くて助かる。






534: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/16(日) 20:22:52.45 ID:f3bKGzkA0




「さあ乗った乗った。なぎさちゃんはわたしの隣ね!」

 二人は早々に前席に乗り込んで、俺もそれに続いて乗車した。

 シートベルトをするように言われて慌てて取り付けた後に、中を見渡すと、
 ダッシュボードは本革風で装飾は金属調で、車の趣向は特にないのだが。

 なんだこれ、すっげぇ高そうだ。

 そんなことを考えているうちに、低い駆動音を立てて、車が走り出した。

 なぎさは先ほど買ったであろうコーヒーをゆかりさんに渡していた。
 そのぶんまでよろしく、とは俺も気付いていなくて言わなかったのに。

 こういう細かな気遣いにおいては頭が上がらない。

 遅れてゆかりさんから軽い自己紹介があり、その後二人でしばらく会話をしていた。






535: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/16(日) 20:24:00.86 ID:f3bKGzkA0


「ねえ、ゆかりさん」

「ん、どしたの?」

「この車ってゆかりさんの車?」

「うん、そうだよ。わたしの愛車」

 そう言って少し自慢げにぽんぽんとハンドルを叩く。

 ……あ、思い出した。
 これSUVってやつだよな、たしか。

「そうなんだ。てっきり彼氏の趣味とかだと思った」

「ふーん……彼氏、ね……」

「えっと……ちがったならごめん」

「はは……。残念ながらわたしの趣味なのよね」

「……」

 やらかした。
 これはあれだ。ただの失言だ。






536: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/16(日) 20:25:09.86 ID:f3bKGzkA0


「やっぱりおかしいかな……? なぎさちゃんはどう思う?」

 優しい声音でなかなかのムチャ振り。
 人となりを知らないわけだからイメージで語るしかできないと思うのだが……。

「かっこいいですし、私もこういう車乗りたいですよ」

「えー、この良さがわかっちゃう?」

「はい、ゆかりさんにも似合ってると思いますよ」

「……だそうだよ、はる?」

「や、俺も似合ってないなんて言ってないし」

「ふーん。いいよねー、ひさしぶりに会ったと思ったらこんなにかわいい子連れてきて」

「かわ……えへへ、ありがとうございます」

 にこりと笑う横顔に、ゆかりさんも笑顔で応えていた。

 見るからに嬉しそうな反応だ。俺にはわざわざアピールしてくるのに、えらい違い。






537: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/16(日) 20:26:01.17 ID:f3bKGzkA0


「まえは……って言っても小学生ぐらいのときだっけか。
 女の子連れてきたことあったよね」

「……千咲のこと?」

「あ、そーそー。ちーちゃんだ、今も元気にしてる?」

「うん。まあ、元気かな。千咲も俺らと同じ高校だよ」

「おおー! いいねいいね。あのころはわたしもピチピチの女子大生だったなあ……」

 たしかに、家でずっと暇そうにしていたっけか。

「ゆかりさんは、何のお仕事されてるんですか?」

「ん……わたしは高校の先生やってるよー」

「そうなんですか」

「……科目なんだっけ?」

「国語だよ。ほんとは社会科目が良かったんだけどね、倍率が高くて」

 初めて聞いたな。
 歴女か。最近めっきり聞かないけど。






538: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/16(日) 20:27:31.78 ID:f3bKGzkA0


「つまり、消去法ってことですか?」

「まあ、言っちゃえばそうなんだけど。
 でも、なったらなったで、国語教師もなかなか良いものだよー。図書館の担当やりますって言えば部活の顧問持たなくていいし、職員室にずっといなくてもいいし」

「あ、それわかります。私の担任も国語科ですけど、いつも暇そうにしてます」

「テストの採点は地獄そのものだけどね……」

「じゃあ、部活もなくてテストもない今は暇ってことか」

「うんうん。課外講習も三年生担当って訳じゃないから、一週目で終わり」

 左折して、国道から一本横に逸れた道を進む。
 高い建物はほとんどなくなり、すれ違う車は軽トラと軽自動車が多くなってきた。

「そいえば、ハルは文系?」

「そうだよ」

「なぎさちゃんは?」

「高一なのでまだ決定ではないですけど、進路希望調査は一応文系で出しました」






539: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/16(日) 20:28:25.62 ID:f3bKGzkA0


「ほーほー……てことはわたしたち文系仲間だね」

「そうなるね」

 なぎさの進路については初めて聞いた。
 うちの学校は男女比が大体6:4くらいで、女子でも理系が一定数はいるから、理系のほうがひと学年のクラス数は多い。

 もっとも、高一段階で成績がある程度良い位置にいれば文系よりも理系を勧められるからってのもあるかもしれないが。

 俺に関して言えば、数IIIが面倒そうだったのと、地歴が少し得意だったから。
 そんな単純な理由で、あまり将来の職業については考えずに決めた。

「楓はたしか理系だったよね」

「うん。知ってたんだ」

「まあ、楓とはたまに電話するからね。去年も会ったし」

「そっか」






540: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/16(日) 20:29:22.99 ID:f3bKGzkA0


「あ、今日楓は来ないよね?」

「……受験生だし、まだ予備校行ってると思うよ」

「そっか……そうだよね。どこ大受けるとかは?」

「いや、なんも」

「んー、わたしにも教えてくれなかったしー。
 じゃあお兄ちゃんは? また仕事で来れない?」

「たぶん」

「ま、まあ……連絡しても出ないしね、そうだよね」

「……そうなの?」

「……うん、そうみたい」

 そんなところだろうとは思っていたけれど。

「だから! なぎさちゃん来てくれてうれしいなー」

「あ、えっと……。ありがとうございます……?」






541: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/16(日) 20:30:12.69 ID:f3bKGzkA0


「……女の子がいると嬉しいなあ。わたし、連れてくる人なんていないし……」

 男で悪かったな。
 つーか、やっぱり彼氏いないのか。

「てことは、俺たち以外の他の人も来るってこと?」

「うんそうだよー。お母さんから聞いてない?」

「……マジか。近所の人とか?」

「そーそー。あとは薫乃さんとか……親戚の人たちかな。
 わたしも女のなかで一番年下だと、肩身狭いし」

「そうなんですか……。そこで私の出番というわけですね」






542: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/16(日) 20:30:56.18 ID:f3bKGzkA0


「うんうん! というわけで、ハルはめんどくさい大人に絡まれても頑張ってね」

「あ、うん……頑張る」

 後ろには(希望的観測)とつけてしまいたいくらいだ。

 なんとなく(悪い意味で)いろいろ想像できた。
 数年ぶりだけど、あの人たちが集まったときのテンションはちょっと。

 日が被ってるなら事前に教えてくれれば良かったのに。
 大方そうならこっちに来なくなると思って言わなかったのだろうけど。

 でもまあ、そんな悪いことは起こらないだろ。
 たいていの人は顔見知りだろうし、絡まれたら面倒かもしれないが俺もそこまで子どもってわけでもないし。

 知りたかったことについても、何か手がかりが掴めるかもしれないし。






546: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/19(水) 20:20:03.65 ID:gTDpndir0




 家に到着してすぐ、こんなところだったっけ?  なんていう感想が口をついて出てきた。

 なんとなく、鞄のなかに放り込んでそのままにしていたスマートフォンを取り出した。
 通知がいろいろ来ていて、でも早急なものは見たところ無かったから、するすると流し読みだけして電源を落とした。

 ゆかりさんは手伝いがあるやらなんやらと言って先に行ってしまって、二人で部屋に荷物を運んだ。

 隣の彼女はどこか落ち着かない様子だった。

 わけを尋ねると、

「千咲先輩とも来たことあったんですね」

 と、なんだか要領の得ないようなことを言われて、
 それに続いて、

「初対面の人が多いと、やっぱり緊張しますね」

 と呟いて、ふうと息を吐いた。






547: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/19(水) 20:21:06.90 ID:gTDpndir0


 ああ……そうか。失念していた。

「ごめん……悪かったな。俺も他に人来るとは知らなくて」

「大丈夫です、仕方のないことですから」

 返答のあっさりさに、なんとなく、話を逸らされた気もしてくる。

「……他に何か気になることでもあった?」

「いえ。……下、行きましょうか」

「そうか。うん、行こうか」

 気にしすぎか。俺も少し緊張しているのかもしれない。

「そういえば、連絡入れとけよな」

「……誰に?」

「ミヤコさんに、到着したよって。
 あれだ、俺からするのも気が引けるし」

「大丈夫だと思いますけど……うち基本放任主義ですし。
 それに今は仕事で携帯見れないでしょうし……」

「まあ、そこらへんはよく知らんけど、おまえも一応女の子なんだし、しとくのが良いと思う」

「"一応"女の子ですか」

 不満か。

「……じゃあ、訂正。なぎさはかよわい女の子だからってことで、良いよな?」

「はい、かよわい私ですね、わかりました」






548: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/19(水) 20:22:11.45 ID:gTDpndir0




 半ば宴会場と化した大広間は多くの人々で賑わっていた。

 玄関に置いてあった靴の数と、ここにいる人の数はどう考えてもかけ離れていて、長机が三台でギリギリ収まるというくらいだった。

 ゆかりさんに呼ばれて、入ってすぐ左の空いているスペースに腰掛けた。
 なぎさはゆかりさんの隣で壁際に、俺は通路側に。

 昔に見たことがあるような女の人によって食事が運ばれてきた。

 日本昔ばなしに出てきそうな山盛りの御飯。
 海鮮料理。
 マグロ、イカ、タコ、エビ、サーモン……。
 天ぷらに握り寿司。
 焼き魚にお新香までついている。

 好物ばかりだ。
 量もさることながら、すごく美味しそうに見える。






549: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/19(水) 20:22:41.87 ID:gTDpndir0


 他の人たちはもう手をつけていて、ゆかりさんとなぎさも、いただきますと言って食べ始めた。
 俺もいただきますか、と内心心躍りながら箸を握ると、同時に後ろから肩をとんとんと叩かれた。

 振り返ると数人が目の前に立っていて、その中の一人が話しかけてきた。

「ひさしぶり、ハルだよな?」

「……どうも。おひさしぶりです」

「ばあさんが言ってたから知ってたが、こっち帰ってきてたのか」

「うん……まあ、俺一人ですけど」

「おー、そっかそっか。とりあえず、こっちきて一緒に食べようや」

 ちらっと奥のほうを確認すると、今の位置から二つ向こうで食べているようだった。

 さっきから話しかけてくる人、昔会ったような記憶と共に見覚えはあるが、というか親戚の人だと思うが、その人名前を覚えていない。
 周りにいる人についても同様だ。






550: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/19(水) 20:23:12.16 ID:gTDpndir0


「あ、でも……」

「どうぞどうぞ、わたしはなぎさちゃんと食べてるからさ」

 一瞬にして退路を断たれた。

 じゃあ決まりだな、と言って、元の席に戻っていってしまったので、諦めて渋々ついていくことにした。

「はる」

「……どしたの?」

「ちょっと、耳かして」

 テーブルから身を乗り出して、ゆかりさんは俺に頼んできた。

「え? ああ、うん」






551: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/19(水) 20:23:55.83 ID:gTDpndir0


 言われた通りに耳を近づけると、彼女は少し間を置いて、小さく頷いたあとに、顔を近づけてきた。

「はる……、その……頑張ってね」

「……」

「……さすがに大丈夫だと思うけど、もし嫌だったら、わたしのほう見て」

 なんとかするから、と。

 そう言われてみたものの、俺はその言葉の意味がよくつかめなくて、首をかしげることでしか反応ができなかった。
 きっとさっきから続くからかいかちょっかいの類だと思って、そのときはあんまり深く考えなかった。

 でも、実際その通りになったのだから、きっとゆかりさんは全部わかっていたのだと思う。






552: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/19(水) 20:24:43.04 ID:gTDpndir0




 なんてことのない、ただの休日だった。

 その日は、雨が降っていた。

 朝の予報なんて見ずに家を出たから、当然傘なんて持っていなくて、手提げ鞄を傘にして走るでもなく濡れながら帰っていた。

 ずぶ濡れで帰宅すると、大きめのタオルを持った父親が玄関に立っていた。

 こんな日に限って、というより、父親は出張だったはずだ。

 姉も母親もうちにはいなくて、置いてある靴は父親の一足だけだった。

 差し出されたタオルを受け取って、軽くありがとうと言ったあとも、父親はその場から動かなかった。

 シャワー浴びるから、と言って横をすり抜けようとしたとき、ぐいと腕を引っ張られた。






553: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/19(水) 20:25:22.84 ID:gTDpndir0


「ハル……おまえ。なにかあったのか?」

「……なにかって?」

「いや、俺の気のせいならいいんだが……」

「そっか……べつになんもないよ」

「……じゃあ、どうしてこんなに遅くまで帰ってこないんだ?」

「友だちと遊んでたんだよ」

「友だち、か……。最近はいつもそうなのか?」

「……なにが言いたいの?」

「おまえだって、今年は受験生だろ?
 勉強とか、そんな遊んでばかりじゃ駄目じゃないか」

 忠告というか、諭すような物言いで、父親は俺に向けて言葉を放った。

「……わかってるよ。でも、成績も自分で言うのもなんだけど悪くないし、特に困ってることなんてないよ」






554: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/19(水) 20:26:41.84 ID:gTDpndir0


「本当か?」

「……」

 はなから信じていないとでも言うように、父親は俺に問い返す。

 そのとき、すぐにでも頷けば良かったのかもしれない。
 タイミングを逃してしまって、俺の心情を見透かしたのか、父親は小さくため息をついた。

 そして、やっぱりそうか、とくぐもった声で言って、俺の手を離した。

「帰ってくる途中、千咲ちゃんに会ったよ」

「……」

「おまえ、ずっと一人で行動してるらしいじゃないか。
 俺が朝起きるときにはもう家に居ないし、夜だってこの時間なんだろ?」

「……だから?」






555: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/19(水) 20:28:11.99 ID:gTDpndir0


 それのなにが悪いんだ? と口に出しそうになって、すんでのところでそれを抑えた。
 良いとか悪いとか、俺が中学生だから夜が遅いと心配させるとか、そういうんじゃないのはわかってるけれど、それ以上言い返すことはしなかった。

「……部活を辞めたのだって、本当はべつの理由があるんじゃないのか?」

「……」

「一応、副キャプテンだったんだろ?
 俺が知っているおまえは、そんな簡単に責任を放棄する奴じゃなかったはずだ」

「……続ける意味が感じられなくなっただけだよ。腰とか脚とかもずっと痛かったし」

「……そうか。でも、小学生のころから続けてたのにか? そんなにすんなりと切り捨てられるものだったのか?
 何回かしか見れなかったけど、頑張ってたじゃないか」

 ……だから、それがなんなんだよ。

 迷惑になるなら辞めたほうがマシだ。自分のついている役職なんて関係ない。






556: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/19(水) 20:29:14.90 ID:gTDpndir0


 もともとキャプテン副キャプテンなんてのは形骸化されたものだった。

 勝って俺のおかげ、負けて俺のせい。
 考えてみれば、そんなことばかりだった。

 俺の驕りかもしれない。でも、本当にそんなことばかりだった。

 顧問は部活経験がない人で、真面目な部員もなかにはいるけれど、不真面目でサボる奴もいて。

 俺だっていろいろ考えるようになって。
『母さん』のこととか、うちのこととか、これからのこととか……。

 そこであれこれと考えずに、割り切ることが出来たなら、こんな苦労は無かったのかもしれない。

 最初のうちは、だましだまし出来ていても、どこかで必ず綻びは生ずる。






557: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/19(水) 20:30:01.70 ID:gTDpndir0


 ──最近不真面目じゃないか? おまえがそんなんでどうするんだ。
 ──なにか悩みがあるのかどうか知らんが、おまえが頑張らなくて誰が頑張るんだよ。

 顧問にそう言われたことは、今でも鮮明に覚えている。

 そのときは苛立った。と思う。

 顧問に関しては、もとからあまり好意的な感情は持っていなかった。
 生徒主体なんて常套句を使って部活を放置して、そのくせ一丁前に精神論を語って走らせることだけして。

 サボりも容認、問題が起こっても我関せずを貫く。

 でも、そのとき顧問に言われたことは正論だった。

 真面目派の中心にいた俺が不注意な行動をすると、他のメンバーにも伝染して、全体の雰囲気が悪くなる。

 考えなくともあたりまえのことで、でも、それを肯定してしまうのはたまらなく嫌で。






558: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/19(水) 20:30:29.00 ID:gTDpndir0


 きっと他の教師にでも言われたのだと思う。じゃなけりゃ気がつくはずがない。

 顧問という体裁を気にして、全てを押し付けてしまいたかったのだと思う。
 それまでやってきたことだし、これからもそれは変えるつもりは無い様だった。

 人の都合で縛られて、無駄な気を回す。

 ……それに、意味なんてあるのだろうか?

