転載元:【オリジナル】「治療完了、目をさますよ」【長編小説】

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「治療完了、目をさますよ」【1話〜6話】【7話〜12話】【7話〜12話】【19話〜最終話】

1: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 14:48:49.50 ID:gCTWDI1i0

GWということで、過去書いて完結した小説をまったり投稿していきます。
24話完結の、かなりの長編です。

ジャンルはサイコホラー。
残虐表現を多く含むため、一応R18指定とします。

まったり低速投稿なので、気長にお付き合いください。
また、投稿途中でも普通に討論など書き込んでいただいてOKです。

ワイワイ楽しんでいただけると嬉しいです。
地の文多め、普通の小説形式です。




2: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 14:51:43.75 ID:gCTWDI1i0



第1話 劣等感の階段



巨大な「目」の下に、彼女は立っていた。
目を取り囲むのは、無数の目。
蠢く肉質な壁、壁、ピンク色のそれは建物や地面を覆っている。
ぶよぶよした浮腫のようなものがまとわりついているのだ。
そして、そこに埋め込まれているのは眼球。
血走った目がぎょろぎょろ動き、彼女のことを数千、数万も凝視している。
空は黒い。
どこまでも黒い。
その真上に、空全体を覆い隠すほどの眼球が、まるで太陽のように浮き上がり、あたりを照らしていた。





 


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3: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 14:52:45.07 ID:gCTWDI1i0

常軌を逸した空間。
普通でははかりえないような、そんな空間に、彼女は平然と立っていた。
年の頃は十三、四ほどだろうか。
長い白髪を、背中の中心辺りで三つ編みにしている。
可愛らしい顔立ちをしているが、その表情は無機的で、何を考えているのか分からないところがあった。

彼女は、眼前にぽっかりと空いた「穴」の前に進んだ。




4: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 14:54:30.65 ID:gCTWDI1i0

穴は、肉の床が崩れ、内部に人間の体内に似たものが見える。
丁度食道を内視鏡で見るかのような感覚だ。
奥は曲がりくねって深く、よく分からない。

彼女は耳元に手をやった。
右耳の部分に、イヤホンつきの小型マイクがはまっている。
そのスイッチを動かして、彼女は口を開いた。




5: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 14:55:58.36 ID:gCTWDI1i0

「ついたよ。この人の煉獄の入り口」
『OK、それじゃ、攻撃に遭う前にそこに入って、記憶を修正してくれ』

マイクの向こう側から、まだうら若い青年の声が聞こえる。

「…………」
『おい、汀(みぎわ)、聞いてるのか?』
「…………』





6: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 14:56:54.91 ID:gCTWDI1i0

返事をせずに、彼女は周りを見回した。

いつの間にか、地面の肉質にも眼球が競り出して、
プツリ、と所々で音を立てながら、奇妙な汁を撒き散らしていた。
それら全てに凝視されながら、汀と呼ばれた少女は、
自嘲気味に、困ったように頭を掻いた。




7: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 14:58:12.66 ID:gCTWDI1i0

「見つかっちゃった」

子供がかくれんぼで鬼に見つかった時のように軽い言葉だったが、
マイクの向こうの声は一瞬絶句した後、キンキンと響く声を張り上げた。

『すぐ戻れ! この患者はレベル4だぞ。入り口まで出てこれるか?』
「見つかっちゃったの。逃げられないの」

ゆっくりと、言い聞かすようにそう言って彼女はウフフと笑った。




8: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 14:59:11.01 ID:gCTWDI1i0

その目は、声に反して笑っていなかった。
足元の眼球をブチュリと踏み潰し、彼女は両手を開いて大声を上げた。

「鬼さんこちら! 手の鳴る方へ!」

パンパンと手を叩く。

『こら、何してるんだ! おい、汀!』
「鬼さんこちら!」

ぶちゅり。眼球を踏み潰す。

「手の鳴る方へ!」




9: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:00:15.28 ID:gCTWDI1i0

裸足のかかとが、肉壁にめり込む。
パンパン。また手を叩く。

瞬間、その「空間」自体がざわついた。
ぎょろりと空に浮かぶ眼球が、こちらを向く。
間を置かずに、汀を囲む壁から、眼球がまるで銃弾の雨あられのように吹き飛んできた。




10: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:01:11.06 ID:gCTWDI1i0

汀は軽い身のこなしで、まるで曲芸師のようにくるりと後転してそれを避けた。

彼女が着ているものは病院服だ。

右から眼球が飛んできて、左の壁に当たって爆ぜる。
嫌な汁と血液のようなものが飛び散る。
まるでプチトマトを投げ合っているかのようだ。
汀を狙って、地面や壁から、次々と眼球が飛び出してきた。
くるくると少女は回る。
片手で地面を掴んで体を横に大きく回し、目の群れを避ける。




11: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:02:06.39 ID:gCTWDI1i0

『遊ぶな!』

怒号が聞こえる。
今までぼんやりしていた表情は、まるで別人のように生き生きと輝いていた。
しかし、次の瞬間、眼球が一つ汀の脇腹に食い込んだ。
不気味な音を立てて爆ぜ、彼女の顔にパタタタッと音を立てて汁が飛び散る。
衝撃で汀はもんどりうって肉床を転がり、したたかに後頭部を壁にぶつけた。

「あうっ!」

小さな声で叫び声を上げる。




12: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:02:50.80 ID:gCTWDI1i0

右脇腹で爆ぜた眼球は、ベットリとガムのように病院服に張り付き、次いでアメーバを思わせる動きで、ざわついた。
それが爪を立てた子供の手の形になり、汀の服をむしりとろうとする。
彼女は、口の端からよだれをたらしながら、しかし楽しそうにそれを払いのけ、また飛んできた眼球をくるりと避けた。

『お願いだからやめてくれ、汀。患者のトラウマを広げたいのか!』




13: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:03:48.16 ID:gCTWDI1i0

「分かってる。分かってるよ」
『分かってないから言ってるんだ。汀、早く中枢を』

そこで汀はイヤホンのスイッチを切った。
そしてゴロゴロと地面を転がる。
彼女を追って、眼球たちが宙を舞う。
それを綺麗に避け、汀は、地面にぽっかりと開いた穴の中に飛び込んだ。