「……わかったよ」

「なにが」

「言いたくないんだろうけど、いろいろあったんだろ?」

「だから、なにも……」

「顔見りゃわかるよ」と、父親ははっきりと言った。

「それに、あの子言ってたぞ。同じクラスだけど、おまえとしばらく話してないって」

「……千咲とは、喧嘩して」






559: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/19(水) 20:30:59.53 ID:gTDpndir0


「それは……おまえが悪いのか?」

「……」

 なにも答えない俺に、父親は困ったような顔になって、ごめんな、と呟いた。

 驚いて目だけ向けると、もう一度、すまん、と父親は言った。

「こういうことを話したかったわけじゃないんだ。
 おまえに悩みがあって、それが他の誰にも言えないようなものなら、せめて俺には話して欲しいって、そう思っただけなんだ」

 そんなの……言えるわけないだろ。
 我慢することを放棄して、これさえあればと考えていたものを、自分から手放すなんて、出来るわけがない。

 俺さえ我慢すればいいのだから。

「でも、これ以上は訊かないよ。いくら親でも、知られたくないことに踏み込む権利はないからな」

「……うん」

 無理してでも、訊いてくれたらいいのに、問い詰めてくれたらいいのに。
 後になってみると、ここが分岐点だったのかもしれない。

「……そうだな。風邪ひかないうちにシャワー浴びてこい」

 じゃあシャワー浴びるから、と鸚鵡返しで言ってその場から逃げるように浴室に向かった。

 父親にこういう話をするのは、それが初めてのことだった。






562: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/24(月) 21:02:22.40 ID:Foxw87Jw0




 それで──。

 自分の前に配膳されていた食べ物はそのまま、大人たちの集まる所に行って、そこで食事をとることにした。

 いろいろと話を振られて、まあ適当に答えて。
 多くの人は酒を飲んでいて、テーブルの上には空き缶とジョッキが並んでいる。

 そのうち、俺があまりよく覚えていないのに気がついたらしい周りの人は自己紹介をし始めて、あー、こんな人もいたなあ、みたいな感想を抱いた。

 ……それもそのはず。

 うちの人(と言っても父親だが)は、親戚付き合いがあまり良くなくて、こういう集まりに顔を出したりはしない。

 昔はもう少しここに来ていたような記憶もあるが、お盆前とか、年越しから一週間が過ぎたあとだとか。

 いや、俺もはっきりとは覚えてはないから、決めつけは良くないのではあるが。

 あれも食べてこれも食べて、と取り皿に食べ物を沢山盛られて、奥からはエンドレスで米が出てきて。






563: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/24(月) 21:03:21.27 ID:Foxw87Jw0


 昨年は楓ちゃんが来たなー、と誰かが言ったのを皮切りに、その話で盛り上がりだした。
 いちご狩りに行ったらしい。聞いていない。

 今年は受験生なんで来れなかったみたいです、と俺が口を挟むと、あー受験生ね……なんていう地味な反応が返ってきた。

 多分何度か小さい頃に行ったことのある駄菓子屋の店主や、三軒先の気のいいおばちゃんの息子だったりは姉のことがえらくお気に入りのようで、
 姉の人当たりの良さというか、そこらへんは詳しく知らない一面なのかもしれない。

 ゆかりさんの危惧していた(?)ことにはならなそうで、
 なんだ、やっぱりからかわれただけなのか、と少し安心しかけたときに、がらっと奥の扉が開いた。

 その音の主は、どうもどうも、と言って部屋に入ってきて、俺の顔を見るなり、わかりやすく驚いた顔をした。

「おお、こっち来てたのか……。ひさしぶりだな」

「おひさしぶりです」

 急に話しかけられたもんだから、俺もその場に立ち上がって、軽く会釈をした。

「……おっきくなったなー、いまは高二だっけか」

「そうですよ」

「身長なんぼあんの? 俺よか全然でかいじゃんか」






564: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/24(月) 21:03:52.66 ID:Foxw87Jw0


「……えっと、でも180ないくらいですよ。そんなに大きいわけでもないというか」

「まあまあ、素直に喜んどけ。で、席は席は……っと」

 あらかた埋まっているなかから空席を探している彼に、たくさんの人が声をかけていた。

 彼──ハジメさんは、父親とゆかりさんの兄で、この家の長男だ。

 気を利かせた人が親戚らの集まるここにハジメさんの場所をつくったようで、結局彼は俺の向かいに座ることになった。

 そして暫くは、ここらの地域のことだとか、親戚付き合いのこととか、俺にあまり関係のない会話で盛り上がっていて、その間に机に残ったものを食べた。

 ちらっと、向こうに気付かれないようにゆかりさんとなぎさのいる方向を見た。

 声は聞こえないが、二人は楽しく談笑しているようだった。






565: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/24(月) 21:04:33.58 ID:Foxw87Jw0




「で、こっちには一人で来たのか?」

 不意に、俺に話題が振られた。
 慌てて箸を止める。

「いや、えっと……。あっちにいる子と二人で」

「あっち……って、ゆかりの隣の子か?」

「うん」

「……彼女か?」

「……付き合ってはなくて、学校の後輩の子……なんだけど」

「うーん、別に誤魔化さなくてもいいんだぞ」

「……」

「彼女のこと放ったらかしにするなんてダメじゃないか、ここに呼んできなさい」

「いや、まず彼女じゃないんで」

「いいから、呼んできなさい」






566: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/24(月) 21:05:26.30 ID:Foxw87Jw0


 話を聞かないのか、この人は。
 俺がここに連れてこられたのが問題であって、あっちに戻れば済む話なのではあるが、そういうことではないらしい。

 ……面倒、というか厄介だ。

 仕方がないから呼びに行くと、ゆかりさんが立ち上がって、ハジメさんの所へ行った。

「はるくん、どうかしたんですか?」

「あー……。なんか、女の子連れてきたんなら紹介しろ的な」

「え、っと……。そうですよね、私まだ誰にも挨拶してませんし」

「付き合ってるって勘違いされてるっぽくてさ」

 言うと、なぎさはふむと首をかしげた。

「それは、私とはるくんがですか?」

「そう」






567: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/24(月) 21:06:17.47 ID:Foxw87Jw0


「……じゃあ、彼女で通しましょうか?」

「……ばかか、おまえは」

「えー。まあ、いちいち訂正するのも面倒だなって思っただけなんですけどね」

 危うく本気にしそうになっちゃうだろうが。
 自分の素直さに呆れるばかり。

「あっち行かなくて大丈夫だよー。なぎさちゃんはわたしと楽しくおしゃべりするからって言ってきたから」

 ゆかりさんナイス助け船。
 さっきのってこういうことだったのだろうか。

「そうですか」

「じゃ、俺もここにステイしようかな」

「それはダメ。はるはあっちに戻りなさい」

「どうして」

「いいから」

 そう言われたらそう言われたで、また聞き返すのも忍びないので、特に考えず戻ることにした。






568: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/24(月) 21:07:09.00 ID:Foxw87Jw0


 そして、戻ってすぐ、お茶を飲み干して空いているグラスにお酒が注がれた。

「……」

 二度見する。
 普通にお酒だ。泡立ってるし、俺のグラスだし。

「飲んだらどうだ?」

「えっと、俺まだ未成年なんだけど」

「いいから」

 おお、初遭遇。
 保健体育の教科書にイラスト付きで書いてある親戚に酒を無理やり飲まされるやつ!

 心の中でテンションをあげてみたものの、余計飲む気にはならなかった。

「ひょっとして、まだ酒飲んだことないのか?」





569: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/24(月) 21:07:59.16 ID:Foxw87Jw0


 頷く。

 というのも、中学の時は知り合いで酒を飲んでいる人もいたが、高校は比較的真面目な人の集まる進学校であるから。

 コンビニで明らかに年齢が微妙な人もいるし(スルーして良いものなのか判断に困る)そりゃ探せば一定数はいるだろうけど、自分と関わりのある人は酒を飲んだりはしていないはずだ。

 まあ、まず法律的にアウトなことには変わりはない。

「高二にもなって? 友達と飲んだりしないのか?」

「しない、けど」

「はあ……。おまえもマジメちゃんかよ」

「……」

 そっちのほうがおかしいってのに、その言い方はどうなんだ。





570: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/24(月) 21:08:31.40 ID:Foxw87Jw0


 黙っていると、ハジメさんは呆れたようにため息をついて、俺を睨みつけた。

「ひさしぶりに会ったってのに。……ほんとそっくりだよな」

「……」

「そうやって困ると黙るところ、あいつにそっくりだよ」

 あいつ、か。

「あいつはどうしたんだ? こっちには来てないみたいだけど、どうしてだ?」

「……父さんのこと、ですか?」

「そうだ」

「父さんは、仕事忙しいから行けないって」

 言ってないけど。そうだろう。

「……まあ、そうだろうな。あいつのことだ」

「……」

 ……俺は、あまり真面目ではないと思っているし、今だって考えずに酒を飲んでしまえばいいのかもしれない。

 コミュニケーションと言われればそれまでで、半ば強要ではあるけれど悪気はないのかもしれない。






571: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/24(月) 21:09:45.28 ID:Foxw87Jw0


 でも、それを避けようとする、嫌に思うのはやっぱり内面ではどこか真面目であるからで、
 父親や姉だったら、こういうのは駄目だと言いそうだ、

 なぎさがいるから、変に酔って迷惑をかけることなんてできない、
 ゆかりさんはいるけれど一人きりにするのは申し訳ない
 と、いくつか要素があっても、つまるところ俺の精神性で、やめろと言っているのだと思う。

 どこかで誰かが必ず見ている、だから、悪いことはするな。

「また黙るのか。飲むのか、飲まないのか、どっちなんだ?」

 言いながら、ハジメさんは自分の酒を呷る。
 周りの人もみんな酒を飲んでいる。

 でも……。

「……お酒、ほんとダメだろうから。
 多分苦手だし、ごめんなさい、飲めません」

「はあ、おまえもつまらないやつだな」

「……」






572: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/24(月) 21:10:28.69 ID:Foxw87Jw0


「そんなふうにしてると、あそこにいる彼女にも、いつか愛想尽かされちゃうかもしれないぞ?」

 いいのか? と彼は嫌味ったらしく言う。

 今までのやりとりとそれとの間に何か関係があるのかは、まったく掴めない。

 ……わけでもない。彼の言いたいことはなんとなくわかる。

「頭だけはいいんだよな、あいつと同じで。それで、腹のなかでは他人を見下してる」

「……」

「その目だよ、その目。俺のことが嫌いか? こうなったのはおまえが原因だろうが」

 いつの間にか、睨みつけてしまっていたらしい。
 けれど、どうしてこんなことを言われなければならないのか、理解できなかった。





573: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/24(月) 21:11:17.51 ID:Foxw87Jw0


 俺に会ったら文句を言おうと決めていたとか、気に触ることばかりしてしまっただとか、考えればキリがない。

 父親とハジメさんの仲があまり良くないのは知っていた。
 でも、兄弟喧嘩の延長なら俺を巻き込まないでほしい。

 困った。
 モヤモヤする。

 考えると黙ってしまうのは本当だ。

 面と向かって誰かに悪口を言われるのはひさしぶりで、かなり気分が悪くなる。

 答えずにいると、彼は軽く舌打ちをした。

 こういうこと、だったのだろうか。

 父親と実家の人たちの不和。
 けれど、証拠が足りない。

 耐えきれずに目を奥に向けた。

 さっきと打って変わって、ゆかりさんと案外すんなり目が合った。






576: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/01(火) 12:06:33.90 ID:XIseVXBL0




「ごめんなさい、付いて来てもらっちゃって」

「いや……ここ広いし、廊下暗いだろうから、しょうがない」

「……ありがとうございます」

「いいって」

「……あの」

「なに?」

「……ゆかりさんってエスパーなんですか?」

「ん?」

「いや、あの……。私がトイレに行きたいってよくわかったなって」

「ああ……。なんでだろうね、なぎさがめっちゃモジモジしてたんじゃないの」

「それはないです」

 おうよ。
 知ってるわ。






577: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/01(火) 12:07:08.05 ID:XIseVXBL0


「ちょっと、疲れちゃいましたか?」

「……え?」

「いえ、疲れたような顔をしていたので」

「そんなこと……ない、と思うけど」

 あるから困る。
 疲労というよりは心労。嫌になる。

「……何かあったんですか?」

「ないよ」

「すぐ否定すると、逆に怪しいですよ」

「確かにそうだな」

 察しがいいのも困りどころだ。

「なぎさは……疲れた?」

「いえ、そこまででもないですよ。
 食べ物も美味しかったですし、ゆかりさんと話すのも楽しかったです」

「どんな話したの?」

「ヒミツです」

 じゃあ無理には訊かないか。
 と思ったところで、目的地に到着した。






578: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/01(火) 12:07:40.51 ID:XIseVXBL0


「ここ、電気つけとくから、戻るときに消してきて」

「わかりました」

 じゃ、とその場から離れようとすると、彼女は俺の手をぐいと引っ張った。

「……」

 振り返ると目が合った。
 彼女は顔を赤くして俯く。

「あ、えと……。いや、なんていいますか」

「暗いの怖い?」

「え」

「いや、付いててほしいならここにいるけど」

 ……半分くらいは俺の願望なんだけど。まあ、これもしょうがない。

「……そういうわけじゃなくて」

「……」

「あっ、そういうわけじゃなくもないんですけど……」

「どっちだよ……」

 なぎさはうむむと唸って、もう片方の手をぶんぶんと上下させた。






579: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/01(火) 12:09:22.90 ID:XIseVXBL0


 再び目が合う。今度は逸らされなかった。

 お互い深呼吸をした。なぜか同時に。

「──今日水族館で」となぎさが切り出した。

「ラッコが、いたじゃないですか」

「……うん? いたけど。それが?」

「二匹で、手を繋いで寝てました」

「……」

「ぷかぷかっと、幸せそうに見えました」

「うん」

「あれは流されないように、とか、コンブが水族館にないから、だとかが理由らしいです」

「そうなんだ」

 初耳。

「です……けど。でも、それよりも……。どう言うのが正解なのかわからないですけど。
 手を繋いでると、安心しませんか?」

「……」






580: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/01(火) 12:09:53.23 ID:XIseVXBL0


 どうだろう。

 答えあぐねていると、ふうっと息をつく音がした。

「……おまじない、みたいなものです。
 あとは一人で大丈夫ですから、戻ってていいですよ。
 付いてきてくれてありがとうございました」

 そう言って手を離されて、バタンとドアが閉まった。

 個人的に何か理由を付けて待っていても良かったのだが、女の子が入っているトイレの前にいることが少し気恥ずかしくなって、戻ることにした。

「おまじない、か」

 歩きながら、そう呟いてみた。
 でも、あまり釈然としない。

 なんだかひどく、頭がいたかった。
 あっちに戻って、また同じようなことを言われたらどうしようか。

 彼が言いたかったのは、うちの両親のことだ。

 逃げられた。
 ……違う。

 きっと、みんな知らない。
 父さんからすれば、仕方がなかったのかもしれない。

 詳しくは訊けなかった。
 申し訳ないから、思い出したくないけれど、いろいろなことがあったから。






581: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/01(火) 12:10:24.75 ID:XIseVXBL0


 部屋に戻ると、食事は既に片付けられていて、人の数がかなり減っていた。

 三つ並んでいた長机は、一つの大きな円卓に変わっていて、それを残った人が取り囲んでいる。

「おかえり」

 ゆかりさんに手招かれて、端に腰掛けた。

「なぎさちゃんは?」

「まだトイレ、行くまでにちょっと話してたから」

「そっかそっか」

「人減ってない?」

「なんかね、温泉行くって言ってみんなで出てっちゃった」

「そう」

「……わたしたちも行く? ちょっと遠いけど」

「いや、いいよ」

 疲れているから。

「ゆかりさんは、お酒飲まないんだ」

「うん。すぐ酔うから弱いし、お酒は苦手なんだよー」






582: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/01(火) 12:11:12.72 ID:XIseVXBL0


「でも、常に酔ってるみたいじゃん」

「うぐっ、それ同僚の子にも言われたことある……。
 うちの人で、お兄ちゃんとわたしだけ全然飲めないんだ」

「……父さんは、うちに帰ってきたときは飲んでるけど」

「ほんと?」

「うん」

「そっか……。うーん、苦手じゃなくなったのかな?」

「……わかんないけど、少なくとも前よりは」

「まあ、はるは絶対飲んじゃダメだよ」

「……なんで?」

「両親ともに苦手なら、絶対子どもも苦手でしょ」

「遺伝?」

「下戸かどうかは、遺伝あるらしいって聞いたことあるよ」

「そうなんだ」

 時計は二十二時過ぎを指していた。
 知らないうちにかなり時間が経っていた。






583: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/01(火) 12:11:43.46 ID:XIseVXBL0