14: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:09:01.91 ID:gCTWDI1i0



一瞬視界がホワイトアウトした。
次いで彼女は、狭い、四畳半ほどの真っ白い、正方形の部屋に立っていた。

何もない部屋だった。
天井に蛍光灯が一本だけついていて、バチバチと異様な音を発している。

薄暗い空間の、汀の前には肌色のマネキンのようなものがあった。
それは体を丸め、体育座りの要領で頭を膝にうずめていた。




15: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:10:24.23 ID:gCTWDI1i0

大きさは一般的な成人男性程だろうか。
どこにも継ぎ目がない、つるつるな表面をしている。
頭髪はない。耳も見当たらない。

汀は無造作にその前に進み出ると、腰を屈めて、頭を小さな手で掴んだ。
そして顔を自分の方に向ける。

耳も、口も鼻もない。
ただ、一つだけ眼球がその顔の真ん中にあった。
眼球は虚空を注視していて、汀を見ようとしなかった。




16: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:11:02.56 ID:gCTWDI1i0

汀は興味を失ったように頭を離した。
マネキンは緩慢に動くと、また頭を膝の間にうずめた。

「そんなに目が気になる?」

汀は静かに聞いた。

「あなたは、そんなに他人の目が気になるの?」

マネキンはゆっくりと頷いた。
何の音もない空間に、汀の声だけが響く。




17: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:11:45.60 ID:gCTWDI1i0

「馬鹿ね」

汀はにっこりと笑った。
そしてマネキンの前にしゃがみこんだ。

「だから死にたいの?」

マネキンはまたゆっくりと頷いた。

「だから逃げたいの?」

マネキンはまた頷いた。

汀はまた微笑むと、その頭を両手で包むように持った。




18: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:12:24.44 ID:gCTWDI1i0

そして眼球に、両手の親指を押し付ける。

「じゃあ見なきゃいいよ」

マネキンは痛がる素振りもみせず、ただ微動だにせず硬直していた。

「私が、あなたの目を奪ってあげる」

ぶちゅり、と指が眼球を押しつぶした。
そのまま指を、眼窟に押し込み、中身をかき回しながら汀は続けた。

「耳も、鼻も、口も、目も、そして心も閉ざして、逃げればいいよ」




19: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:12:59.68 ID:gCTWDI1i0

眼窟から、どろどろと血液が流れ出す。

「私がそれを、許してあげる」

マネキンの手が動き、汀の首を掴んだ。
それがじわりじわりと、彼女の細い首を締め付けていく。
汀は、苦しそうに咳をしながら、ひときわ強く眼窟の中に指を突きいれた。

『ウッ』

部屋の中に、男性の苦悶の声が響き渡った。




20: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:14:06.84 ID:gCTWDI1i0

マネキンの手がだらりと下がり、糸が切れたマリオネットのように足を広げ、壁にもたれかかる。
汀は拳を振り上げると、眼球がつぶれたマネキンの顔面に、何度も叩きこんだ。
血液が飛び散り、その度にビクンビクンと、魚のようにマネキンが震える。

やがて汀の病院服が、転々と返り血で染まり始めてきた頃、彼女は荒く息をつきながら、動かなくなったマネキンを見下ろした。
ダラダラと、原形をとどめていない顔面から血液が流れ出し、 白い床に広がっていく。
そして彼女は耳元のイヤホンのスイッチを入れ、一言、言った。

「治療完了。目をさますよ」




21: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:15:06.89 ID:gCTWDI1i0



「……と言うことで、旦那様は一命を取り留めました」

眼鏡をかけた、中肉中背の青年が、柔和な表情でそう言った。
それを聞いた女性が、一瞬ハッとした後、両手で顔を覆って泣き崩れる。

「主人は……」

少しの間静寂が辺りを包み、彼女はかすれた声で続けた。

「主人は、何を失くしたのですか……?」
「視力です」

何でもないことのように、青年はそう言ってカルテに何事かを書き込んだ。




22: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:15:52.14 ID:gCTWDI1i0

「視力?」

信じられないといった顔で女性は一旦停止すると、白衣を着た青年に掴みかからんばかりの勢いで大声を上げた。

「目が見えなくなったということですか!」
「はい。しかし一命は取り留めました。自殺病の再発も、もうないでしょう」
「そんな……そんな、あまりにも惨過ぎます……惨すぎます!」

青年は右手の中指で眼鏡の中心をクイッと上げると、またカルテに視線を戻した。
柔和な表情は、貼りついたまま崩れなかった。




23: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:22:12.86 ID:gCTWDI1i0

「まぁ……後は区役所の社会福祉課にご相談なさってください。こちらが、ご主人が今入院されている病院です。面会も可能です」
「先生!」

女性が机を叩いて声を張り上げた。

「主人の目が見えなくなって、一体これからどうやって生活していけというんですか! 私達に、これから一体どうしろと……」




24: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:23:00.87 ID:gCTWDI1i0

「ですから、それから先は私達の仕事の範疇外ということで。誓約書にありましたでしょう。命のみは保障いたしますと」
「それは……」
「脳性麻痺の疑いもありませんし、植物状態になったわけでもありません。ただ、『目が見えなくなった』だけで済んだという『事実』を、
私は貴女にお伝えしたまでです」
「…………」
「それでは、指定の口座に、期日までに施術費用をお支払いください。本日はご足労頂き、ありがとうございました」

話は終わりと言わんばかりに、青年は軽く頭を下げた。




25: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:24:09.18 ID:gCTWDI1i0



散々喚き散らした女性を軽くあしらい、診断室を追い出した青年は、息をついてカルテをベッドの上に放り投げた。

八畳ほどの白い部屋だった。
見た目は普通の、内科の診断室に見える。
彼は、看護士もいない部屋の中を見回し、立ち上がってドアを開け、診察を受けにきた患者もいないことを確認すると、大きく伸びをした。
そして、診断室の脇にあるドアを開ける。
中はやはり八畳ほどのスペースになっており、ディズニー系統のカーペットや壁紙など、年頃の女の子のコーディネートがなされていた。




26: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:25:33.05 ID:gCTWDI1i0

部屋の隅には車椅子が置かれ、端の方にパラマウントベッドが設置されている。
上体を浮かせた感じで、そこに十三、四ほどの少女が目を閉じていた。
テディベアの人形を抱いている。
腕には何本も点滴のチューブが刺されている。
青年はしばらく少女の寝顔を見つめると、白衣のポケットに手を入れて、部屋を出ようと彼女に背を向けた。

「起きてるよ」

そこで少女が、目を開いて声を発した。




27: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:26:19.03 ID:gCTWDI1i0

青年は振り返ると、一つため息をついて口を開いた。

「汀、もう寝る時間だろ」
「隣が煩かったから」
「悪かったよ。もう寝ろ」
「怒らないの?」

問いかけられ、青年――高畑圭介は、少し考え込んでから言った。

「お前は立派に命を救っただろ。怒るつもりはないよ」
「そうなの。なら、いいの」

テディベアを抱いて、汀がにっこりと笑う。




28: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:28:12.39 ID:gCTWDI1i0

そこには快活そうな表情はなく、げっそりとやせこけた、
骨と皮だけの少女がいるばかりだった。

汀は、上手く体を動かすことができない。
下半身不随なのだ。
左腕も動かない。
圭介が、彼女の生活のサポート、つまり介護を行っている。
他にもいくつかの病気を併発している汀は、一日の殆どを横になってすごす。
それゆえに、部屋の中にはテレビやゲーム機、漫画や本などが乱雑に置かれて、積み上げられていた。




29: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:29:20.12 ID:gCTWDI1i0

「今度は何を買ってくれるの?」

汀がそう聞くと、圭介は軽く微笑んでから言った。

「3DSで欲しいって言ってたゲームがあるだろ。あれ買ってきてやるよ」
「本当? 嬉しい」

やつれた顔で汀は笑った。
それを見て、圭介はしばらく考えた後、発しかけた言葉を無理やりに飲み込んだ。

「…………」
「疲れたから、もう寝るね」

汀がそう言う。




30: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:30:07.63 ID:gCTWDI1i0

彼は頷いて、ベッドの脇にしゃがみこむと、汀の手を握った。

「薬は飲んだか?」
「うん」
「無理して起きなくてもいいからな。目を覚ましたらブザーを鳴らせ」
「分かった」

汀の頭を撫でて、圭介は立ち上がった。
そしてゆっくりと部屋を後にする。
背後から少女の寝息が聞こえてきた。




31: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:31:10.72 ID:gCTWDI1i0



その「患者」が現れたのは、それから三日後の午前中のことだった。
夏の暑い中だというのに長袖を着た、女子高生と思われる女の子と、その母親だった。
圭介は、座ったまま何も話そうとしない女の子と、青ざめた顔をしている母親を交互に見ると、部屋の隅の冷蔵庫から麦茶を取り出して、紙コップに注いだ。
そして二人の前に置く。

「どうぞ。外は暑かったでしょう?」

女の子に反応はない。




32: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:32:19.76 ID:gCTWDI1i0

何より彼女の両手首には、縄が巻きつけられ、がっちりと手錠のように動きを拘束していた。
女の子の目に生気はなく、うつろな視線を宙に漂わせている。
圭介はしばらく少女の事を見ると、彼女の頬を包み込むように持って、そして目の下を指で押した。
反応はない。

「娘は……」

母親は麦茶には見向きもせずに、青白い顔で圭介にすがりつくように口を開いた。

「先生、娘は治るんでしょうか?」




33: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:33:02.69 ID:gCTWDI1i0

「自殺病の第五段階まで進んでいますね。きわめて難しいと思います」

柔和な表情を崩さずに、彼はなんでもないことのようにサラリと言った。
母親は絶句すると、口元に手を当てて、そして大粒の涙をこぼし始めた。

「赤十字の病院でも……同じ診断をされました。もう末期だとか……」
「はい。末期症状ですね。言葉を話さなくなってからどれくらい経ちますか?」
「四日経ちます……」
「絶望的ですね」

簡単にそう言って、圭介はカルテに何事かを書き込んだ。




34: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:33:51.46 ID:gCTWDI1i0

「ぜ……絶望的なんですか!」

母親が悲鳴のような声をあげる。

「はい」

彼は頷いて、カルテに文字を書き込みながら続けた。

「隠しても何もあなた方のためになりませんので、私は包み隠さず言うことにしているんです。自殺病は、発症してから自我がなくなるまで、およそ二日間と言われています。第四段階での場合です。今回のケースは、その制限を大きく逸脱しています」

彼は立ち上がってFAXの方に行くと、送られてきた資料を手に取った。
それをめくりながら言う。




35: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:34:43.71 ID:gCTWDI1i0

「担当は赤十字病院の大河内先生からの紹介ですね。知っています。どうして入院させなかったんですか?」
「そ、それは……娘が入院だけは嫌だと言い張って……」
「その結果命を落とすことになる自殺病の患者は、全国で一日に平均十五人と言われています」

柔和な表情のまま圭介は続けた。

「日本に自殺病が蔓延するようになって、もう十年ほど経ちますが、一向にその数は減らない。むしろ増え続けています。そして、娘さんもその一人になりかかっています」

資料をデスクの上に放って、彼は椅子に腰掛けた。

「どうなさいますか?」




36: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:35:30.48 ID:gCTWDI1i0

穏やかに問いかけられ、母親は血相を変えて叫んだ。

「どうって……ここは病院でしょう? 娘を助けてください!」
「それは、どのような意味合いで?」

淡々と返され、母親は勢いをそがれ一瞬静止した。

「意味合い……?」

「娘さんを元通りに戻すのは、無理です。自殺病第五段階四日目の生存確率は、およそ十パーセントほどと言われています。生かすことも困難な状況で、はいできましたと、魔術師のように娘さんを戻すことは不可能です」




37: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:36:15.00 ID:gCTWDI1i0

「それじゃ……」
「しかし」

一旦そこで言葉を切って、圭介は眼鏡を中指でクイッと上げた。

「私どもは、その十パーセントを百パーセントにすることだけは可能です」
「どういう……ことですか?」
「命のみは保障しましょう。命のみは」

二回、含みを加えて言うと、圭介は微笑んだ。

「その代わり、娘さんは最も大切なものをなくします」
「仰られている意味が……」




38: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:37:30.81 ID:gCTWDI1i0

「言ったとおりのことです。植物状態になるかもしれませんし、歩けなくなるかもしれない。しゃべれなくなるかもしれないし、記憶がなくなって、貴女のことも思い出せなくなるかもしれない。具体的にどうとはいえませんが」
「……そんな……どうしてですか?」
「娘さんの心の中にあるトラウマを、物理的な介入によって消し去ります。その副作用です」