 集まりのほうに目を向けると、一人一人立ち上がって、選手宣誓のようなことをしていた。

 よく見ると、残っていたのはさっきまで俺の周りにいた人たち。
 つまり、町内会や近くに住んでいる人たちが多く残っていた。

「あれ、何やってるの?」

「……いつもやってるけど、なんだろうね?」

「……ゆかりさんは混ざらないの?」

「えー、やだよー。ムリムリ。
 今日も『うちのとお見合いしないか?』って何回もいろんな人に言われて……」

「それ自慢?」

「……いや、かなりヘコんだって話」

「そうすか」

「うん、この話はいいとして……。なぎさちゃん遅くない?」

「見てこようか?」

「……わたしが行くよ」

「そう? じゃあ、よろしく」

 びしっと敬礼みたいなポーズをして立ち上がって、ゆかりさんはそろそろと部屋の外に出て行った。






584: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/01(火) 12:12:19.97 ID:XIseVXBL0


 あ、と。
 一人になったことに気付く。

 ぼーっとあっちの様子を眺める。

 中年くらいの人が大きな声で自己紹介をしたあと、コップの飲み物を一気飲みして、そのあとにみんなで拍手。

 地獄か、あれは。部活の朝練じゃないんだからさ。

 ここで出て行く素振りを見せようものなら、当然のように引きとめられて酒を飲まされる未来が見えてきた。

 何というか、想像力だけは豊かになっているらしい。
 この時間になって頭が冴えてきたような気もする。

 とりあえず、壁にもたれかかって地蔵になることにした。

 こんな時にすることといえば瞑想。
 でもすぐ飽きる。経験談。

 姉は家に一人で寂しがってないだろうか、なんて。
 比較的ポジティブな想像。よりも妄想。

 あー、とりあえず姉に連絡入れとくか。

 にしても遅えな……。
 どっかに散歩にでも行ってるのか。

 荷物の中から本か何かでも持って来れば良かった。ズボンのポケットに入れっぱなしにしたスマートフォンを取り出すのも何だか気が引けた。






585: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/01(火) 12:12:49.16 ID:XIseVXBL0


「どうしたの?」

 声をかけられる。
 昔聴いたことのある声。

「……どうもしないですけど、することもないので」

「あ、そう……。ゆかりとなぎさちゃん? は、後片付け手伝って貰ってるけど」

「薫乃さんは? サボり?」

「いやいや。私は休憩、仕込みとか大変だったんだよ」

「そうなんですか」

 この人も、久しぶりといえば久しぶりなのか。

「もー、無愛想だなあ。久しぶりに会うのに」

「はあ……」

「にしても、彼女連れてくるなんて!」

 まあ、そうなるよな。話題らしい話題もないし。

「いや、彼女じゃないです。なんでかいろんな人に勘違いされてるみたいですけど」

「そうなんだー。ま、若いときはそういうことあるよね」

「……」

「一緒に登校してるのを見られるとか、学校で話してるのを見られるとか」

「リアルですね」






586: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/01(火) 12:13:38.68 ID:XIseVXBL0


「何度も言われてると、そのうち満更でもなくなるやつ、経験ない?」

「ないです」

 あります。

「……ていうか、おばさんとする会話じゃないよね」

 はあ。反応に困る。

「……薫乃さんの経験談?」

 何てことのない軽口。
 なのに、目が合うと彼女は目を泳がせた。

「……いや、そうじゃないけど」

「……」

 墓穴。なのか? よくわからない。

「あのさ……」
「おい、そこにいる二人。こっちに来なさい」

 薫乃さんが口を開くと同時に、向こうにいるハジメさんから呼び出される。

 見つかった、というか、見てはいたんだろうけど、薫乃さんといるのを見て話しかけてきたらしい。

 薫乃さんの肩がびくっと跳ねる。
 そして、俺の様子を気にするように、そーっとこちらを見つめてきた。






587: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/01(火) 12:14:15.14 ID:XIseVXBL0


「別に、大丈夫だと思うよ」

 ぼそっと、薫乃さんにしか聴こえないような声で返答した。

 今回はゆかりさんの助けはない。
 逃げるようにしたのも、バレバレだったとも思う。

「……で、だ」

 パンパン、とハジメさんが手を叩く。
 つまみとともに酒を飲む人たちの手が止まる。

「あいつはどうした?」

 彼は俺に、まっすぐと問いかける。すぐに俺に注目が集まる。
 のっけからさっきの続きを話そうか、ということか。

「さっきも言いましたけど、仕事とかで忙しいんだと思います」

「この季節に? 親戚が集まっているのに?」

「……」

「楓ちゃんは?」

「家にいると思います」

「一人で?」

「はい」

「じゃあ、普段は家にずっと二人なのか?」

「……そうです」






588: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/01(火) 12:14:53.14 ID:XIseVXBL0


「ほら、話した通りじゃないか」

 そう言うと、周りにいた人たちが苦い顔をする。
 憐れむような目で見つめられて、気分が萎える。

 いや、まだ大丈夫なはずだ。

 後手を踏まなければ、或いは。

「姉弟どっちもまだ高校生だろ? それに、楓ちゃんは受験生らしいじゃないか」

「……」

「子どもを放置するなんて、悪い親だな」

 どっちみち、答えようがない。

「……おまえはどう思ってるんだ?」

「どうって……」

「嫌いなんだろ? おまえも、あいつのことが」

 おまえ"も"。

「こっちに帰ってこない。帰ってきても顔を合わせようとすらしない。
 そっちに出て行ったっきり、そのままだ」

「……」

 ため息が出そうになる。






589: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/01(火) 12:15:45.45 ID:XIseVXBL0


 答えようがない質問で、でも答えないと嫌な顔をされて。

 形だけ見れば正論をぶつけられていて、余計タチが悪い。

「……薫乃だって、そう思うだろ?」

「え?」

「薫乃、どうなんだ?」

 急に矛先が薫乃さんに向かった。
 薫乃さんと父親は、何か特別な接点でもあったのだろうか。

「私は……別に」

「別にって、別になんだ?」

「……」

 薫乃さんは押し黙る。
 わけがわからない。

 目の前で自分の親のことを悪く言われている。
 深い苛立ちのようなものを感じる。今まで言われたことが無かったからだろうか。

「……私、ちょっと戻ってます」

 沈黙を破るように、薫乃さんはそう言ってから立ち上がり、そそくさと扉の方へ向かっていった。






590: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/01(火) 12:16:36.10 ID:XIseVXBL0


「どう思うよ、ハル」

「……何がですか」

「あいつは、ここにいる人全員を見下してるんだ。
 自分の世界に入り浸って、不都合になるとすぐに切り捨てる。田舎を捨てたのだってそうだ」

 ……。

「おまえの母さんだって、愛想を尽かして出ていっちゃったじゃないか」

「……」

「可愛らしい奥さんだったのに、あいつのせいで。
 奥さんを連れてこようともしない、結婚式だってしなかったじゃないか」

 ……そんなの知らねえよ。

 母さんのことを言われると、迂闊に反論はできないし、彼の言い振りから、やはり此処にいる人は誰もわかっていないのだ。

「子どもは親を選べないからなあ」

 俺のことは御構い無しに、矢継ぎ早に言葉を投げかけられる。

 周囲の人もうんうんと頷く。






591: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/01(火) 12:17:55.96 ID:XIseVXBL0


「おまえも、あいつに似てきたな。
 やっぱり親子だ、そっくりだ」

 似ている。そっくりだ。さっき言われた通りのことだ。

 確かに、あんな親にはなりたくない、と思ったことはある。
 というよりも、思っていた。

 でも、何故か今の俺は苛立ちを募らせていた。

 二人では広すぎる家、不安定になった姉、半ば自暴自棄になった俺。

 おかしいのは自覚していた。言われなくともわかる。姉だってわかっている。

 誰か助けてくれればいいのに、母さんがいてくれればいいのに。

 家にいるのが気持ち悪いと思うようになって、平穏が訪れたかと思えば、その代償は大きくて。

 どうして、またこんなことを考えなければならないのだろう。






592: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/01(火) 12:18:36.65 ID:XIseVXBL0


「どうしておまえは、母親のほうに付いていかなかったんだ?」

 耐えろ、やめろ。

「……まただんまりか。あの親にしてこの子有りだな」

 頭が痛い。

「そういえば、あの子再婚したんだってな。
 結果的には良かったじゃないか、あいつから離れられて。今は凄く幸せなんじゃないか」

「……」

「楓ちゃんが可哀想だ、あんなにいい子なのに、こんな家族の中にいて」

 ぐらり。
 何かが歪むような音が聴こえた。

 偏頭痛のような痛みと、胃の中の物を吐き出してしまいそうな不快感。

 いつの間にか、拳を強く握ってしまっていた。

 俺は、それだけは言われたく無かったのかもしれない。

 俺のせい、俺が悪い、俺が我慢できなかったから。
 そう言われているようだった。






593: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/01(火) 12:19:12.04 ID:XIseVXBL0


 父さんは、母さんに捨てられて。

 ……違う。違うんだ。

『わかった、なんとかする』、と酷く気落ちしたような表情と声音で言われて、一人で解放されたような気分になってしまって。

 父さんに内緒で母さんと会っているのだって、罪滅ぼしのつもりだった。
 今は少し、変わってきているのかもしれないけれど、ちょっと前まではそれ以上でもそれ以下でも無かった。

「伯父さん」

 無意識に、そう口に出していた。

「なんだ?」

 挑発的な態度をひけらかすように、彼はにんまりと嫌な笑みを浮かべる。

 ……ああ、わかってしまった。

 伯父さんは、ここにいる人は、俺のことをよく思っていない。

 さっきから感じていた違和感は、そういうことだったのか。

 俺は、彼らから見て、"そういう存在"なんだ。
 糾弾すべきもの。悪い親に似てしまった子。

 そう見られているんだ。






594: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/01(火) 12:19:44.51 ID:XIseVXBL0


 それは忠告か。それとも、単に俺にストレスをぶつけているだけなのか。

 間違いなく、後者だろうな。

 考えてみても、心配なんて、された試しが無かった。
 本当に俺らのことを案じて、悪い環境にいると知っていたなら、何かしてくれたはずだ。

 住んでる場所が違う、父親と疎遠になっていた。

 何か関係があるのだろうか。

 父親への負の感情を置換して、俺にぶつけようとしている、ただそれだけではないか。

 人を殴るような経験は無い、が……。
 でも、握られた拳は、正座の後ろで床を鳴らしてしまいそうなくらい震えている。

 落ち着け。
 ……冷静になれ。

 真意が汲み取れて、なおも相手にする必要があるか。

 俺以外に迷惑がかかる。ただでさえ悪い付き合いがさらに悪化してしまう。

 ──なら、取るべき行動は一つだけじゃないか。






595: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/01(火) 12:20:14.32 ID:XIseVXBL0


「……お酒、貰っていいかな」

「うん? なんて?」

「だから、俺も、もう子どもじゃ居られないから。お酒、飲んでみたいなあって思ったんです」

「……ほ、ほう。じゃあ、これ飲んでみなさい」

 コップを渡されるなり、躊躇せずに飲み出した。
 社会の基本、一気飲み。あー、意外といけなくもない。無理してテンションを上げようとする。

「もう一杯、お願いします」

 ハジメさんと周りの人は唖然として口をぽっかりと開けていた。

 差し出したコップに、次は日本酒が注がれた。

 それも間髪入れずまた飲み干す。

「美味しいですね……みなさんは飲まないんですか?」

「あ……じゃあ、飲みましょうか……みなさん」






596: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/01(火) 12:21:07.88 ID:XIseVXBL0


「おかわり、もう少し下さい」

 話を聞かない人に対しては、俺も取り合わないのが得策だろう。

 お酒の味なんて全く感じなくて、美味しいも不味いも好きも嫌いもよくわからない。

 ただ、このひと時でのその場しのぎは、どうにかなった……はずだ。

 周りの人は少しずつばらけていって、時を同じくして何人かがこの家に戻ってきて。

 話が弾んでいる。らしい。
 どうでもいいことは聞き流す、注がれたものはとりあえず口に流し込む。

 ……あったまいてぇーな。

 つーか、やっぱ無理だろこれ。
 五杯目? いや、もっと飲まされたかも。

 頬が熱い、頭痛が酷い。

 部屋の明かりがやけに眩しい。

 ぐるぐると目が回る。

 まだハジメさんは俺に何か話しかけてきているのに、頭が働かなくて。

 扉のほうから声がして。ドタドタと近付いてくる足音がして。

 肩を掴まれる。

 頑張って顔を上げようとしたけれど、うまく身体が動かなくて、支えられた側に倒れてしまった。

 ……慣れないことなんて、するもんじゃないな。






597: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/01(火) 12:21:43.18 ID:XIseVXBL0




 涼しい。

 季節は夏。そんでもって今は夜か。
 虫の鳴き声と、心地いいような風。

 嫌な夢を見たような気がする。
 覚えていないけれど。

 どうでもいいことばかり頭に浮かぶ。

 目を開けて、まばたき。
 身体(特に節々)は痛いけれど、起き上がるくらいなら。

「起きた?」

 顔を覗き込まれて、手には団扇。
 ゆかりさんだ。

「う……」

 喉痛い。

「どうしてここにいるか覚えてる? 気持ち悪い?」

「びみょう」

「……お酒飲んだんだよー。わたしが行ったら、はる倒れちゃって」

「あー……」

「どれくらい飲んだの?」

「えっと……六? 七くらい」






598: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/01(火) 12:22:42.27 ID:XIseVXBL0


「……吐きそうとか、暑いとかないよね」

「うん。多分だけど、大丈夫」

 胃の不快感はあるが、昇ってきそうなほどではない。
 寝げろ、もしてないっぽいし。

「……何が、あったの?」

「まあ、いろいろ」

「……」

 あまり思い出したくない。
 顔にそう出ていたのか、ゆかりさんは視線を下に落として、軽くため息をついた。

「わたし、お酒とか夜食とかの買い出し頼まれてて、もう行かなくちゃならないんだけどさ」

「うん」

「ここに一人で大丈夫?」

「……なぎさは」

「あー、えっと。お手伝いしたいって言うから、いろいろやってもらってる」

「……客なのに」






599: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/01(火) 12:23:27.01 ID:XIseVXBL0


「い、いや……。あの子わたしよりも料理上手だったし、家事とか好きなんじゃないかなと」

「……」

「……お母さんも、張り切っちゃってね」

 実際、俺もこの状態では会いたくない気持ちはあるから、助かっているのかもしれないけれど。

 あの場になぎさは来ていなかったようだし、そこはゆかりさん達に感謝しなくてはならないのではあるが。

「俺も買い出しについて行っていいかな」

「うーん……動けるなら、いいけど。酒屋までは距離あるからだいぶ歩くよ」

「……ゆかりさん飲んでないなら、車でいいんじゃないの」

「や、わたしも……チューハイ一本か二本くらい飲んじゃったから」





600: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/01(火) 12:24:02.98 ID:XIseVXBL0


「……まあ、とにかく歩くのは大丈夫っぽいから、付いてくよ」

 立ち上がってみせる。

 立眩み。ふらつく。

「だめじゃん」

 苦笑される。
 自分でも乾いた笑いが出た。

「しゃあない。歩いて回復、これ基本」

 よくわからないことを言っていた。

「……倒れたりしないでよね、運べないから」

 そう言って、ゆかりさんも立ち上がった。

 許可は出たらしい。

「ゆかりさんもフラついたりしないの? お酒弱いんでしょ」

「なっ……。いや、さすがに、ほろよい二缶ではならないし!」

「まあ、そこらへんはよくわからないけど、行こっか」

 歩き出すことにした。
 時刻は二十四時近く。

 さっき時計を確認した時から、そう時間は経っていないのに、
 寝てたからか、なんなのか、日付が変わっていないことに驚いた。






604: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/03(木) 21:35:27.20 ID:+h2mT4zN0




 動き出しても、まだ頭の中はぐるぐると回ったままだった。

 月はかげっていて、辺りはほぼ真っ暗闇。
 かろうじて数メートルおきにある電灯で視界を確保して、ふらつく身体を押して歩いていた。

 危なっかしいから手を繋ごうか、と言われて、なぎさとのやり取りを思い出して、
 手が熱いとかなんとか理由をつけて断ってしまった。

 酒屋に寄って、頼まれた物を購入する。
 この時間までやってるだけあって、店主も酒を呷っていた。

 行きの道中はほぼ会話はなく、隣より一歩後ろを歩いていて、なんだか申し訳ないような気分になった。

 俺が二袋、ゆかりさんが一袋持って外に出ると、柔らかい風が頬を撫でた。

 体温調節がうまくいかない。
 砂利道を歩いて、少し舗装された所に行って、家に戻って。

 泣きそうだ。そう考えつつ泣いたりはしないんだけれど、こう、気分が沈む。

 どうにかして、時間を使いたい。





605: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/03(木) 21:35:59.78 ID:+h2mT4zN0


 思えば、ああなると分かっていて、なぎさを遠ざけてくれたのかもしれない、
 それなら、俺が戻ってくる前に対処したのではないか?