端的にそう答え、圭介はデスクから束のような書類を取り出した。

「それでは、今から契約についてご説明します」
「契約?」




39: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:38:06.84 ID:gCTWDI1i0

「はい。ここで見聞きしたことについては他言無用でお願いします。その他、法律関係のいくつか結ばなければいけない契約があります」
「…………」
「それと」

母親に微笑みかけて、圭介は言った。

「当施術は、保険の対象外ですので、その点もご承諾いただきたいのですよ」




40: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:39:45.50 ID:gCTWDI1i0



「急患だ。即ダイブが必要だ」

車椅子を押しながら、圭介が言う。

そこにちょこんと乗せられた汀は、手元の3DSのゲームを凝視しながら口を開いた。

「今日はやだ」
「ゲームは後にしろ。マインドスイーパーの資格があるんなら、ちゃんと仕事をしろ」
「でも……」
「でももにべもない。ゲームは後だ」

そのやり取りをしながら、彼らは施術室と書かれた部屋の前に止まった。




41: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:40:30.89 ID:gCTWDI1i0

母親が、真っ赤に目を泣き腫らしながら、立ち尽くしている。
彼女は車椅子の上で3DSを握り締めている小さな女の子を見ると、怪訝そうに圭介に聞いた。

「この子は……」
「当医院のマインドスイーパーです」

施術室の扉を開けながら、圭介は言った。
母親は絶句した後、圭介に掴みかかった。

「何をするんですか」

それを軽くいなした圭介に、彼女は金切り声を上げた。




42: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:41:06.93 ID:gCTWDI1i0

「娘の命がかかっているんですよ! それを……それをこんな……こんな小娘に!」

汀が肩をすぼめ小さくなる。
怯えた様子の彼女を見て、圭介は白衣を直しながら、淡々と言った。

「……お母様は、待合室の方で待たれてください。マインドスイープはとても繊細な動作を要求します。この子を刺激しないでください」
「からかわないで! こんな子供に何が出来るって言うんですか!」
「…………」
「娘を殺したら、あなたを殺して私も死んでやる! ヤブ医者!」
「待合室の方に」

圭介はそう言って待合室を手で指した。




43: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:41:44.95 ID:gCTWDI1i0

彼を押しのけ、母親は施術室に入ろうとした。

「私も同席するわ。娘を妙な実験の実験台に……」
「入るな」

そこで、圭介が小さな声で呟いた。

「何を……」
「二度同じことを言わさないでください。貴女が邪魔だと言っているんです」

ネクタイを直し、彼はメガネを中指でクイッと上げた。

「刻一刻と、娘さんの命は削られていきます。今この時にも、自殺を図る可能性が高い。あなたは、私達の施術を邪魔して、娘さんを殺したいのですか?」
「…………」




44: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:42:48.93 ID:gCTWDI1i0

目をむいた母親を、無理やりに押しのけ、圭介は汀の乗った車椅子を施術室に押し入れた。

「その場合、殺人罪が適用されますので」

柔和な表情を崩さずに、彼は施術室のドアをゆっくりと閉めた。

「待合室で、お待ちください」

ガチャン、と重い音を立ててドアが閉まった。




45: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:44:44.37 ID:gCTWDI1i0



「やれるか、汀?」

そう聞かれ、汀は小さく震えながら圭介を見上げた。

「やだ。私あの人の娘なんて治したくない」
「我侭を言わないでくれ。人の命を、救いたいんだろ?」

そう言って圭介は、汀の頬を撫でた。

「これが終わったら、びっくりドンキーにでも一緒に飯を食いに行こう。やってくれるな?」
「本当?」
「ああ、本当だ」
「うん、私やる。やるよ」

何度も頷いた汀の頭をなで、圭介は施術室の中を見回した。




46: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:45:54.11 ID:gCTWDI1i0

十六畳ほどの広い部屋には、ところ狭しとモニターや計器類が詰め込んである。
その中心に、ベッドが一つ置いてあった。
先ほどの女の子が、両手足をベッドの両端に縛り付けられ、口に猿轡をかまされた状態で横たえられている。
そんな状態にも拘らず、女の子には特に反応がなかった。
汀はその顔を覗き込むと、興味がなさそうに呟いた。

「もう駄目かも」
「そう言うな。特A級スイーパーの名前が泣くぞ」




47: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:46:37.59 ID:gCTWDI1i0

「だって駄目なものは駄目だもん」

頬を膨らませた汀を無視して、圭介は計器類の中から、ヘルメットのようなものを取り出した。
黒いネットで作られていて、顔面全体を覆うようになっている。
それを女の子に被せ、同じものを汀に持たせる。
そして、彼は汀の右耳にイヤホンとマイクが一体になったヘッドセットを取り付けた。

「何か必要なものはありそうか?」
「預かってて」

3DSを彼に渡し、汀はヘルメット型マスクを被った。
そして車椅子の背もたれに体を預ける。

「何もいらないよ」




48: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:47:15.67 ID:gCTWDI1i0

「そうか。時間は十五分でいいな」
「うん」

そして圭介は、ラジオのミキサーにも似た機械の前に腰を下ろした。
それらの電源をつけ、口を開く。

「麻酔はもう導入してある。後はお前がダイブするだけだ」
「うん」
「この子の、『意識』の中にな」

含みを持たせてそう言い、圭介はにっこりと笑った。

「それじゃ、楽しんでおいで」
「分かった。楽しんでくるよ」

そう言って、汀は目を閉じた。




49: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:48:21.29 ID:gCTWDI1i0



汀は目を開いた。
彼女は、先ほどまでと同じ病院服にヘッドセットの姿で、自分の足で立っていた。
動かないはずの、下半身不随の体で、足を踏み出す。

そこは、四方五メートルほどの縦長の空間だった。
螺旋階段がぐるぐると伸びている。
その中ほどに、汀は立っていたのだった。
古びた螺旋階段は、木造りで動くたびにギシギシと音を立てる。
閉塞的なその空間は、下がどこまでも限りなく続き、
上も末端が見えないほど伸びていた。




50: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:48:54.39 ID:gCTWDI1i0

壁には矢印と避難場所と書かれた電光掲示板がいくつも取り付けられ、それぞれが別の箇所を指している。
良く見ると螺旋階段の対角側の所々に、人一人通れそうなくぼみが出来ており、そこに鉄製の扉がついていた。
汀は手近な避難場所と指された鉄製の扉を空けた。
中はただのロッカールームのようになっていて、何も入っていない埃っぽい空間だ。
そこから出て、扉を閉めてから汀はヘッドセットのスイッチを入れた。




51: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:49:30.75 ID:gCTWDI1i0

「ダイブ完了。多分、煉獄に繋がるトラウマの表層通路部分にいるんだと思う」
『そうか。どんな状況だ?』

耳元から聞こえる圭介の声に、汀は小さくため息をついて答えた。

「上と下に、上限と下限がない通路と、横に隠れる場所。多分、何かから心を守ろうとしてるんだと思う。扉が一杯あるの。どれかが中枢に繋がってるんじゃないかな」
『お前にしては曖昧な見解だな』
「話してる暇がないからね」
『どういうことだ?』

そう言った圭介の声に答えず、汀は螺旋階段の下を見た。




52: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:50:18.65 ID:gCTWDI1i0

黒い服を着た修道女のような女の子が二人、ギシ、ギシ、と階段をきしませながら、昇って来るところだった。
何かを話しているが、聞こえない。
顔も確認は出来ないが、マネキンではないようだ。