 でも、仮にゆかりさんがいなかったら、何をされたか、何を思われたか、見当がつかないほど酷くなっていた可能性は高い。

 糸口が見つからない。

 ──あなたの目は透きとおる 暗い海の底で……

 知ってる歌をゆかりさんが口ずさんだ。
 すぐに一歩前に出た。

「……俺は、あんまり帰りたくないんだけど」

「……なんて?」

「あ、えと……歌詞の話」

 ゆかりさんの足が止まった。
 勢いで追い越してしまって慌てて振り返ると、彼女の袋を持っていないほうの手は、力無さげに服を掴んでいた。

「……ごめん」

 いつもより若干トーンが低い。






606: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/03(木) 21:36:49.59 ID:+h2mT4zN0


「いや」

「わたし、分かってたのに……。
 こうなっちゃうなら、最初から全部説明しておけば良かったよね」

「……」

「ほんとに……ごめん」

 謝らせたいなんて思っていないし、謝られる謂れもない。

「さっき、本当は何をされたの?」

「……」

「言いたくないこと、なのは……分かってるけど」

「……うん」

「お兄ちゃんのこと、だよね?」

 あの人たちの様子からして、日常的にあの話、もしくはそれに付随するような話をしているのは間違いない。
 それなら知っていておかしくはないし、兄弟仲の問題ならなおのことだ。
 或いは、あの場から退散した薫乃さんがゆかりさんにそれらしいことを言ったのかもしれない。

「……ゆかりさんは、父さんのこと嫌い?」

「……どうして」

「いいから。どう思ってるの?」

「どうって……もちろん好きだよ」






607: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/03(木) 21:37:31.62 ID:+h2mT4zN0


「じゃあ、俺と……姉さんのこと、可哀想って思う?」

「……そう言われたの?」

「……」

「……最低」

「……でも、だからなんだって話だよね……ごめん」

「……ちょっと待って。どうして謝るの」

「……」

 自分でも、どうして謝ったのか。

 その場でゆっくりと首を振ると、ゆかりさんは地面に袋を置いて、空を見上げた。

「いつも、なの」

「いつも?」

「うん、いつも。……集まってお兄ちゃんの悪口を言ってるの」

「……そっか」

「でも、今日はさすがにそんな話なんてしないって思ってて、ハルがいるし。
 それに、楓が来たときは何ともなくて、それで……」

 まあ、そうだよな。
 同じ立場なら、俺だってそう思うだろう。






608: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/03(木) 21:39:04.01 ID:+h2mT4zN0


「ゆかりさんは、なぎさを遠ざけてくれたんでしょ?」

「……」

 答えはない。けれど、俺の予想はきっと間違っていないはずだ。

「……俺もあの場からいなくする、ってのは難しいと思うし、仕方ないというか」

 ちゃんと確認せずに来た俺が悪い。

「……うん」

「どうしてそうなったのか」

 息を飲む音が聞こえた。

 当初の目的はこれだった、躊躇いはあるが、ここまできたら訊いてしまうべきなのかもしれない。

「どうして父さんがそうなってるのか、訊いてもいい?」

「……」

「駄目なら、強要するつもりは全くないけど……」

 正直に言うと、怖いのかもしれない。
 そうでないならもっと単純に、俺が知りたいから話してほしい、と言えたかもしれない。






609: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/03(木) 21:40:42.64 ID:+h2mT4zN0


 えっとね、話してもいいんだけど、と言われてすぐに身構えた俺に、ゆかりさんは戸惑っているように見えた。

「うん……大丈夫、だから」

「……実際に喧嘩しているのは見たことないし、わたしの想像の域を出ないけど、それでもいい?」

「大丈夫」

 言い切った俺に安心したのか、ゆかりさんは一息ついて、歩きながら話そうと促してきた。

 断る理由もなく、歩き出したゆかりさんの隣に並んだ。

「……多分、原因は嫉妬だと思うの」

「嫉妬?」

「うん……」

「それは、ハジメさんが、父さんに、ってこと?」

「そう」

「……どうして」

「お兄ちゃんは、頭がよかったの」

「……」






610: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/03(木) 21:41:32.14 ID:+h2mT4zN0


「それで、運動もできるし、人付き合いもいいし、学生の時は、男女問わず人気があった」

「……それで?」

「それに比べて、あの人は地元の高校出たっきり、仕事もまともにしないでふらふらしてて」

 そうなのか。

「……お母さんとお父さんは体裁を気にして、自分たちの会社にあの人をねじ込んだんだけど、あんまり仕事もできなくて」

「……」

「長男よりも次男がほぼ全てにおいて優れてて、周囲の人からの期待も、親からの期待も、全部お兄ちゃんに向かってた」

 お兄ちゃん。あの人。
 十五も離れていると、そういう感覚なのだろうか。
 いや、それを言えば父さんとだって離れている。

「わたしが小さい時はいつもお兄ちゃんが遊んでくれて、他にも勉強見てくれたりしてくれて……」

「じゃあ……どうして今は」






611: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/03(木) 21:42:35.10 ID:+h2mT4zN0


「……」

 ゆかりさんは黙ってしまった。

 なんとなく、いろいろなことが整理できていないとでも言いたげな顔をしていたように思える。

「……わたしがもしこれを話したら、ハルは、きっとものすごく困ると思う」

「それは……」

「この話は、本来わたしが話すべきことではないけど、でも、わたしが話さなきゃずっと知らないままで、
 わたしは自分の発言に責任なんてとてもじゃないけど取れないし、聞いたら多分後悔すると思うの」

「……」

「それでも、続きが欲しい?」

 俺が後悔する。
 つまり、俺が訊いているのは既に兄弟の枠組みを超越したものであるということだ。

 頭を巡らせてみても、それほどまでに惨いものは想像がつかない。

 でも、知りたかったのは、こういうことで、そのためにここに来たんだ。






612: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/03(木) 21:43:38.74 ID:+h2mT4zN0


 なら、ゆかりさんは知っているのだろうか。

 少なくともあそこの集まりの人は誰一人として知らないはずだ。
 父さんの母親、ばあちゃんですら、言葉の端々から察するに、何も知らない様子だった。

「……ちょっと、別の質問していい?」

「うん、いいよ」

「うちの両親は、どうして離婚したの?」

「……家庭を顧みないお兄ちゃんに、お義姉さんが嫌気をさした」

「……」

「──ってのが表向きの理由でしょう?」

 まあ、そうだ。
 他人から見れば合致しているし、整合性も取れている。

 結果は円満離婚。財産分与も無かったらしい。

「でも、実際は他の理由がある」

「じゃあ、それは何?」

 訊ねると時を同じくして、家の前に着いてしまった。
 まだ収まることを知らない騒がしい声に、身体が縮こまるような思いが湧き出てくる。






613: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/03(木) 21:44:34.33 ID:+h2mT4zN0


「浮気、でしょ。……知ってるよ」

「……」

「どうして訊きたかったの?」

 なんでもないように、彼女は言い切る。

「さっきの人たちは、一方的に父さんが悪いって詰ってたから」

「……そっか。じゃあ、知ってるのは、当事者二人と、わたしとハル、あとは」

「姉さんは知らない」

「……まあ、そうだよね」

 ゆかりさんは父さんから訊いたの? と口に出す前に、彼女はため息をついた。

 そして、困ったように口元を歪めた。

「それも含めて本当に知りたくて、ハルが後悔しても構わないなら、全部包み隠さず話すよ」

「……うん」

「みんなが寝静まる……二時半ごろかな。
 ここから抜け出して、外に出てきて」

 昔よく遊んだ広い公園で待ってるから。

 それに頷くと、ゆかりさんは俺の袋を奪い取って、家の中に入って行った。

 ゆかりさんは知っていた。
 そして、やはり他の人は知らなかった。

 約二時間後くらいだろうか、それまでに決めなければならない。

 覚悟が必要だ。楽になるか苦しむか、言われてみないことには分からない。

 ──どうしようか。






616: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/04(金) 21:00:20.71 ID:UDoya09g0




 家の中に入ろうにも入れなくなって、少しの間だけ外に出たままでいることにした。

 どうしてこうなってしまったのだろう。

 ゆかりさんの態度と言葉からして、俺に詳らかに話すことは躊躇しているはずだ。
 でも、彼女は言いたがっていたようにも見えた。

 父さんが、そこまで周囲から期待を持たれるような人物だったというのは、あまりしっくりとは来なかった。

 ……いや、言われてみればそうかもしれない、と気付く程度ではあるとは思う。

 まあ世間一般的な所のエリートで、学歴もそれなり、勤めている会社も広く知られている。
 母さんは大学時代の知り合いで、息子の俺が言うのもどうなのかと思うけれど、容姿は整っている部類だと思う。

 人付き合いは、あまり家族以外の人と関わっている姿をみたことがないからわからないけれど、そこまで悪いということはないだろう。
 この場所にいる人たちを除いて。






617: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/04(金) 21:01:20.90 ID:UDoya09g0


 ふと思い立って、ポケットから携帯を取り出して、電源を入れた。

 着信が一件、姉からだった。

 それは今から二十分前のもので、こんな時間に起きてるなんて珍しいな(家に一人でいる時なら)と考えて、かけ直すことにした。

 数コール待つと、すぐに姉は電話に出た。

「……姉さん?」

『あ、もしもし』

「こんな時間にどうしたの?」

『……特に意味はないけど』

「はあ」

『ていうか、まだ起きてたんだ』

「それを言うならそっちこそ」

『私はもうすぐ寝るけど、ちょっと眠れなくて……』

「そう。多分もーちょい起きてるけど」

『……大丈夫?』

「え? どうして」

『いつもよりテンションが低いような気がしなくも……』

「……電話だからじゃない?」






618: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/04(金) 21:02:51.38 ID:UDoya09g0


『うん。えー、でも』

「姉さんは? 一人で寂しくて眠れないとか?」

『……はあ? いきなり何の話ですか』

 急に敬語。

「眠れないって言ってたから、そうじゃないかなと」

『……いや、まあ、何となくハルの声が聴きたくなって。
 それが寂しいって言うんなら、そうなのかもしれないけど』

「素直にそう言えばいいのに」

『……うん』

「……」

 自分で言っといてなんだが。
 急にしおらしくなるな、マジで。

『ひとつ、お願いがあるの』

「なに?」






619: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/04(金) 21:03:33.52 ID:UDoya09g0


『私のこと、名前で呼んでみてくれない?』

「どうして」

『いいから』

「はいはい、じゃあ……楓?」

『……ふっ。じゃあ、次は楓、頑張って、と言ってみようか』

「意味あるの、これ」

『あるよ、ものすごく大きな意味が』

 なぜか自信ありげな口調だった。

「……か、楓、頑張って」

 いったい何のプレイだ。
 中途半端な恥ずかしさがこみ上げてくる。

『う、あー……。……いいねいいね、頑張れそう』

「……で、これをする意味は?」

『……何といいますか、私の身体が応援されることを欲していたの』

「なんだそれ」

 俺は笑った。電話の向こうで姉も少し笑っているようだった。

『ゆかりちゃんは? 近くにいる?』

「ううん、今はちょっと外に出てるから」






620: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/04(金) 21:04:17.76 ID:UDoya09g0


『……うんうん。ま、ハルの声も聴けたことだし、私はもう寝ようかな』

「うん」

『ハルも、あんまり夜更かししちゃダメだよ?』

 それじゃ、と言って電話を切られそうになる。

 その時になって、俺も寂しいと感じたのかもしれない。
 まって、と呼び止めると、姉は驚きもせずに『どうしたの?』と問いかけてきた。

「……姉さんは」

 姉さんは……。
 姉さんは、俺とずっと一緒にいてくれる?

 なんて、言ってしまいそうになった。

 もしかしたらこの先、家に一人なのが普通になるかもしれない。
 姉さんではなくて、俺が。

 さっき言われたことで、ずっと感じていた恐怖は少し大きくなって。

 遠くに離れられることが怖くて。






621: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/04(金) 21:05:00.32 ID:UDoya09g0


 自分のことは自分で整理しなければならない。
 そう思ったばかりなはずなのに。

『……ねえ、どうしたの?』

 不安感。でも、

「……はあ。やっぱり、俺も寂しいみたい」

『ふふ、……私の思ったとおり』

「適当言わないでもらえますか」

『えー、でも寂しいんでしょ』

「まあ、それは」

『明日には、うーん。今日か、帰ってきたら私に会えるじゃない』

 だから、そんなに不安にならなくてもいいんじゃないの、と平然としている様子で言われた。

 不安。なんて言葉は口に出してはいないが。

 どこか他人事とも取れるような物言いだったが、俺にとっては、それだけで十分だったのかもしれない。






622: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/04(金) 21:05:50.61 ID:UDoya09g0


「……姉さんってさ」

『うん』

「俺のことめっちゃ好きだよね」

 数秒間の沈黙。

 あー、なんか、俺も眠いのかもしれないなー。

『うん……好き、だよ』

「……まって、冗談」

『いや、えっと……はあ……冗談かあ』

 どんどんと音がする。
 何やら慌てている様子だ。

「何をしているのかね」

『ちょっと、クッション殴ってる』

「……ごめん」

『……そんで、元気は出たかね』

 ころころ態度が変わるらしい。
 まあ、引きずられても困るからそれはそれでありがたいが。

「はあ、おかげさまで。ありがとう」

『うんうん、それは良いことだ』






623: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/04(金) 21:06:32.08 ID:UDoya09g0


 じゃあ、と言って話を切りあげようとする。
 そうしたら、今度は姉が『……あ』と小さく声をあげた。

『……なぎちゃんに夜這いしたりしたらダメだよ?』

「いや、そもそも寝る場所が」

 違、わない?

『へー、やっぱり同じなんだ。
 まあ、何というか、良い夜を?』

「ちょっと待て」

 ぷくくっ、と笑い声が聞こえた。
 茶化されていたみたいだ。さっきのお返しか?

『……まあ、ヘタレのあんたにそんなことはできないだろうけど』

 だってほら、良い夜を、とか言われると、そういうことを想起するというか。

 性欲。無いわけではない。
 それに、相手はあのなぎさだし。

 するか? しないわ!
 ノリツッコミ。まったく、余計なことを言われたものだ。






624: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/04(金) 21:07:44.49 ID:UDoya09g0


「前も言ってたなそれ」

『そうだっけ?』

「うん、しかも一週前とか、それくらい」

『……だって事実でしょ』

「……まあ」

『ていうか、もう眠くなってきちゃった……じゃあね、おやすみ』

「えっ、おやす」

 ぷつりと音が途絶えた。
 おやすみくらい言わせてくれればいいのに。

 ラインでおやすみとスタンプで送ると、すぐに同じようなスタンプが返ってきた。

 そういえば、一緒に寝たいとか、こっちに来る前に言われたな、と思い出して、姉だって変わらないじゃないか、と思った。






625: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/04(金) 21:08:33.93 ID:UDoya09g0


 帰ったら、ひとまずそれでいじり倒そう。
 そんなことを考えるだけで、少しだけ気分が落ち着いた。

 ……落ち着いて、決めなくてはならなくて。

 けれど、とっくに答えは決まっていた。

 言われた時から、というよりは言われる前から。

 少しでも何かを得られるなら、得ておくのがベターな選択で、納得できるなら、それが現状でのベストな選択だと思う。

 家に入って二階に上がろうとすると、ゆかりさんに呼び止められた。

 こっちに来て、と。

 なんとなく気分が高揚していて、酒酔いではないような、ぽわぽわしたような浮遊感を得る。

 途中で広間を覗くと、そのまま雑魚寝のようになっていて、飲んでいる人、タバコを吸っている人、寝ている人が入り乱れていた。

 ここに戻るわけではないらしく、ちょっと安心して、ゆかりさんの後を付いて行った。

 時刻は一時を回っていた。






631: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 00:56:40.67 ID:sj1gOJpY0




 いいかげん起きているのにも慣れてきて、眠さは消え失せかけていた。

 今まで何してたの? と問われて、姉さんと電話してたと答えると、
 面白いものを見たかのように笑われた。釈然としない。

 少し歩いた後に、襖の前で立ち止まる。

 彼女は取っ手に手をかけて、何やら少しだけ逡巡したような顔をして固まった。
 かと思ったら数センチ程襖を開けて、中を覗き出した。

「なにやってるんですか」

「……いや、いやあ……うん」

 歯切りの悪い返事なこと。

「ハルが開けて」

「いいけど、誰がいるの?」

「うんと……料理作ったりしてた女の人たち? 薫乃さんとか」

「……で、なぜ俺が」

「いいから。どうぞ?」

 しっしっ、早く開けちゃいなさいとでも言いたげなジェスチャーをされた。

 変に探るのもアレなので、一思いにがらっと開けてみる。






632: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 00:58:04.82 ID:sj1gOJpY0


 がばっと、効果音をつけるならそんな勢いで抱きつかれた。

 そんなことをまったく予期していなかったからか、体勢が崩れる。

「うおっ……と」

 後ろに押し倒されるようなかたちになって、尻もちをついた。

 にぱーとした笑顔。楽しそうに上気した頬。
 ……酔ってるな、こいつ。

「せんぱい、おかえりなさい」

 呼び方がいつものに戻っている。

 馬乗りになって抱きしめられる。
 いろいろなものが当たるけれど、平常心、平常心だ。

「ゆかりさん、ちょっと助けて」

「あ、席はっけーん。すーわろっと」

 スルー。閉められた。

 目線を下げてなぎさを見ると、ぶすっとした拗ねたような顔をしていた。

「……どうしたの?」

「おかえりって言われたら、ただいまって言うべきだと思うのです。
 ほら、言ってください」

「……ただいま?」

「よろしい」






633: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 00:59:05.54 ID:sj1gOJpY0


 抱きしめる力が一層強くなる。
 小悪魔的な微笑み。この女、底が知れない。

 そして、匂いを嗅ぐかのように顔を押し付けられた。

「あのさ……」

「なに?」

「ちょっと、退いてくれないかな」

「それって」

 彼女はぷくーっと頬を膨らませる。
 なんていうかこう、今は幼児退行しているのか?