「トラウマだ」

そう呟いて、汀は近くの避難場所のドアを開けて、そこに体を滑り込ませた。
そして静かにドアを閉める。
ヘッドセットの向こうで圭介が息を呑んだ。

『強力なものか?』
「うん。かなり。見つかると厄介かも。昇ってくるから、多分下ればいいんだと思う」




53: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:51:35.15 ID:gCTWDI1i0

しばらく息を殺していると、二人の女の子は、汀が隠れているドアの前を通り過ぎた。
声が聞こえた。

「でね、国語の小山田。美紀ともヤったらしいよ」
「えぇ? 本当? 何で美紀なの?」
「さぁねぇ。小山田って優しいじゃない。頼まれて仕方なくってことじゃないかな」
「何それウケる。自分から犯してくれって頼んだってこと?」
「バカの考えることはわかんないよ。小山田も災難だよね。よりにも寄って美紀なんかとさぁ」

声が聞こえなくなった。




54: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:52:35.56 ID:gCTWDI1i0

汀はしばらくしてドアをゆっくりと開け、そこから体を静かに引き抜いた。
女の子達は、上に向かって歩いて行っている。
汀はそれを確認して、螺旋階段を小走りで下り始めた。

『慎重に行けよ。この患者は、レベル5だ』
「うん」

小声で頷いた汀の目に、また二人組の女の子達が上がってくるのが見えた。
先ほどと同じように、避難場所に隠れる。




55: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:53:12.88 ID:gCTWDI1i0

「でね、国語の小山田、美紀ともヤッたらしいよ」
「えぇ? 本当? 何で美紀なの?」

同じ会話だったが、違う声だった。

「美紀ってさ、地味だし、頭も悪いし、何もいいところないじゃん。だから、小山田を味方につけようとしたんじゃないかな」
「えぇ? 最悪。小山田、あいつヤリ捨て名人なんだよ? 美紀、バカ見ただけじゃないかなぁ」
「カンニングの話もあったじゃない。あの時の試験の担当、小山田だったらしいし」

声が聞こえなくなった。
また、汀は窪みから出て階段を降り始めた。




56: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:53:53.83 ID:gCTWDI1i0

『随分と明確なトラウマだな。珍しい』

圭介の声に、汀は答えなかった。

「ユブユブユブユブユブユブユブ」

突然、奇妙な呟きとともに、また女の子二人組が上がってくるのが見えたからだった。
隠れた彼女の耳に、雑音交じりの声が聞こえる。

「ユブ……ザザ……先生…………やめ……」
「ザザ……ユブブ……ブブ……なんで美紀なの?」
「美紀! 山内美紀! おとなしくしろ!」
「ユブ……ザザザ…………ユブユブ……」




57: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:54:37.38 ID:gCTWDI1i0

汀はそれを聞いて、今度は隠れずに、螺旋階段の中央部分に足をかけ、そして女の子達をやり過ごすように飛び降りた。
猫のようにふわりと着地し、汀は息をついた。
そこで、彼女の耳に、螺旋階段全体に声が反響したのが聞こえた。

「ゆぶユブユブユブゆぶユブユブゆぶ」

上を見た汀が、一瞬停止した。
今まで昇った女の子達が、全員一塊になって汀のことを見下ろしていたのだ。
そして「ユブユブ」と全員が呟いている。
その女の子達には、顔がなかった。
顔面にあたる場所に、「敵」という刺青のような文字が黒く書いてある。




58: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:55:26.88 ID:gCTWDI1i0

それを確認して、汀は螺旋階段の中央部分、その空間に飛び込んだ。
それと、女の子達が手に持ったバケツの中身を、下に向けてぶちまけたのはほぼ同時だった。
バケツの中身に入っていた液体が飛散する。
それが当たった階段が、ジュゥッ! と焼ける音を立てて黒い煙を発し、そして溶けた。
液体の落下よりも、汀の落下の方が間一髪で早かった。

どこまでも落ちていく。
まるで、不思議の国に行くアリスのようだ。
汀は溶けてくる螺旋階段を見上げ、そしてそのつくりが、下に行くほど雑になっているのを目にした。
ささくれ立って、ボロボロの階段になっていく。




59: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:56:01.28 ID:gCTWDI1i0

そんな中、一つだけピンク色に光る電光掲示板があった。
汀はその矢印が指すドアを確認すると、螺旋階段の手すりに手をかけ、体操選手がやるようにクルリと回った。
そしてドアを開け、中に滑り込む。
そこで、彼女の視界がホワイトアウトした。




60: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:56:53.44 ID:gCTWDI1i0



彼女は、映画館に立っていた。
薄暗い劇場は狭く、百人も入れないほどの小さな映画館だ。
そこに、全員同じ髪型をしたマネキン人形が、同じ姿勢で背筋を伸ばし座っていた。

ビーッ、と映画の始まりを示す音が鳴る。
汀は最前列の中央に一つだけあいた席に、腰を下ろした。
3、2、1とスクリーンに文字が表示され、そして古びたテーブが再生される。

そこには、今汀がダイブしている女の子の顔が、アップで映されていた。
泣きじゃくって、必死に抵抗している。




61: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:57:25.99 ID:gCTWDI1i0

「先生! 先生やめてください! こんなこと……こんなこと酷すぎます!」

観客のマネキン達から、男の笑い声が、一斉にドッと漏れた。

「先生! 先生やめてください! こんなこと……こんなこと酷すぎます!」

また笑い声が溢れる。
汀は興味がなさそうに、連続再生される女の子の顔を見て、そして立ち上がった。
彼女が立ち上がると同時に、ザッ、と音を立ててマネキン人形が立ち上がった。
それを見て、汀はにやぁ、と笑った。

「鬼さんこちら! 手の鳴る方へ!」

パンパンと手を叩いて、彼女は手近なマネキン人形を殴り飛ばした。




62: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:58:08.52 ID:gCTWDI1i0

およそ少女の力とは思えないほどの威力で、マネキン人形の首が吹き飛んでいき、スクリーンの中央に大きな穴を開ける。

『汀、今回は危険だ。遊ぶんじゃない!』
「あは、あはは!」

汀は笑った。

マネキン人形達が、彼女の四肢を拘束しようと動き出す。

<あは、アハハ!>

まるで汀の声を真似るように、マネキン人形達も笑った。

「やめられないよ! だって楽しいんだもん! 面白いんだもん!」

汀はそう言って、また手近なマネキン人形を殴った。
その胸部に大きな穴が開き、ぐらりと倒れる。




63: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:58:46.42 ID:gCTWDI1i0

「私はここでは最強なんだ! 強いんだ! こんなに楽しいゲームって、ねぇないよ!」
『汀、しっかりしろ!』

圭介の声を聞いて、汀はハッとした。
そして動悸を抑えるように、胸を掴んで荒く息をつく。
なだれのように襲い掛かるマネキン人形達の手をかいくぐり、彼女はスクリーンに向かって飛び込んだ。
大きな音を立てて、布製のスクリーンが破れる。
向こう側に突き抜け、また汀の視界がホワイトアウトした。