「わたしが重いってことですか!」

「ちがうちがう……。床で背中がいたいといいますか」

「ふふっ……じゃあ、頭を撫でてくれるなら、いいですよ?」

「……中入ったらするから、ひとまず立ち上がろ?」

「えへへ……はーい」

 なんだ、思ったよりもあっさり立ち上がった。
 俺も立ち上がって、ふらふらして足元のおぼつかない彼女を支えながら部屋に入った。






634: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 01:00:23.07 ID:sj1gOJpY0


 空いている席はゆかりさんの隣で、なぎさと並んで座った。

「……あの、お酒飲ませたんですか」

 俺は飲んでしまったけれど、彼女が飲むのはまた違うと思う。

 別に彼女がいいと言うなら俺が干渉する必要もないが、今は預かっている身だ。
 彼女の親御さんに任された以上、何か間違いがあってはならない。

「ごめんね、でも、飲ませたわけじゃなくてね……」

 薫乃さんが申し訳なさそうに呟く。

「……未成年ですよ? こいつ。それに、もうベロンベロンに酔ってるみたいだし」

「こいつってなんですか」

「……ちょっと静かにしてて」

「なぎさ、とお呼びなさい。べ、べつに呼びたいならなぎちゃんでもいい、けど……」

 キャラが定まってない、というかブレブレだ。

「なぎさ、静かにしてて」






635: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 01:10:36.00 ID:sj1gOJpY0


「じゃあ、代わりに撫でなさい。言ってましたよね」

 さっきから、命令口調が多くなっている。
 隠れ女王様気質か?

 仕方がないので頭を撫でると、彼女は、ぁー、とか、ゃー、とか鳴き声のようなものを発して、逆に落ち着かなくなった。
 その姿はまるで犬のようだ。みたらし撫でたい。

「……そう言われてもさあ、飲んじゃったのは仕方がないんじゃない?」

「その発言、教育者としてどうなんですか」

「まあまあ、だって、なぎさちゃんが飲んだの、これだよ?」

 コップを指さされる。

「このコップの……」

「……」

「半分くらい?」

 なぎさが頷く。

 えっと、マジか……。

「ここまで弱いのは初めて見たよ。
 ほろよい三口かあ……」

「ゆかりさん、感心しないでください」






636: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 01:11:27.59 ID:sj1gOJpY0


「……さすがに飲ませるのは悪いと思ったから、カルピスを出したのよ。
 そしたら、間違えて別のコップのお酒を飲んじゃったみたいで」

 薫乃さんは依然として申し訳なさそうだ。
 そういう顔をされると、責めているみたいに感じられて萎縮してしまう。

「色は同じだしね」

 それなら、まあ。
 いや、でも……。

「……とりあえず、事故なら仕方ないですけど、俺も責任取れないですし」

「……うん、わかったわかった。ごめんね?」

「俺に謝られても……まあ、はい」

 俺もさっきはかなり飲んだと思うけれど、気合と勢いでどうにかなっただけで、最後にはぶっ倒れてしまったし。

 隣の彼女を見ると、いたずらっぽく笑って、テーブルの上のコップに手を伸ばした。






637: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 01:12:31.13 ID:sj1gOJpY0


「もういっぱいのみます」

「やめとけ」

「どうして? こんなにぽわぽわして気持ちいいのに」

「だめなものはだめだ」

「せんぱいだって、たくさんのんだって聞きました」

「……あれは、止むに止まれぬ事情があってだな」

「じゃあ、わたしも今はそのやむにやまれぬじじょうってやつです」

 呂律が回ってない。聞き取れるほどではあるけど、危ない気もする。

 俺が返答に困っていると、なぎさはそのままグラスを掴んで口元に持っていく。

 黙って見ていても埒があかないので、ばしっとコップを奪い取った。

「いたっ……」

「もう飲むな」

「うー……。せんぱい手きびしいです……」

 拗ねたように言って、何を思ったか、俺の腕に手を回してきた。

「じゃあ、くちうつしでいいから、はい」

 口をんー、と近付けてくる。
 近い。

「ぶはっ……」

 ゆかりさんが吹き出した。

「……ストップ、ちょい、待って」

「くちうつしー」

 すんでのところで避けて、手のひらでガードすると、そのまま手に唇を当ててきた。






638: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 01:13:32.52 ID:sj1gOJpY0


 コップを彼女から見て遠くに置いて、反対の手で頭を撫でると、また少し落ち着かないながらも静かになった。

「あんたたち、いつもそんなやりとりばっかしてるの?」

 と、薫乃さんがのたまえば、

「気になるー」

 と、ゆかりさんが同調してくる。

 仲良いな、この人たち。
 悪ノリだからか? すごく困る。

「なわけないでしょ」

「それにしては、随分と好かれてるんじゃない」

「うんうん、かわいい酔い方だし」

「それはゆかりがちょっと飲むだけで気持ち悪くなっちゃうだけでしょ」

「いいなー薫乃ちゃんは、お酒強いし」

 そのまま二人で話しててくれ、と思ったが、そうはいかないのはあたりまえで。






639: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 01:17:34.07 ID:sj1gOJpY0


「キスはもうしたの?」

「してない」

「な?」と、同意を求めて彼女を見ると、赤い顔で首をかしげた。

「キス、キス……。ありますよ?」

「は」

「なんだー、あるんじゃん。嘘つかなくてもいいのに」

 このこのー、と隣から脇腹をつつかれる。
 本気で記憶にない。

「まじで覚えてないんだが」

「うーわー、さいてー」

「……ちょっとまって、混乱してる」

 もう一度なぎさを見ると、ぺろっと舌を出してにやりと笑った。

「しちゃえば? くちうつしくらいならいいんじゃない?」

「いや、こういうのって意外と記憶に残ってて朝後悔するやつじゃないの」

「ワンナイトラブ?」

「いや言い方でしょ」

 勝手な人たちだ。

「いや、本当に、キス自体まだというか。
 誰ともしたような記憶がないんだよ」

 俺の必死の訴えに、ゆかりさんは口元に手を置いて考えるような仕草を見せた。






640: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 01:18:42.20 ID:sj1gOJpY0


「えー、でも昔はよくしてたじゃん」

「昔?」

「うん、ちゅっちゅって。見てて微笑ましかったしー」

 何も覚えていない。
 するって言ったって相手は限られてくるけれど。

「誰と?」

「楓」

「は? え?」

「薫乃ちゃんも見たことあるよね?」

「あるある」

 待て。ちょっと待て。
 昔、覚えてないくらい前には違いないが、実の姉にだぞ。

 仲は悪くはなかったけど、そこまで良くもなかったし。

 姉の顔が浮かぶ。薄めの唇。
 いや、なんて想像してるんだ俺は。

「まあ、楓にはほっぺだったけどね」

 なんだ、ほっぺか。
 ……て。

「ほっぺでも十分問題だと思うんだけど」

「昔は肉食系だったんじゃない?」

 呆れる俺をよそに、二人は笑う。






641: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 01:19:40.70 ID:sj1gOJpY0


「なぎさちゃんのこと、どう思ってるの?」

「どうって……」

 そういう問いかけは、後で気まずくなるからやめてくれよ、
 と思って隣を見ると、彼女は俺の腕にしがみついたまま目を閉じていた。

 耳をすますと、すーすーと寝息が聞こえる。

 ……寝ちゃったか。
 いや、寝てくれて助かったかもしれない。

「どうも、思ってはないけど、よくわかんない……」

「何がわからないの?」

 薫乃さんが食いついてきた。

 ゆかりさんは半分冗談、下手すりゃ九割くらい冗談で言ってきたんだろうけど、薫乃さんの瞳は真剣みを帯びていた。
 その形相に、ゆかりさんも少し戸惑ったような雰囲気で俺をちらりと見た。

「……それも、あんまりよくわからない。
 わからないのがわからないというか、無理にわかろうとすると、逆にいろいろ見えなくなってしまう気がして……」

「そっか……」

「はい」

 納得しない様子で、薫乃さんは何度も頷いていた。
 どうして、こんなことを訊いてきたのだろうか。






642: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 01:22:47.00 ID:sj1gOJpY0


「それにしてもさ……」とゆかりさんが口を開く。

「なぎさちゃん、かわいいよねー」

「……」

「寝顔かわいい、写真撮りたいくらい」

「撮ればいいんじゃない?」

「えー……じゃあ、失礼して」

 パシャリと一枚だけ写真を撮った。
 ほんとに撮るんだ。

「ていうかさあ、ちーちゃんの写真ないの?」

「ちーちゃんって?」

「……千咲ちゃん? ほら、ハルの家の近くの」

「ああー! 昔こっちに遊びに来たわよね」

「で、ハル。持ってるの?」

 どんな魂胆が、とは思ったけれど、
 成長した姿を見たいとか、そんなもんだろ。

「あるけど……ちょっと待ってて」

 スマートフォンを操作して、最近撮った写真を見せた。
 千咲が勝手に撮ったものだが、多分よく撮れてると思う。






643: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 01:25:02.44 ID:sj1gOJpY0


「えー、ちっちゃくてかわいいー。
 ……今も、同じ高校なんでしょ?」

「うん」

「なぎさちゃんと、ちーちゃん、そんで楓も。
 かわいい子しか周りにいないじゃん」

「……そう言われてみれば、そうかも?」

「……ハーレム?」

「いや、姉さんが入るのはおかしい」

「じゃあ他の二人は……ってこと?
 ハルくんもやりますなあ……」

「……あの、違う。そんなの考えたこと、ないし……」

「あー! 動揺してる動揺してる!」

「……」

 ゆかりさんもなかなかの悪酔いだ。
 正面でにこにこしている薫乃さんもお酒強いなら止めて欲しいくらいだ。

 それから、主に千咲となぎさのことでいじられたり、朝に(盗)撮った写真を見られたりしていると、薫乃さんが立ち上がった。

 どうやら、向こう側の席で飲んでいた人たちを寝所へ連れて行くらしい。

 通り過ぎる女の人たちに、おやすみなさい、という言葉とともに、温かな目で見られた。
 俺もおやすみなさい、と返すものの、ちょっとだけ猜疑的に見てしまった。






644: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 01:25:51.56 ID:sj1gOJpY0


 そういうわけで、部屋に三人になる。

「寝てるんだし、ちゅっとしちゃえば?」

「またそう言って……」

「ごめんごめん。冗談だからさ、そんな怖い目で見ないでって」

 けたけた笑われる。
 怖い顔になっていたのか、全く気がつかなかった。

「……ねえ、さっきの話、聞くよ」

「さっきの……うん。なら、先にシャワー浴びてきなさい。
 わたしはなぎさちゃんをお風呂に入れてくるから」

 なぎさは寝ているし、他に誰もいないし、ここでもいいのでは。
 そう思ったけれど、なぎさをこのまま寝かせるのは申し訳ないってことか。

「……わかった、ありがとう」

「うん、じゃあ背負いますかー」

 彼女は立ち上がって、なぎさを引っ張り上げる。
 するりと簡単に腕が抜けて、少し名残惜しさのようなものを感じた。

「……またあとでね」

 ひらひらと手を振って、ゆかりさんは部屋をあとにした。






645: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 01:27:28.00 ID:sj1gOJpY0


 しばし一人で部屋にいて、空き缶やコップを中央に集めていると、薫乃さんが戻ってきた。

「あ、後片付け、しててくれたんだ」

「うん、軽くだけど」

「ありがとう」

「いえいえ……」

 缶に少し残ったお酒を「飲む?」と言われた。
 間髪入れずに断ると、薫乃さんがそれを飲んでいた。

「……さっき、ごめんなさいね」

「……さっき?」

「あの人が、……その、あなたのお父さんを、悪く言ったとき」

「……んと、まあ、大丈夫ですよ」

 大丈夫ではないけど、気にされるのは気分が良くない。

「そ、っか。それなら、いいんだけど……」

 むしろ、薫乃さんの様子がおかしかったようにも思える。

「あのさ……」

「はい」

「……お父さん……元気してる?」

「父さん、ですか……。多分、元気だとは思いますよ」

「そ、そっか……」

 少なくとも身体面の異常はないだろう。
 予想で言ったことだったけれど、彼女はほっとしたようだった。

 それからは、会話らしい会話もなく、二人で黙々と片付けを進めた。






646: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 01:28:18.01 ID:sj1gOJpY0




 アルコール。風呂。
 余計にのぼせてしまっているような気分だ。

 ふと思い返すのは、あの夜のこと。

 千咲に対して、何も言えなかった夜のことだ。

 離れて行って欲しくはない。
 でも、近すぎても、距離感を間違えてしまう。

 練習をちらっと見ただけであんなに動揺するのだから、遠征中の試合に影響が出ていないだろうか?
 もし出ているとしたら、どうにも申し訳が立たない。

 けれど、千咲はまた、なにもなかったかのように接してくるだろう。
 その優しさが、どんどん蓄積されていって。反対に、千咲はストレスを溜めているかもしれない。

 考えれば考えるほど、自分が最低に思えてくる。

 寝る場所はやはり同じだった。

 隣で寝るとこの前みたいなことが起きかねないから、懸命に壁の方へ布団をずらした。

 玄関に向かう際に、広間の前を通ると、まだ少し話し声がした。
 電気は薄暗くついていて、おそらく大半の人は寝てしまっているのだと思う。






647: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 01:29:15.49 ID:sj1gOJpY0


 外に出て、待ち合わせの場所に行くと、ゆかりさんはもうすでにそこにいた。

「やあやあ」

 隣に座るように促される。
 どこの公園にでもありそうな、木製の長いベンチ。

「ごめん、遅かった?」

「ううん、わたしも今来たとこ」

「……初デートみたいな会話だね」

「まあ、そうかも」

 ミネラルウォーターを手渡された。
 外気は蒸し暑さを感じる。

「……続き、聞くよ」

「うん……。どこまで話したっけ?」

「うちの両親の、離婚の原因について」

「うんうん。わかった、じゃあ、話すね」

 ちょっと怖かったけれど、気にせずに頷いた。






648: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 01:29:57.77 ID:sj1gOJpY0


「まず、お兄ちゃんと薫乃ちゃんがどういう関係か知ってる?」

「……お兄ちゃんが、父さんのことなら、何も知らない。
 薫乃さんもこっちの人ってことぐらいかな……?」

「二人はね、同い年で、幼稚園から高校までずっと一緒だったんだよ」

「そうなんだ」

「それで、二人はすごく仲が良くて、わたしもよく三人で遊んでもらってた」

「この話、関係あるの?」

「うん、ちゃんと関係あるよ。でね、わたしにとっては二人は、優しいお兄ちゃんとお姉ちゃんだった」

「……そっか」

「話は戻るけど、お兄ちゃんが結構もてたって話したじゃない?」

「うん」

「でも、特定の相手は作らなかったし、全部断ってた。
 理由は簡単で、薫乃ちゃんのことが好きだったから」

「……」

 父さんが? 薫乃さんを?
 いや、それは……ありえないとは言えないけれど、考えてみたこともなかった。






649: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 01:30:43.40 ID:sj1gOJpY0


「薫乃ちゃんも薫乃ちゃんで、お兄ちゃんのことを好きだったんだと思う。
 今更確認なんてできないし、あの頃はわたしも小学生くらいだったから、想像にすぎないんだけどね」

「薫乃さんも……」

「けれど、両想いなのに、お兄ちゃんも薫乃さんも告白したりはしなかった。
 何も言わなくても近くにいるような関係で、わたしも二人はずっと離れないって思ってた」

「……どうして?」

「お兄ちゃんは、多分怖かったんだと思うの。
 一旦付き合っちゃって、ちょっとした喧嘩とかで亀裂が入ったら、今まで通りなんて言えなくなるじゃない?」

 幼馴染。距離を詰めるのが怖い。

「薫乃さんのうちと、かなり前から親交があったのも、原因の一つだと思う」

「……」

「お兄ちゃんは、そっちの大学に進んだじゃない?」

「うん」

「ここらへんの高校は、お世辞にも大学進学するような高校じゃなくて。
 お兄ちゃんは勉強ができたから、そっちの大学に行ったけど、他の人とは離れ離れになっちゃって」

「……そうなんだ」






650: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 01:31:37.13 ID:sj1gOJpY0


「お兄ちゃんは、やりたいことがあるから、って言ってた。
 そこでしかできないことだから、離れても仕方がないって」

「……」

「でも、うちの両親は、大学を出たらこっちに戻ってくるって思ってて、
 そのまま会社を継いでくれるって信じてたみたいなの」

「それが、期待されてたってこと?」

「うん、けどね、お兄ちゃんはそんな気はなかった」

「……まあ、そうだろうけど」

「お母さんとお父さんは、どうにかしてお兄ちゃんをこっちに連れ戻そうとしたの」

「仕送りを止めるとか?」

「ううん。お兄ちゃんは、バイト掛け持ちして、自分でお金を稼いでたから」

「……それって、つらくない?」

 そんなの、聞いたことがない。

「つらいに決まってるでしょ。でも、お兄ちゃんはそうしてた」

「じゃあ、その手段って?」

「……こればっかりは、一番最低な方法だと思うの」






651: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 01:32:28.44 ID:sj1gOJpY0


 手段を選ばないとして。
 どうにかして連れ戻す。ここにしか無いもの。ここにしかいない人。

「……薫乃ちゃんをね、その手段に使ったの」

「それって……」

「そう、こっちに帰って来たら嫁に出すとかなんとか言って。
 お兄ちゃんの気持ちは、みんな薄々気付いてたから」

 悪趣味すぎないか、それは。
 人の気持ちを知ってて、それを大人の事情で使うなんて。

「予想だけど、お兄ちゃんは、ちゃんと仕事について稼げるようになったら、薫乃ちゃんに気持ちを伝えようと思ってたんだと思うの」

「……」

 家にとらわれずに、か。
 そういうところが父さんらしい、と思ってしまうのは何故だろうか。

 生まれ持ったものではなくて、体得したものに意義がある。

 それを示したかったのかもしれない。

「お兄ちゃんは揺れてた。ずっと好きだった子を人質に取られて、それで、その頃は特に用も無いのにうちに頻繁に帰ってくるようになってた」

「でも、薫乃さんを呼ぶっていう選択肢はなかったの?
 その……駆け落ち、って言うと聞こえはヘンかもしれないけど」

 ありそうな考えを口にしたが、ゆかりさんは首を横に振った。

「……ないよ。お兄ちゃんの性格なら、そんなリスクのある行動に出るはずない」

「まあ、そうかもしれないけど……」






652: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 01:33:26.35 ID:sj1gOJpY0


 言った自分が何だが、俺だってそうすると思う。
 リスクヘッジは常に頭に置いておかなければならないもので、
 薫乃さんのことも考えれば、ここを捨てるのはあまりにも悪手すぎる。

「でも、薫乃さんは何も言わなかったの?」

「……うん。言いなり、これは仕方のないことなんだけどね」

「そうなんだ」

「……でね、そうこうしているうちにあの人が余計に話をこじらせたの。
 わたわたしてるお兄ちゃんを見て嬉しそうにしてて、わたしは本当に嫌だった」

 話をこじらせる。
 父さんへの劣等感。

 薫乃さんが好きな父さん。

 ……傷付けたいなら、そこを引き裂こうとするのかもしれない。

「……今は、ハジメさんが会社を継いでるんだよね」

「そうだよ」






653: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 01:34:23.14 ID:sj1gOJpY0


「じゃあ、ハジメさんが継ぐって言って、薫乃さんもろとも持ってったってこと?」

「……まあ、結果的に言えば、そうなったね」

「……」

「ほんとはもっといろいろあったのかもしれないけど、わたしは全然わからなくて。
 当時の断片的な記憶と、他の人から聞いたことでしか話せないけど……」

「……辻褄は合ってるってことね」

「うん」

 どうにも、他人事には思えない。
 身内のことだというのもその理由としてあるかもしれない。

 ゆかりさんが、夜空を見上げた。
 暗い雲が流れて、月が顔を見せていた。

 こんな夜にね、とゆかりさんが口を開く。

「……ある時ね、お兄ちゃんが、夜に泣いていたことがあったの」

「……」

「その日は、わたしだけが家に留守番で、他の四人はどこかに行ってて。
 夜にお兄ちゃんだけが家に帰ってきて、たまには一緒に寝ないか? って言われて」

「……うん」






654: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 01:34:54.58 ID:sj1gOJpY0


「お兄ちゃん、ずっと泣いてた。
 声はあんまり出てなかったけど、鼻をすする音とか、背中が小さく戦慄いてる様子とか、鮮明に覚えてる」

「……」

「わたしはそんなお兄ちゃんを見て居ても立っても居られなくなって、気付いたらお兄ちゃんを慰めようとしてた。
 でも、全然効果なくて、わたしもしばらくするうちに寝ちゃってた」

 ゆかりさんは、中学生かそこらの歳か。

「……あとで知ったんだけど、その日に、あの人と薫乃さんの結婚話がまとまったらしいの」

「じゃあ、それで……。
 いやでも、それじゃあ父さんは」

 言いかけた俺を、ゆかりさんは首を振って制した。

「けどね、次の日にはお兄ちゃんはけろっとしてて、向こうに帰って行っちゃった」

 それで、その半月後に、本当に二人は結婚したんだよ。

 それが、ここの人たちとの不和の原因なのか?






655: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 01:35:41.42 ID:sj1gOJpY0


 つらい話だ。俺なら折れてしまうかもしれない。でも、それだけだとは思えない。

 顔を合わせたくないとは考えるかもしれないけれど、割り切ろうとすれば、なるべく薫乃さんと鉢合わせないように努めれば。

「それから……他に何かあったんじゃないの」

「うん……。やっぱり、そう思うよね」

 小さく息を呑む音が聞こえた。

「最初のうちは、わたしが会いたいから帰ってきてってよく言ってたの。
 それで、本当に三ヶ月に一度くらいは帰ってきて、遊んだり宿題を見てくれたりした。……二人になっちゃったけど」

「……」

 薫乃さんは、当然といえば当然か。

「……お兄ちゃんと薫乃さんは顔を合わせても険悪になったりしないで、事情を考えればあたりまえだけど、普通に接してた」

「うん」

「でも、でもね……。あるときを境に、お兄ちゃんは一切帰ってこなくなっちゃったの。
 わたしがお兄ちゃんの携帯に電話したら出てくれるけど、
 他の人とは音信不通で、『俺と電話したことはお母さんにも言っちゃダメだぞ?』って言われてた」






656: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 01:36:53.69 ID:sj1gOJpY0


「……」

「それで、次に帰ってきたときに女の人を連れてきたの」

「それは……」

「うん。ハルのお母さんだよ」

「この人と結婚するので、って。
 それだけうちの両親に言って帰っていって」

 ……そうだったんだ。
 だから、式も挙げず向こうの両親と小さなパーティをするに留まったのか。

「それから、お兄ちゃんは少しずつ集まりに顔を出すようになったの。
 楓が産まれて、一年後にハルも産まれて、よくこっちに連れて来てた」

 また悪いことばかり考えてしまう。

 もしかしたら、父さんは薫乃さんを諦められていなくて。

 それで。それで……。

「……それってさ、つまり」

「違うよ。それだけは、絶対に違う」

 嫌な勘ぐりですらも、全て察してくれた。
 口に出すのも嫌なことだったから、少し助かった。






657: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 01:37:45.29 ID:sj1gOJpY0


「どうして、そう断言できるの?」

「……お兄ちゃんは、そんな感情のまま人と付き合ったりはできない人だから」

「それは、ゆかりさんの思い込みじゃないの?」

「……っ。そんなわけ……お兄ちゃんが、そんな」

「ごめん、責めるとかそういうつもりはなくて」

「うん……予想、だよね。予想にすぎないんだよね」

「……でも、わたしはそう信じたいの」と、ゆかりさんは消え入るような声で呟いた。

「俺だって、できることなら信じたいけど、確証がないぶんにはどうしても疑ってしまうと思う」

「……そう、だよね」

 彼女の声はどんどん小さくなっていく。

 俺に聞いたら後悔すると言ったのも、自分もダメージを受けると思ってたからの発言だったのかもしれない。

 やっぱり、責めているみたいだ。

 ゆかりさんだって、十何個も上の人たちには訊こうにも訊けないだろうし。
 薫乃さんはもちろん、掘り返されたくない傷を負った父さんになんてもってのほかだ。






658: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 01:38:21.85 ID:sj1gOJpY0


 なら、ここでは。

「……けど、予想でもいいから、知ってることは全部話してほしい」

 俺の今までの発言と整合性のない物言いに、ゆかりさんは目を丸くした。

 そしてすぐに小さく咳払いをして、俺の方へ向き直った。

「えっと……そのね、お兄ちゃんが来なくなった原因についてなんだけど」

「うん」

「……みんなの前で、今日ハルにしたみたいに酷い言葉をぶつけたんじゃないかな」

「それは……あるかも、だけど。
 俺が思ったのは、ハジメさんが、薫乃さんに父さんを悪く言うようにしむけた、ってのもありえるかなって」

「まあ……なくはないね。あんまり考えたくないことだけれど、可能性としては十分ありえる」

 ずっと劣等感を感じていた弟の好きな人を奪った。
 でも、当の弟は全然気にしていない様子で、落ち込む姿すら周囲の人に見せなかった。

 そうしたら……。

 おもしろくない、と思うかもしれない。
 何かをして、もう一度ダメージを与えよう、と思うかもしれない。






659: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 01:39:07.41 ID:sj1gOJpY0


 ただの想像にすぎないけれど、辻褄は合っているし、あの薫乃さんの妙な言動にも納得がいく。

「……ハルにね、お願いがあるの」

 腕を、掴まれた。
 軽々しく訊いてはいけないような雰囲気に、身体が強張る。

「……こんなことを言うのは間違ってるかもしれないけど、でも、お願いしたいの」

「……うん」

「お兄ちゃんを、助けてあげて欲しいの。
 わたしじゃ、きっと駄目だから……」

「ゆかりさんが駄目なら、俺だって……」

「……ううん。今お兄ちゃんに一番近いのは、楓とハルだから。
 ハルからの言葉なら、もしかしたら、響くかもしれないって、そう思うんだ」

 ゆかりさんは今にも泣き出してしまいそうだ。
 なんで、どうして、兄に対してそこまでできるのだろうか。






660: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 01:39:36.94 ID:sj1gOJpY0


「実は……俺も、ずっと考えてた」

「……うん」

「父さんとは、いつか話さなきゃいけないときが来るって。
 母さんのこと、姉さんのこと、俺のこと、それから、今後のことを」

 いつか。不確定の未来。
 今まで逃げていて、遠ざけてきて、その清算が今来ているのだと思う。

「そっか……」

「でも、ゆかりさんが求めるような成果を得るかどうかは、全く保証はできないし、悪化することだってあるかもしれないし」

 彼女は、浅く唇を噛んだ。息が漏れて、目を伏せて俯いた。
 哀しげな表情に変化する前に、俺はもう一度「でも」と言葉を続けることにした。

「俺は、父さんと二人で話をしてみるよ。
 そんで、どんな結果になったとしても、ゆかりさんには必ず報告するから」

 約束、と言って小指を出すと、照れたように笑って、彼女も小指を出してきた。

「こういうところ、お兄ちゃんそっくり」

「そうなの?」

「うん……昔はよく、こんなことしてもらってたから……」






661: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/10(木) 01:40:14.76 ID:sj1gOJpY0


 長い時間、話していたのだろうか。
 東の空が少し明るみ始めていた。

 ゆかりさんが、元気よく立ち上がった。

 そして、んーっと軽く伸びをした後に、ぱんぱんと顔を叩いた。

「明日……。今日、起きたらさ、海の方に行ってみようよ」

「……海?」

「うん。あの人たちに会うの、気がすすまないでしょ?」

「まあ、それは……確かに」

「それに! なぎさちゃんとデートっぽいことだってしたいでしょ?」

「はあ……。いや、どこか連れてってくれるなら嬉しいですよ」

 頑なな俺の態度に少しばかりの面白さを感じたのか、ゆかりさんはにこりと笑って、人差し指を俺の前に突き立てた。

「あんたも、決めなきゃね」

「……? 何を?」

「……それはずうっと、考えときなさい」

「意味わからないんですけど」

 もっとわかりやすいように説明を求めても、ゆかりさんはゆっくりと頷くのみだった。

「じゃあ、戻ろっか。ちゃんと疲れとれるように寝なさいよー?」

「わかってるよ」

 少しだけ、肩に乗っていた荷物が軽くなったような感覚になった。

 それは不透明で、不明瞭で、まだ実体すら掴めていないほどのものではあったけれど、
 確かに、はっきりとした感覚で、自分のなかの何かが動き出すのを感じた。






665: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/11(金) 22:21:57.01 ID:k4JtL7Sy0






 長い雨が晴れたときのような気分とは裏腹に、夢見は悪かった。








666: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/11(金) 22:22:36.18 ID:k4JtL7Sy0




 ゆさゆさと軽く揺すられて、目が覚めた。

 まだまだ寝足りなく重い瞼をこすりながら上半身だけ起こすと、枕の向こうになぎさが座っていた。

「おはようございます」

「うん、おはよ」

 ボサボサした寝癖を手で直しながら彼女を見ると、昨日とは違って髪はいつものポニテで、眼鏡を掛けていなかった。

「……てか、なんでそこに座ってるの。
 布団、もう無いけどあっちにあったじゃん」

「えーと、うなされてたので?」

「そうなの?」

「そうです、ちょっと前ですけど」

「……今日はゆかりさんがどっか連れてってくれるって言ってたけど、会った?」

「はい、それではるくんを呼んでこいと指令を出されました」

 呼び方も、今日で最後か。
 酔ってるときは先輩呼びだったし、その方がこっちも慣れてるけど。

「いま何時?」

「九時半です」

「はえーよ……」

 ここに戻ったのが五時頃だったから、四時間と少ししか寝れてないじゃないか。






667: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/11(金) 22:24:36.62 ID:k4JtL7Sy0


 身体はところどころ痛むし、胃の不調はまだ治っていない。

「どれくらい寝たんですか?」

「四時間と少し」

「ええ……。そんな夜中まで何してたんですか」

「まあ、ちょっといろいろやることあって」

「そうですか。もしかして、私もそれくらいの時間に寝たんでしょうか?」

 普通に会話できているから、なぎさは夜のことを覚えていないのか?
 さっきから様子からして、一切覚えていないみたいだから、質問されてもお茶を濁すのが良いだろう。

「一時には寝てたと思う。めっちゃぐっすり寝てたよ」

 彼女は考え込むようなポーズをとる。

「あの、私……夜の記憶が、全くないんですよ」

「……ゆかりさんに訊いてみたら?」

 人任せ。あの人だって変なことは言わないだろう。

「……あ、はい。そうしますね」

 電話が鳴って、スマートフォンを手に取った。
 充電をしないまま寝てしまったからか、今にも消えてしまいそうなくらいバッテリーが減っていた。






668: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/11(金) 22:25:27.60 ID:k4JtL7Sy0


『はやくしなさいよ』

「今起きたんだけど……。ていうかはやすぎ」

『外で待ってるからね』

「ゆかりさんだって、全然寝てないでしょ。運転とか大丈夫なの?」

『大丈夫よ』

「……あい。できるだけはやく行くから」

 電話が切れた。

「私、先に下行ってますね」

「うん」

 ……あ。

 立ち上がる彼女を、ちょっと、と言って引き止めた。

「さっきさ、近くにいてくれたんだよな?」

「ま、まあ……はい」

「ありがとな」

「……いえいえ」

 彼女は、両手を胸の前に出して、照れたようにはにかんだ。






669: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/11(金) 22:26:10.97 ID:k4JtL7Sy0




 昨日のように、車には後部座席に一人で座った。
 暇つぶしに使えるものを持ち合わせていなかったから、そのまま目を閉じることにした。

 寝る前のゆかりさんとの会話を何度か反芻した。

 ゆかりさんは比較的落ち着いている様子だった。
 なぎさと他愛のない話をする姿は楽しそうで、俺もできることなら話にまざりたかったけれど、いかんせん眠気には勝てない。

 耳をすますと、二人は好きな歌手の話をしているようだった。

 それから体感時間で数分間くらい眠ったあと、再びなぎさに起こされた。

 ゆかりさんはスーパーに朝食を買いに行ってくれているらしい。
 どうしてあの人はそんなに元気があるのだろうか。

「今日どこに行くかって何か聞いた?」

「あー……えと、泳ぐって言ってましたよ」

「俺たち水着持ってなくね」

「冗談です」

 冗談か。






670: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/11(金) 22:26:55.89 ID:k4JtL7Sy0


「で、ほんとは?」

「とりあえずドライブして、それから考えるって言ってましたよ」

「……つまり、ノープランと」

「そうですね」

「……でもまあ、今日は暑いけど昨日より涼しそうだし、どこに行っても楽しめるかもな」

「……ふふっ、そうかもですね」

「そういや、昨日の夜の話、ゆかりさんとしたの?」

「はい、しましたよ」

「まあ、なぎさはお酒飲んじゃダメだな」

 そういう話はしただろうと思って、何も考えずに口に出した言葉に、彼女は驚くような反応をした。

「あれ、私……お酒飲んだんですか?」

「……聞いてないの?」






671: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/11(金) 22:27:35.24 ID:k4JtL7Sy0