64: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 15:59:37.47 ID:gCTWDI1i0



気づいた時、汀はマネキン人形が所狭しと果てしなく投棄された、その山のような場所にうつぶせに倒れていた。
映画館のマネキン人形と同じように、全て同じ髪型をしている。
それらは腕をもがれたり、顔面を破壊されたり、全てがどこかしらを欠損していた。
共通しているのは、顔には「男」と書かれていること。

空には穴が開き、そこが汀が穴を開けた映画館のスクリーンらしく、ザワザワという騒ぎ声と笑い声が聞こえる。
少しして、汀は果てしなく広がる遺棄された人形達を踏みしめて、立ち上がった。




65: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 16:00:58.98 ID:gCTWDI1i0

一箇所だけ、スポットライトが当たったように明るくなっている。
そこに、全裸の女の子が、何かを抱きしめるようにして膝まづいていた。
女の子の全身には、青黒い切り傷がついていて、そこから血がにじんでいる。
人形達を掻き分け、汀は女の子に近づいた。
そして、その頬を掴んで自分の方を向かせる。
やはり顔面はなかった。
そこには「嘘」と書いてある。




66: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 16:01:31.98 ID:gCTWDI1i0

「全てを嘘にして逃げたいの?」

そう言って、汀はにっこりと笑った。

「全てを壊して、そうやって底辺で這い蹲っていたいの?」

女の子の反応はなかった。
汀は少しだけ沈黙すると、さびしそうに一言、言った。

「それが、一番楽なのかもしれないんだよ」

答えはない。




67: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 16:02:22.91 ID:gCTWDI1i0

「全てを嘘にして、全てを否定して、一番下で這い蹲ってたほうが、幸せかもしれないよ」

女の子の存在しない眼窟から、涙が一筋垂れた。

「私がそれを許してあげる」

彼女はそう言って、女の子が大事そうに抱いていた、丸い玉を手に取った。
それは白く光り輝いていて、「真実」と書いてある。

「無理して真実になんて、気づかない方がいいよ」

また、汀は微笑んだ。




68: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 16:03:06.13 ID:gCTWDI1i0

「だって、人間なんてそんなものだもの」

ぶちゅり。
丸い玉を、彼女は潰した。
どろどろとそこから血液が流れ落ちていく。

「治療完了。目をさますよ」

少し沈黙した後、汀はそう言った。




69: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 16:03:51.82 ID:gCTWDI1i0



診察室で硬直している母親を尻目に、圭介は黙々とカルテに何事かを書き込んでいた。

「お話の意味が……分からなかったんですが……」

母親がかすれた声で言う。

「ですから、堕胎しました」

圭介は顔を上げることなく、淡々とそう言った。




70: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 16:04:35.68 ID:gCTWDI1i0

「今現在、娘さんは赤十字病院の大河内先生のところで入院しています。詳しいお話は、彼からお聞きください」
「娘は……妊娠していたと言うんですか?」
「はい。正確に言うと、妊娠の極々初期だったと考えられます」
「どういうことですか!」

母親が絶叫した。
圭介は立ち上がった彼女に座るように促し、柔和な表情のまま、続けた。

「この事実は、もう娘さんの頭の中から消え去っています。それを掘り起こすのはそちらの勝手ですが、私はあまりオススメはしませんね」




71: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 16:05:20.52 ID:gCTWDI1i0

「…………」
「自殺病の再発が考えられますから」

カルテに文字を書きながら、彼は続けた。

「娘さんは、小山田という教師に暴行を受け、彼の子供を孕んだ状態だったようです。私どもは、自殺病を快癒させるために、その原因のトラウマとなっていた子供を、記憶ごと堕胎させました」
「ひ……人殺し!」

立ったまま母親が悲鳴を上げる。
圭介は表情を変えずに、椅子に座ったまま肩をすくめた。

「一番大事なものをなくすと、そう言ったではありませんか。あなたもそれは同意しているはずです」




72: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 16:06:00.03 ID:gCTWDI1i0

「でも……でも!」
「それに」

一指し指を一本立てて、圭介は言った。

「自殺病にかかった者は、決して幸福にはなれません。そういう病気なのです」
「なら……なら先生は……」

母親の目から涙が落ちる。

「どうして、娘を助けたのですか……」

圭介は母親から目を離し、カルテに判子を押した。

「命のみを保障するのが、私どもの仕事ですから」




73: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 16:06:35.07 ID:gCTWDI1i0



びっくりドンキーの一番奥の席、そこに汀はちょこんと座っていた。
余所行きの服を着ていて、落ち着かない顔で周囲を見回している。
圭介がレジから戻ってきて、ピンクパンサーの絵柄が入ったグラスを二つ、テーブル前に置いた。

「買ってきた。一緒に使おう」
「おそろい?」
「ああ」

汀はそこで、やつれた顔でにっこりと笑った。

「ありがとう」




74: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 16:07:15.00 ID:gCTWDI1i0

そこで店員……オーナーが歩み寄って、ゆっくりと頭を下げた。

「ようこそおいでくださいました、高畑様。ご注文は、いかがなさいましょうか?」
「いつものもので」
「かしこまりました」
「この子は肉は食べられませんから、メリーゴーランドのパフェを一つください。すぐに」
「はい。少々お待ちくださいませ」

オーナーが下がっていく。
汀は周りを見回すと、軽く顔をしかめた。

「何か……タバコの臭いがする」
「ここは禁煙席だよ。一番喫煙席から離れてる場所を選んだんだ。我慢しろよ」
「うん」




75: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 16:07:51.95 ID:gCTWDI1i0

汀は、手に持った3DSを落ち着きなく弄り、そして一言呟いた。

「圭介」
「ん?」
「私、人、殺しちゃった」

圭介はそれを聞いて、何でもないことのように普通に水を飲み、笑った。

「それがどうした?」
「ん、それだけ」
「メリーゴーランドでございます」

そこでオーナーが来て、大きなパフェを汀の前に置く。




76: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 16:08:27.71 ID:gCTWDI1i0