「……えと、すぐに寝ちゃったとだけ。
 でも……あれ? 私、お風呂に入ったみたいだし」

 そう言って、自分の身体を撫でまわす。

 おのれゆかりさんめ……。

「少し飲んで、すぐ寝ちゃったんだよ。
 で、多分ゆかりさんにお風呂入れてもらったんだと思うよ」

「うわー……まじですか」

 なぎさが顔を下に向けた。

「……あとでお礼を言わないと、ですね」

「うん」

 それから適当にごまかしていると、ゆかりさんが車に戻ってきた。

「……さて、じゃあ行こっか」

 俺の隣に置かれた袋は、なかなか大きなものだった。

「まずは、どこに行くの?」

「わたしの家」






672: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/11(金) 22:28:17.67 ID:k4JtL7Sy0




 海岸沿いに立ち並ぶマンション群。
 さっきまで居た家からそう遠くもないが、地名が違くなっているくらいの距離のところに、ゆかりさんの住んでいる場所があった。

「おじゃまします」

 中に入る。

「朝ごはん、わたしが作るからー。
 あ、適当に座ってていいよ」

「はあ……。てか、一人暮らししてたんですね」

「そうなのよ、去年の暮れからね」

「私もお手伝いしましょうか?」

「いいのいいの、座ってて?」

 そう言われて、リビングの床に腰をおろした。
 手伝いたがるのは、なぎさの性分らしい。

「テレビとか見たかったら見てもいいよ」

「見る?」

「じゃあ見ますか」






673: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/11(金) 22:29:01.07 ID:k4JtL7Sy0


 テレビをつけると、結構人気のあるお笑い芸人(この地方の出身らしい)が、県の有名な観光スポットを周るロケ番組がかかった。

 それを見つつ、部屋の中を見渡す。
 ……入るときに思ったけれど、なかなかに広い。

 洋風のインテリアに、水色や薄いピンクの小物が並んでいる。
 テレビもそれなりに大きいし、土地的にも部屋の賃料は高そうだ。

 とまあ、意味もないような考察をしている途中も、なぎさはテレビに夢中だった。
 好きな芸人らしい。俺も小学生か中学生のときにハマっていたから、その気持ちがよくわかる。

 城跡や自然公園、歴史あるお寺など、開始から他県住まいでも聞いたことのあるようなスポットが続く。

 ぽけーっと見ていると、ゆかりさんがお皿を持って戻ってきた。

 そのまま三人で朝食を食べて、どこに行くか決めよう、という話になった。






674: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/11(金) 22:29:40.38 ID:k4JtL7Sy0


「とりあえず、海を見よっか」

 やっぱり、この人何も考えてないんじゃん。

「ここからでも見えるじゃん」

「じゃあ、ベランダに出よう」

 ということで、外に出てみた。

「綺麗でしょ? ここから見える景色」

「太平洋! ですね!」

「俺らが住んでるところも太平洋だけど」

「もー、はるくんはつまらない人ですねー」

「いろんなとこがあるけど、ここが一番綺麗だと思うよ」

 まあ、たしかに。浜風もひんやりとしていて気持ちがいいし。

「そうだ! あそこに停まってる遊覧船とか乗ってみたい?」

「……どっちでも」

「私も、どっちでも」

「う、微妙な反応だ……。ま、まあ、とりあえずぶらぶら歩いてみよっか」






675: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/11(金) 22:30:59.79 ID:k4JtL7Sy0




 それから、テレビゲームをしたり、クーラーで涼んだりして、午後一時に差し掛かったところでゆかりさんの家を出た。

 筐体は古き良きゲームキューブで、スマブラDXとエアライドがあったのでそれをプレイした。

 わいわいと楽しめた(別にここまで来てやることではないと思うけれど)が、ゆかりさんが超強かった。
 思い返しても謎なくらい強かった。吉野さんとタメ張るくらいの強さ。コウタなんて話にならない。

 正直一位を争うレベルで弱いと思っていたクッパで3タテをされたときは、思わず感心してしまった。

 カービィは、蘇る0の記憶。
 ピコーン、テロテロテロテロ……。

 ……て、それはスーファミか。

 ゲーム中の雑談の中で、帰りは家まで送ってくれると言われたので、素直にお世話になることにした。






676: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/11(金) 22:31:56.38 ID:k4JtL7Sy0


 すぐ近くにあるローカルな駅には大勢の人がいて、ここが人気の観光地だということが伺える。

 店頭販売の串ものを三人で買って、それをつまみながら歩く。
 牡蠣食べ放題二千円というのもあったが、どうにも食あたりが怖いのでスルーした。

 橋続きの島に入って、緑生い茂る自然と、きらきらと透き通った海を見た。

 太陽に照り映える白い鳥が多く飛んでいて、なぎさは海をバックに鳥の写真を撮っていた。

「鳥好きなの?」

「ハトは嫌いです」

「カラスは?」

「好きではないです」

「ツバメは?」

「仲良くなれそうです」

 まあ、わからなくもないけど。

 そのあと、海産物の専門店街にある小洒落たカフェに入って、二階にあるバルコニーで休憩することにした。
 俺はアイスコーヒーだけだったが、二人はパンケーキやらドーナツやらを食べていた。






677: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/11(金) 22:32:31.98 ID:k4JtL7Sy0


 SNS映えしそうなポップな店内で、多くの女の人が頼んだものをかざして写真を撮っていた。

 そのあと、焼肉が食べたいと突然言い出したゆかりさんに付いて行って、炭火焼肉のお店に入った。

 時間はちょうど昼過ぎで店にいる人もそう多くなく、少しおかしなテンションで肉を焼くゆかりさんにいろいろ食べさせられた。

 ……さっきから食べてばかりだ。

 食べ終えたあと、ゆかりさんは「もう、限界……」と言って一人で車に戻っていった。
 眠気に勝てないらしい。というか、昨日から殆ど寝ていなかったみたいだ。

 その場に取り残されたなぎさと俺は、ふらふら歩くゆかりさんに付いていくと、「三時間だけ寝るから、それまでにここに戻ってきてね」
 と、眠たげな声で伝えたっきり、後部座席に靴を脱いで横になってしまった。

「これから、どうしましょうか?」

「なにか考えてる?」

「いえ、なにも」

「……まあ、さっき通らなかった方に行ってみるか」

「そ、……そうしますか」






678: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/11(金) 22:33:11.41 ID:k4JtL7Sy0


 二人っきりになって、急に、不安感が押し寄せる。

 隣の駅では、海岸線を走ることができる自転車(ロードバイク)の貸し出しをしている店があって、
 どこかへ動くにも都合がいいし、なぎさもそれでいいと言うので、戻る時間までレンタルをした。

 なんとなく、俺から話を振らなければいけないような気がした。

「女の子ってさ」

「……はい? いきなりどうしたんですか?」

 風を切りながら、それほど速くもないスピードで並走する。

「スカートで自転車乗るときってサドルに直で乗るんだっけ」

「……んと、私はスカートであまり乗らないですけど、乗るときは折って乗りますよ」

「へー」

「どうしてそんな質問を?」

「……なんとなく?」

「せくはら?」

「違うわ」






679: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/11(金) 22:33:55.55 ID:k4JtL7Sy0


 海を長い橋から見下ろした景色はかなり綺麗だった。
 透き通った青。水上では遊覧船やボートが通っている。

 ガードレールに自転車を傾けて、写真を撮ってみた。

 なぎさも俺を真似て写真を撮り出した。最終的に並んでピースをさせられた。

 道の果てには、閑散とした市街地があって、「適当に進みましょうよ」というなぎさの言葉の通り考えずに自転車を漕ぐと、自然公園に突き当たった。

 そこは、適当に来たところだったのに、どこか見覚えがあるように思った。

「……入る?」

「え……っと、じゃあ、はい」

 ちょっとぼーっとしている? 気のせいか?

「疲れた?」

「あ……はい、少し?」

 なぎさは言いながら首をかしげた。






680: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/11(金) 22:34:44.84 ID:k4JtL7Sy0


 それほど距離は無かったけれど、俺ら帰宅部だし、仕方ないよね。
 俺も少し疲れた、すれ違うときに物凄い速さで消えていったガチな服装のお兄さんたちはなんなんだろうか。

 公園の中心地では、何かのフェスをやっているらしく、大音量で音楽がかかっていて、
 行ってみようとも考えたけれど、ひとまず、入り口から少し歩いたところにあるベンチに座ることにした。

 飲み物買ってくるから、と言って自販機のありそうな方向へと小走りで向かった。
 ここまできて、やっぱり申し訳ないような気持ちになる。

 さっきから、ただ動いてるだけだ。楽しみもなにもない。

 彼女はつまらないとは言わないだろうけれど、かといってこのままでいたって特に何もすることもない。

 居るだけで楽しいので、と言われたことを思い出す。
 俺だってそう思う。……思うけれど……。






681: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/11(金) 22:35:13.77 ID:k4JtL7Sy0


 ここにいる期間は、今までとは違って、なぎさが女の子に見えるというか。
 いや、言わなくても性別は女の子で身体つきだって女の子らしいけど、立ち振る舞いとか、そういうものに、女の子っぽさを感じる。

 別に、夜の酔った姿がどうだったというわけではなく、呼び方とか、口調とか、甘えてくるような態度とか、挙げていけばいろいろあるが、
 その変化が、俺をそういう気分にさせているのかもしれない。

 格好つけたくなるような。
 というと、かなり語弊があるかもしれないが。

 たしかに、朝から全てがノープランだった。

 でも、どこかに動いたり何かを食べたりと、誰かが行動を決めてくれるのは、俺からしてみれば好都合だった。

 戻ると、なぎさはスマートフォンをいじりながらぼーっとしていた。






682: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/11(金) 22:35:43.71 ID:k4JtL7Sy0


「買ってきたけど、どっちがいい?」

「オレンジで」

「はい」

 空を見上げてみた。
 岩のようにごわごわした雲、その上にかかる飛行機雲。

 結局、考えてばかりだ。

「あの、ここの近くに展望台があるって朝見たんですけど、行ってみませんか?」

 やけに緊迫したような表情に、思わずどきりとする。

「……展望台?」

 やってたっけ。あんまり覚えていないが……。

「はい、ここです」

 見せられる。
 まあ、近いっちゃあ近い。

「行ってみるか」

「はい!」

 なぎさは楽しそうにしている。
 ありがたいけれど、どうしてだろう?

 展望台、海、二人。
 なにかを忘れてしまっているような気がする。

「もう疲れは取れましたし、行きましょう?」

「うん、今行く」

 そう言いつつ、ポケットからスマホを取り出すと、電源がすでに落ちていた。






686: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/15(火) 01:14:02.51 ID:1IJeBGdX0




 お互い無言で歩いていた。
 戻るのも疲れるだろうし、いざとなったらまた使えばいいか、と考えて自転車の精算を済ませた。

 歩いているほうが良いのかもしれない。

 夏だというのに、夕暮れになるのがいやに早い。
 足取りも重い、眠気とは違う気だるさ。

 できるだけ変なことを考えないようにして、だんだんと早足になっている彼女に付いていった。

 十数分して、目的地の下部まで到着した。

 想像していたのとは少し違って、展望台というよりも、公園? それとも神社か?

 どっちだっていいか。石段を登っていく。

 どこからか鐘の音が聴こえる。
 それと同時に、木の葉が擦れる音、セミの鳴き声、どうもしなくても自然的。

 頂上まで登って、上からの景色を眺める。
 屋根とベンチ、風が弱まってきて、音があまり聴こえなくなる。






687: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/15(火) 01:15:28.52 ID:1IJeBGdX0


 周りに人はいなかった。
 さっきまでいた公園と、数本見える橋には人が散見されるものの、暗くてはっきりとは見えない。

 それでも、海の近くには街灯が多くあって、街並みくらいは一望できた。
 当然ながらゆかりさんの家のベランダで見るものとは違って、どこまでも続いているような海の姿を目の当たりにする。

 海側ではなく、さっきまで登ってきた道のほうを見やる。

 初めて来る場所……だよな?
 にしては、どこか覚えがあるような気がしなくもない。

 でも、この街には、もう何回も来たことがあって、小さい頃はそれこそ毎年来ていて。

 いつもなら、まあいつかの機会に来たことがあるんだろ、とか、何かの気のせいだろ、
 と考えて思考を止めているはずなのに、そうも言ってられないような、胸の中のざわめきを感じる。

 隣に座る彼女も、明らかに落ち着きがない様子だった。

 視線を横にずらす。同じタイミングで目をずらした彼女と目が合う。

 なんというタイミングの悪さ。
 お互い見つめ合ったまま固まってしまった。






688: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/15(火) 01:16:31.07 ID:1IJeBGdX0


 けれど、沈黙はそう長くも続かず、すぐに目を逸らされた。
 俺は、そのまま目を伏せる横顔を少しの間見たままでいた。

 そういえば、いつも会う場所に少し似ているかもしれない。
 高いところ、街並みを一望できる。

「あの」

 意を決したように、ちょっとだけ大きな声で、彼女は口を開く。

「……どうした?」

「……えっと、あの……」

 言いあぐねるように言葉を重ねる彼女。俺は黙って続きを待つ。

「あの……」

「……」

「……眠い、ですか?」

 許しを請うような口調。

 なんとなく、話題を変えようとした。と思う。
 そんなことを言いたかったわけではない、とでも言いたげな表情を浮かべているように見える。






689: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/15(火) 01:17:25.53 ID:1IJeBGdX0


「なぎさの方が眠たそうに見えるけど」

「……い、いえ、そうですか?」

「さっきから心ここに在らずって感じ」

「……え、っと。……いま私の話はいいんですよ」

「……」

 眠い、まあそれなりには眠い。
 が、それは我慢できる程度で、せいぜい欠伸が出そうなくらいに留めている。

「はるくんだって、眠そうに見えますし……」

「……」

「帰りの車では揺れるのでうまく寝られないかもしれないですし、夜あんまり寝られてないって言ってましたし……」

 寝させたいのか?

「……まあ、そこまで言うなら仮眠取るくらいはしてもいいけど」






690: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/15(火) 01:18:23.09 ID:1IJeBGdX0


「……で、ですよね。睡眠、大事ですよね」

「……うん?」

 会話が噛み合っていない。

「えっと、それじゃあ、私が枕になりますね……?」

「……え」

「こういうときって、ひざ枕とか……するものじゃないですか」

「ま、まあ」

「じゃあ、どうぞ」

「……いや、勝手に決めんなよ」

「いいからいいから、どうぞ?」

 肩を引き寄せられて、あまり抵抗しなかったからか、すぐに頭に柔らかい感触を感じた。

 ひんやり気持ちいい。

「ちくっとしますね」

「そりゃまあ……」

 頭を撫でられる。
 夜は俺がずっと撫でていたのに……なんだか不思議なように思える。






691: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/15(火) 01:19:08.56 ID:1IJeBGdX0


「……訊きたいことが、あるんです」

「うん」

 姿勢は横向きで、彼女の表情は見ることができない。

「でも、ちょっと時間が欲しくて。
 考えをまとめるのに必要というか……」

「それで?」

「……いえ、えっと」

 俺が起きてると気にする、とか。
 もしそうなら、こっちだってある程度は気を遣う。

「……いいよ、なぎさの言う通りちょっと眠いし、枕も気持ちいいし」

「……あ、ありがとうございます」

「ゆかりさんの連絡先ってわかる?
 俺のやつ、バッテリー落ちちゃっててさ」

「はい、昨日交換しましたよ。
 ……連絡を入れておけばいいってことですか?」

「そう、よろしく」

「じゃあ、俺寝るから」と言って、本当に寝ることにした。

 眠りに入るまで、ずっと頭は撫でられたままで、彼女は小さく歌を口ずさんでいた。






692: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/15(火) 01:20:15.24 ID:1IJeBGdX0




 憂心。

 眠さと酔いで頭がぐるぐるとしているときは、たいして事の重大さを受け止めずに、意気揚々と『話してみるよ』なんて言ってゆかりさんと約束を交わしたが、
 ここに来る前だってそれはずっと考えてて、けれど、どうすればいいのかがわからなかった。

 ここで父さんの過去を知れたのは渡りに船だった。
 ……と、夜の時点で考えてはいた。

 でも、考えれば考えるほど、それでどうする? という感情が胸の中を支配するだけだった。

 仮に、ゆかりさんとの会話で俺が想像した悪いイメージが部分的にでも正しいとして、

 つらい過去があったね、それに打ち勝とうとしてたんだね、
 それでどうして俺ら姉弟のことをほったらかしにするの?
 母さんとはどうして父さんが悪いような形で離婚したの?
 本当は、母さんのことも、俺のことも、姉さんのことも、好きじゃないんじゃないの?

 どうして、いろんなものから逃げるの?