汀は打って変わって目を輝かせ、動く右手でぎこちなくスプーンを掴んだ。

「いただきます」
「残ったら俺が食うから。ゆっくり食えな」
「うん」

無邪気にアイスクリームとホイップクリームを頬張る汀に、圭介は淡々と言った。

「ま、患者の命を助けることは出来たんだ。上々だよ」
「上々?」
「ああ、上々だ」
「本当に?」
「ああ。本当だ」




77: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 16:09:05.26 ID:gCTWDI1i0

圭介は微笑んで、手を伸ばして汀の頬についたクリームを拭った。

「お前は何も考えず、自由に楽しんでればいいんだ。それが、『人を助ける』ことに繋がってるんだから」
「私、あの子のこと助けられたのかな?」
「ああ、助けたよ」

頷いて、圭介は続けた。

「お前は、命を助けたよ」




78: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 16:09:47.36 ID:gCTWDI1i0



暗い診察室の中、圭介は隣の部屋……汀の部屋の明かりが消えていることを確認して、携帯電話を手に取った。
そして番号を選んで、電話をかける。
今日の遠出で、汀はとても疲れているはずだ。
深い眠りに入っていることは確認している。

「大河内か」

汀に話しかけているときとは打って変わった、暗い声で圭介は口を開いた。




79: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 16:10:22.13 ID:gCTWDI1i0

『こんな時間に何の用だ、高畑?』
「汀に投与する薬の量を増やしたい」
『いきなりだな。何かあったのか?』

ピンクパンサーのグラスに注いだ麦茶を飲み、圭介は続けた。

「今回のダイブの記憶を消したいんだ」
『堕胎の件か』
「汀がそれを気にかけている発言をした。今後の治療に関わってくるかもしれない」
『分かった。至急手配しよう』




80: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 16:10:58.18 ID:gCTWDI1i0

「…………」
『高畑』

電話の向こうの声が、淡々と言った。

『汀ちゃんは、普通の、十三歳の女の子だ。それを忘れるなよ』
「普通? 笑わせるなよ」

圭介は暗い声で、静かに言った。

「化け物さ。あの子は」
『その化け物を使って仕事をしているお前は、一体何だ?』
「普通の人間さ」

電話の向こうからため息が聞こえる。




81: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 16:11:49.24 ID:gCTWDI1i0

しばらくして、圭介は麦茶を飲み干してから、ピンクパンサーのグラスを置いた。

『いいか高畑、汀ちゃんは……』
「あの子は俺のものだ。もう赤十字のサンプルじゃない」

彼の声を打ち消し、圭介は言った。

「どうしようが俺の勝手だ」
『そのために、あの子自身のトラウマを広げることになってもか?』
「ああ。だってそれが、道具の役割だろ?」




82: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 16:12:33.90 ID:gCTWDI1i0

圭介は、息をついて言った。

「俺は医者だからな」

携帯電話の通話を切る。
部屋の中に静寂が戻る。
圭介は、携帯電話を白衣のポケットにしまうと、
カルテに何事かを書き込む作業に戻った。
ピンクパンサーのグラスに入れた氷が溶け、カラン、と小さな音を立てた。



第2話に続く






84: 以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします 2017/05/06(土) 19:03:20.94 ID:58unHD2sO






85: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:06:01.84 ID:gCTWDI1i0

お疲れ様です。
第2話の投稿をさせていただきます。




86: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:07:10.13 ID:gCTWDI1i0

涙が落ちる。
土砂降りの中、立ち尽くしたその人は涙を流していた。

降っているのは雨ではない。
赤い。
どろどろした粘性の血液だった。
それが、バケツをさかさまにしたかのような猛烈なスコールとなって降っているのだ。

足元には血だまり。
コンクリートの地面は赤い血で着色され、五メートル先は見えない
その人は、両拳を握り締め、スコールの中、俯いてただ泣いていた。
壮年男性だろうか。
背丈は分かるが、スコールがあまりに強すぎるため、ずぶ濡れになったシャツとジーンズしか判別できない。




87: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:07:56.40 ID:gCTWDI1i0

顔は見えない。
ただ、子供のようにスン、スン、と泣く声が聞こえる。
汀は血の雨の中、体中ずぶ濡れになりながら、その男性の目の前に立っていた。
男性の泣き声以外、スコールがあまりにも強すぎて何も聞こえず、何も見えない。
汀は口を開いて何事かを言おうとした。
しかし、スコールにそれを遮られ、諦めて口をつぐんだ。
少しして彼女は、血まみれになりながらヘッドセットのスイッチを入れた。
そしてかすれた声で呟く。

「ダイブ続行不可能。目を覚ますよ」




88: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:09:33.74 ID:gCTWDI1i0



第2話 血の雨の降る景色



「今日はこれ以上は無理だ。汀ちゃんを家に帰してやれ」

そう言われ、圭介はしばらく考え込んだ後、苛立ったように部屋の中を歩き回り、ぴたりと足を止めた。

「患者の家族は何て言ってる?」
「相変わらず知らず存ぜずだよ」
「そうか……」

圭介の肩を叩いて、彼と同様に白衣を着た男性……大河内が続けた。

「この患者に入れ込むのは分かるが、少しは汀ちゃんのことも考えてやったらどうだ。肩の力を抜け」
「お前に言われなくても、それは分かってるよ」




89: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:10:55.14 ID:gCTWDI1i0

柔和な顔立ちをした圭介とは違い、大河内は髭をもみ上げからアゴまで生やした、熊のようないでたちをしていた。
そこで、ガラスで覆われた部屋の向こう側……真っ白い壁と床、そして薄暗い蛍光灯の光に照らされた施術室の中で、車椅子の汀が、もぞもぞと動きにくそうに体を揺らすのが見えた。
圭介はため息をついて、彼女の方に足を向けながら呟いた。

「これで六回目のダイブ失敗か」
「元々無茶なダイブなんだ。特A級スイーパーでも難しいことは分かっていた」

大河内がフォローするように言う。




90: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:11:30.66 ID:gCTWDI1i0

汀の前には、目を閉じて両指を胸の前で組んだ、白髪の壮年男性が眠っていた。
余所行きの服を着ている汀とは違い、こちらは病院服だ。
腕には栄養補給用の点滴がつけられていて、頭にはヘルメット型マスク、そして血圧や脳波を測定する器具が取り付けられている。
汀はそこで、強く咳き込むと、まるで溺れた人のように胸を抑えた。
急いで圭介が、施術室のドアを開けて駆け寄る。