 どう話をすればいいかわからない。
 どうやっても責めてしまうような物言いになってしまうだろう。






693: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/15(火) 01:20:55.06 ID:1IJeBGdX0


 父さんにだって、問題はあったのかもしれない。
 それは俺が知らないことで、俺には見えていなかったことで。

 踏み込むことは、あたりまえのことだけれど、勇気を伴う。

 思っていることを告げて、それで相手が離れていってしまったらどうする?

 "どうするか"ということよりも"その先に何が待っているか"を考えて、そこから逆算して行動を起こそうとしていたら、いつまで経ったって何もできやしない。

 でもでもだって、そればかりだ。

 優柔不断を拗らせて、大事な人が離れていく。

 繰り返す。
 似ている。

 そういうことなのかもしれない。






694: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/15(火) 01:21:57.66 ID:1IJeBGdX0




 また、同じ夢だ。

 朝見た夢と同じものを見ている。

 手を離すのは、いつも俺の方だった。
 重なるところがいくつかあっても、状況はほとんど違っている。
 けれど、自分から遠ざかって行く人を引きとめるなんて、俺にできるのだろうか?

 近くにいる人が離れていくような夢。

 急に、視界がぼやける。

 不意に、目の前に現れた少女が、俺の耳元で何かを囁く。

 場所は、夕焼けの空、高台。

 いつも見ていた夢で、最近は見ていなかった夢。
 泣きじゃくる女の子。

 どうにかして慰めようと思ったけれど、俺の意思は関係せず、時がただ流れていく。

 正面から抱きつかれる。
 また来るから、と言う。

 また会えるから……。
 ずっと一緒にいようね、身勝手な約束。

 でも、それ以降会えなかった。






695: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/15(火) 01:22:46.24 ID:1IJeBGdX0


 ──あれ? 

 これは夢で、俺の空想で。

 ……会えなかった?

 うまく頭が整理できない。

 するすると出てくる記憶。
 現実なのか? それとも、これもまた妄想の一種か?

 いつもなら目を覚ますところで、なぜか意識が飛ばない。

 続きが流れる。

 手を握り返す。自分の手も、少女の手も、とても小さかった。

 周りには誰の姿もない。

 時刻を知らせる鐘の音。
 
 行かなきゃ、と言う。
 また少女が泣き出してしまう。

 頭を撫でる、どちらともなくお互い顔を近付けて──。

 黒く長い髪の少女。
 透き通るような白い肌。

 ──唇が重なる。

 視界が、ぼやける。






696: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/15(火) 01:23:52.15 ID:1IJeBGdX0




 起きてください、と頬をつねられる。
 すぐに身体を起こして、少し彼女と距離をとった。

「おはようございます」

 寝ているうちに、あたりは一本の街灯を残して真っ暗になっていた。

「おは……よう?」

「あ、こんばんは?」

「どっちでもいいけど」

 うん、と頷いて、彼女は深呼吸をする。

 寝る前のことを思い出す。

「……私の言いたかったこと、固まりました」

「……うん」

「でも、その前に……と言っても、関係はある話なんですけど」

「うん」

「今日の朝も、さっきまでも、うなされてる様子でした。
 ……なにか、あったんですか?」

 ふっ、と身を寄せてくる。






697: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/15(火) 01:24:37.61 ID:1IJeBGdX0


「なにか、って言っても」

「……なんでもいいですよ?」

「……夢を、見てたんだ。みんなが離れていく夢。
 みんなは俺に背中を向けてどこかに歩いて行く。でも、俺は何も言えなくて、何もできなくて……」

「それで、私の名前を呼んでいたんですか」

「呼んでたの?」

「……はい」

 寝言。自分ではわかるはずもないけれど、指摘されると何だか変な気分になる。

「さっきまでは、全然違う夢も見てて」

「……」

「女の子と約束をする夢を見てて、
 でも、その女の子とも会えなくなって……」






698: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/15(火) 01:25:22.02 ID:1IJeBGdX0


 びくり、となぎさの肩が跳ねる。

「その……約束って言うのはどんな……?」

「……『一緒にいようね』って」

「……っ、と、その女の子……は、誰かわかるんですか?」

「……いや、まず現実なのかもはっきりしてないから」

「そうですか……」

「けど、約束をしたのはこんな場所で……って」

 言いながら周りを見渡すと、そこにあったのは、さっきまで見ていた夢と寸分変わらないような景色。

「どうしたんですか?」

「……この場所だ」

「……」

 緩い夜風が吹く。

 潤んだ瞳を、ごしごしと手で拭う。
 彼女は、はっとした表情をして俺の反対を向く。

 泣いている……んだよな。

 どうして。

「どうしたの?」

「……な、なんでも、ないです」

「泣いてる」

「……泣いてないです」

 まっすぐとこちらを見て、強がるような調子で断言される。






699: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/15(火) 01:26:36.02 ID:1IJeBGdX0


 どう見ても、泣いてるようにしか見えない。

「私あっち向きますから、はるくんも反対を向いてください」

「……どうして?」

「どうしても、です。お願い……します」

 理由になっていない。

 泣き顔を見られたくない、とかいろいろな理由を考えてみたけれど、納得いくようなものは浮かばない。

 どうしてもと懇願されたら、余程のことがなければ聞く方がいいとは思うけれど……。

 ……いや。

 見ているとうまく話をできないくらいなら、俺が譲歩するべきかもしれない。

「わかった」

 背中を向けると、彼女はおそるおそるといった様子で背中を合わせてきた。

 身長差で、彼女の頭が背中に当たる。






700: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/15(火) 01:27:54.72 ID:1IJeBGdX0


「……私の話に戻ってもいいですか?」

「なぎさの話したいように話してくれていいよ」

「……わかりました」

 はあ、となぎさは息を整える。

「まずは、謝ります。ごめんなさい。
 私、昨日の夜に聞いちゃいました」

「……なにを?」

「はるくんが……男の人にいろいろ言われているのを、です」

「……」

「お手洗いを行ったあとに、二階に一度戻ったんです。
 それで、ごはんを食べたところに戻ろうとしたら、中から怒鳴るような声が聞こえて……」

「うん」

「……すぐにゆかりさんが来て、全部は聞いてません。
 でも、その……はるくんのお父さんのことを言われてるのは、聞いちゃいました」

「……うん」

 聞かれていた。
 よりによって、なぎさに。

 他の人なら別にいい訳ではないけど、彼女に知られるのは、すごくモヤモヤする。






701: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/15(火) 01:28:26.12 ID:1IJeBGdX0


「……怒ってますか?」

「……ん? いや、ぜんぜん」

「それで……。私はずっと気になってて、寝てるときもうなされていて。
 今日も私が話しかけても反応が薄かったりだとか、ぼーっとしてることが多くて……」

「……」

 話しかけられたときは、いつも何かしら反応はしているつもりではいたけれど。

 ……なぎさがそう言うなら確かなのだろう。

「それで……」

「……」

「……何を言われたのか、訊いてもいいですか?」

「なんで」

 問うと、向こうから、言いたいことを押し殺したことで出たようなくぐもった音が聞こえた。






702: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/15(火) 01:29:15.41 ID:1IJeBGdX0


「……いけませんか?」

「え?」

「わかってます。……わかってますよ、家族のことを訊かれたくないのも、私に知られたくないっていうのも」

「全部わかってます」となぎさはむっとしたような声で言う。

「でも……それでも、近くにいる人が困ってて、その人の力になりたいって思うことは、いけないことですか?」

 言い切られると、答えに窮する。
 いつも通りそうと思うけれど、言っている内容は全然ベクトルが違うことで、比較できるものではない、とも思う。

「……駄目ではないけど、だからといって踏み込んでいいとはならないだろ」

「……」

「……言えることだったら、もっと前から言ってると思う。
 言えないことだから、俺は隠したいと思うし、なぎさにも知って欲しくないって思う」

「……それは、そうかも、しれないですね」

「……わかってくれた?」

 意を決して訊ねてきた彼女には酷だけれど、知られるのはたまらなく嫌だ。






703: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/15(火) 01:30:56.56 ID:1IJeBGdX0


「……じゃあ、質問を変えます」

「え……ああ、うん」

「私と初めて会ったときに、私がなんて言ったか覚えていますか?」

 質問内容ががらりと変わる。

 彼女と初めて会ったのは、俺が中三のときだ。
 いつものあの場所で、制服姿のままで誰かを待っているように佇む彼女に声をかけた。

 そのとき、俺は彼女に対して思った通りに「誰か待ってるの?」と言ったと思う。

 彼女は首を横に振ったから、何も言わずに隣に腰を下ろして。
 持ってた缶コーヒーを差し出したら受け取ってくれて。

 大まかには覚えている。
 どうして話しかけたのかは覚えていないけれど、きっと自分の場所に侵入してきた彼女のことが気になったのだと思う。

 ──それで、彼女は俺に何と話しかけてきたんだっけか?

「……覚えていませんか?」

「……うん、ごめん」

 答えると、とくん、と音が聞こえた。
 背中越しに伝わってきた彼女の鼓動か、あるいは息をのむ音か。

「……同じことを、言います」

 背中が離れた。
 なんとなく後ろを振り向いてはいけない気がして、前をじっと見たままでいる。

 両手で、肩を掴まれた。






704: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/15(火) 01:33:17.69 ID:1IJeBGdX0




「また死にたくなりましたか?」








705: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/15(火) 01:34:39.09 ID:1IJeBGdX0


「……は?」

 死に……、え?

 ……意味がわからない。
 そんな記憶は全くもってなかった。

 彼女はそれきり黙ったままで。

 もう一度考えてみる。でも、やっぱりそんな記憶はなくて。
 掴まれている肩から手を振りほどいて、彼女の方に向き直る。

 目を合わせると、なぎさは悲しげに目を伏せた。

「……私は、今にも死にたいって顔をしてますね、ってあなたに言いました」

「……」

「今だって、そのときと同じです……。
 とっても悲しそうな顔をしています」

 彼女はもう一度、自分の目を手で拭う。
 俺は、その姿をただ見つめていることしかできなかった。

「……私はあなたに、そんな顔をしてほしくないんです。
 あなたは私に自分のことは話してはくれないけど、私といるときは落ち着いてくれてるって、そう思っていました」

「……」






706: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/15(火) 01:35:40.34 ID:1IJeBGdX0


「自惚れかもしれません。それに……私がとやかく言うのもおこがましいかもしれません」

「そんなこと……」

「でも最近になって、あなたはまたいろいろ考え込むようになってしまって……」

「それが、たまらなく悔しいんです」と途切れ途切れの声で、彼女は言う。

「だからここにいる間は、口調や呼び方を変えてみたり、いつもと違うことをしてみました。
 そんなことをしても効果なんてないってわかってますけど……気が紛れてくれたらいいなって思って」

 呼び方。口調。

「……いつまで経ったって、あなたのことは何もわからなくて、苦しんでるのを眺めてるだけで」

「……」

「もう、嫌なんです。……あなたの、力になりたいんです」

「……うん」






707: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/15(火) 01:36:19.03 ID:1IJeBGdX0


 そこまで考え込ませてしまっていたなんて、全く気付いていなかった。
 彼女は人をよく見ていて、度々俺のことを見抜かれることもあったけれど、核心部分にはいつも触れてこなかった。

 俺はその周辺に至る度に、適当なことを言ってはぐらかして、彼女にはずっと嘘をついていた。

 それを、彼女は全部わかっていた。

「話して、くれませんか?」

 さっきは一度断った。
 それは、彼女がここまで考えているなんて知らなかったから。

 言ってしまえば、俺も彼女も楽になれる。
 彼女はたとえ何を聞いても、気にしないと思う。

 それで……それで……。

 急に、涙が溢れそうになる。
 こんなことを言われるなんて、少しも予期していなかった。






708: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/15(火) 01:37:12.52 ID:1IJeBGdX0


「大丈夫ですよ」

 震える腕にきゅっと手を重ねられて、震えを無理やり止められる。

「なんで……?」

「……私は、どこにも行きませんから。
 あなたと、ずっと、一緒にいますから」

「……ずっと」

「そうです。ずっと、です。
 離れませんし……絶対に離しませんから」

 ──ずっと。

 ずっとなんてない。
 人は軽々しくずっと、と言って、裏切って、切り捨てて、嘘をついて。

 そうに違いないと思っていた。

 永続的なものがないなら、俺自身が変わらなければいい。
 俺が変わらなくて、周りとの関係も変わらなくて、それなら、何も起こらないし、誰も悲しまない。

 信じられないことならはっきりと、そんなの信じられない、と言ってしまえばいい。

 でも、彼女の真剣な目を見ると、真剣な表情を見ると、信じられないなんて、そんなことを言えるわけがなかった。

「……話すよ、話す」

 俺がそう言うと、彼女は立ち上がった。

「はい、一言一句聞き逃さないように、ちゃんと聞きます。
 全部じゃなくてもいいです、どんなことでも、聞きます」

 言いながら、彼女は俺を安心させるように笑った。

 彼女は泣きやんでいた。
 なら俺も、泣きやまなければならないと、そう思った。






709: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/15(火) 01:39:56.31 ID:1IJeBGdX0




 石段を下りながら、話をした。
 彼女は俺の一段後ろを進んでいた。

 顔が見えることがなく少しほっとした。

 流石に、全て包み隠さずというのはできなくて、ところどころ言い淀みながら、
 俺の両親は離婚していて、それをネタに昨日伯父さんに詰られたこと、
 父親との関係が悪いこと、知らないことが多すぎて戸惑っていることを伝えた。

 話が終わったあとも、ただ一言「話してくれてありがとうございます」と言ったきり彼女はなにも言わなかった。

 俺は、そんな彼女の行動原理が読めなかった。

 これまでも一緒にいてくれて、これからも一緒にいてくれる。

 話を聞いてくれて、なにも言わず頷いてくれて。

「……なあ」

 後ろにいる彼女に声をかけて、振り返った。

「……はい?」

 手を伸ばせば、触れてしまいそうなところに彼女がいる。
 立ち止まる彼女を見て、頭がくらくらとする。






710: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/15(火) 01:40:38.08 ID:1IJeBGdX0


 どこかで見たような。既視感。
 さっきまでの夢と重なる。

 少女は、泣きやんだあとにこうやって笑ってくれた。

 その姿と、なぎさが、重なる。

 ……いや、それはありえないだろ。
 ここは昔知った場所で、なぎさは自分の近くにいる人だ。

 妄想。
 そう言い切れるか?

「もしかして、俺と……」

「ハル! 迎えに来たよ!」

「……あ」

 下から、ゆかりさんに声を掛けられる。

「……降りましょうか」

 彼女はてくてくと俺を追い越して、ゆかりさんの所へ駆けて行った。

 遮られた。

 でも、どうせ妄想だし、変なことを言ったら彼女だって困るだろう。






711: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/15(火) 01:41:20.71 ID:1IJeBGdX0


「こんなところまで来てたんだ。上全部真っ暗じゃん」

「あはは、明るいうちは景色が綺麗だったんですよ」

「そうなのー?」

「ゆかりさんは、眠気大丈夫ですか?」

「だいじょぶだいじょぶ! 車停めてあるから、今から帰ったら日付回るくらいには帰れるよー」

「運転よろしくお願いします」

 ゆかりさんは俺の隣に来ると、顔を覗き込んできた。

「……ハル? 元気なくない?」

「ううん、そんなことない」

「まあ、これからは帰るだけだから大丈夫だけど」

「うん」

 駐車場に着いて、車に乗り込む。
 ゆかりさんは既に家から荷物を持ってきてくれたらしい。

 じいちゃんばあちゃんには、朝に簡素な挨拶しかしてないから、帰ったら電話しよう。






712: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/15(火) 01:42:34.21 ID:1IJeBGdX0


 なぎさは帰りは後ろに座りたいですと言って、俺の隣に座ってきた。

 車内にはゆっくりとした音楽が流れて、暗くてよそ見をするのが危ないというのもあってか、ゆかりさんは話しかけてはこなかった。

「私、ちょっと眠いかもしれないです」となぎさが言う。

「寝ちゃっても大丈夫だよ?」とゆかりさんが返す。

 なぎさはゆかりさんに礼を言うと、ひと一人分くらいある俺との距離を詰めてきた。

 耳に顔を近付けてきて、「ちょっと」と声を掛けられる。

「なに?」と返すと、彼女はわざとらしく指を立てて、しーっと静かにするように促す。

 そして、また顔を近付けて、
 ぼそっとひとこと、

「……手を、握ってもらえますか?」

 と口にした。

 返事をせずに手を握ると、彼女は安心しきった顔で微笑んで、俺に身体を預けてきた。

 俺もいくらか安心して、また目を閉じることにした。

 車じゃ寝付けないと言ったのは彼女なのに、俺も、彼女も、目を閉じてからすぐに寝入ったようだった。






713: ◆9Vso2A/y6Q 2017/08/15(火) 01:43:29.92 ID:1IJeBGdX0

帰省編終わりです
あとタイトル回収もですね
まだ続きます




714: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/15(火) 02:36:43.19 ID:3yqJ39Fto

おつ




715: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/15(火) 07:57:06.05 ID:P9wEasp+o

おつ
すごくいい




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