「汀!」

呼ばれて、汀は動く右手でマスクをむしりとり、ゼェゼェと息を切らしながら、真っ青な顔で圭介を見た。




91: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:12:25.94 ID:gCTWDI1i0

「圭介……吐く……」
「分かった。もう少しだけ我慢しろ」

備え付けられているバケツを大河内から受け取り、圭介は汀の顔の前に持ってきた。
そして背中をさすってやる。
何とも形容しがたい、くぐもった声を上げて、汀が弱弱しく胃の中のものを戻した。
しばらくしてやっと吐瀉感が収まった少女の頭をなで、圭介はその口をタオルで拭いた。

「限界か?」

問いかけられ、汀は落ち窪んだ目で言った。

「もう一回行けるよ。もう少しで見つかりそう」




92: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:13:13.49 ID:gCTWDI1i0

「なら……」
「いや、今日のダイブはこれでお仕舞いだ」

圭介の声を打ち消すようにして声を上げ、そこで大河内が顔を出した。
彼の顔を見て、真っ青だった汀の顔色が少しだけ上気した。

「大河内せんせ!」

嬉しそうに彼女がそう言う。
大河内は朗らかに笑いながら、汀の小さな体を抱き上げた。
そしてその場をくるくると回ってやる。

「久しぶりだなぁ、汀ちゃん」
「せんせ、いつ頃来たの?」
「二回目のダイブの途中から見ていたよ」
「私が吐くとこも?」




93: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:13:55.89 ID:gCTWDI1i0

圭介が呆れたように息をつき、水道に汀の吐瀉物を流している。
大河内は肩をすくめて、汀を車椅子に戻した。

「今日は、私も君達の病院に遊びに行こうかな」
「本当?」

汀が目を輝かせて、両手を膝の前で組んだ。

「圭介、大河内せんせが遊びに来てくれるって」
「ああ。で、患者はもういいのか?」
「どうでもいいよこんなの」

汀が端的にそう言って、左手で大河内の手を握る。




94: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:14:51.11 ID:gCTWDI1i0

「せんせ、圭介がこの前、Wii買ってくれたの。一緒に毛糸のカービィやろ」
「うん、うんいいだろう。元気そうでとても安心したよ」
「汀、はしゃぐのはいいが、薬もまだ飲んでいないしダイブ直後だ。大河内も少しは考えてくれ」
「あ……ああ、すまない」

圭介は、はしゃいでいる汀とは対照的に、苦そうな顔をして彼女の車椅子の取っ手を持った。

「高畑、それじゃ今日は……」
「お前が顔を出しちまったから、汀の集中力が激減したよ。これ以上のダイブは無理だな」
「せんせ、手つなご」

汀がゆらゆらと細い、骨ばかりの右腕を伸ばす。




95: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:15:31.97 ID:gCTWDI1i0

大河内は微笑むと、汀の手を掴んだ。

「私が下まで送っていこう。高畑は看護士を呼んで、患者の移動をさせてくれ」

圭介は一つため息をついて、ベッドに横になっている白髪の壮年男性を、横目で見た。

「分かった。汀、大河内先生に失礼のないようにな」

圭介から汀の車椅子を受け取り、大河内はゆっくりと動かし始めた。
汀は完全に圭介の事を無視し、大河内に、車椅子から取り出した3DSの画面を見せている。




96: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:16:34.63 ID:gCTWDI1i0

「見て、せんせ。圭介に手伝ってもらって、今度のポケモンも全部集まったよ」
「おおそうか。早いなぁ。さすがは汀ちゃんだ」
「えへへ」
「お寿司でも頼もうか」
「本当? 私も食べる!」

二人を見送り、圭介は施術室の中の計器の一つを覗き込んだ。
そしてその数値を見て、苛立ったように頭をガシガシと掻く。
いつも柔和な表情は、極めて暗かった。




97: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:19:01.12 ID:gCTWDI1i0



大河内が頼んだ寿司の出前を前に、汀は、自分の部屋で、彼とゲームに熱中していた。
それを興味がなさそうに見ながら、圭介が寿司を一つつまんで口に入れる。

「汀ちゃんは上手いなぁ」
「ここを、こう飛び越えるんだよ」
「こうか? それっ!」

子供のように騒いでいる大河内を呆れ顔で見て、圭介は手元にあった資料に目を落とした。
先ほどの壮年男性の顔写真と、経歴などが書いてある。




98: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:20:25.73 ID:gCTWDI1i0

しばらくして、リモコンを振り疲れたのか、汀が息をついて、パラマウントベッドに体を預けた。
大河内もリモコンをテーブルに置き、彼女の汗をタオルで拭う。

「汀、少しはしゃぎすぎだ。休んだ方がいいぞ」

圭介が資料から目を離さずに言う。
汀はむすっとして彼を見た。

「全然疲れてないもん」
「まぁまぁ。歳のせいか、私のほうが先に疲れてしまった。少し休憩といこうか」

大河内がそう言って、寿司を口に入れる。




99: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:21:01.34 ID:gCTWDI1i0

「汀ちゃんも食べるかい?」
「せんせが食べさせてくれるなら食べる」
「どれがいい?」
「うに」
「やめておけよ」

圭介が資料をめくりながら言う。

「また吐くぞ。クスリ注射したばっかだろ」
「うるさい圭介。さっきからブツブツブツブツ。邪魔しないでよ」
「はいはい」

肩をすくめた圭介の前で、大河内が小さくまとめたシャリとウニを、箸で汀の口に運ぶ。




100: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:22:18.79 ID:gCTWDI1i0

「おいしい」

やつれた少女は笑った。
しかしその顔が、すぐに青くなり、彼女は口元を手で押さえた。

「ほらな」

慌てて大河内が洗面器を彼女の前に持ってくる。
そこに胃の中のものを全て戻し、汀は苦しそうに息をついた。
その背中をさすって、大河内がおろおろと圭介を見る。

「す……すまない。少しくらいならいいかと思ったんだが……」
「全く……人の話を聞かないから」

呆れた声で圭介は資料を脇に挟み、汀の吐瀉物が入った洗面器を受け取った。

「とりあえず、大河内も少し汀を休ませてやってくれ。俺は診察室にいるから」




101: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:24:11.28 ID:gCTWDI1i0

バタン、と音を立ててドアが閉まる。
少し沈黙した後、汀はため息をついた。

「……圭介、怒ってる」

そう呟いた彼女に、大河内は口元をタオルで拭いてやりながら首を振った。

「疲れてるのさ。汀ちゃんも、そういう時があるだろう?」
「違うの。私には分かるの」

汀はそう言って、Wiiのリモコンを握り締めた。

「私が、役に立たないから……」

大河内が、発しかけていた言葉を飲み込む。




102: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:25:10.02 ID:gCTWDI1i0

そこで汀は、突然右手で頭を押さえた。
強烈な耳鳴りとともに、彼女の視界が暗転する。
体を丸めた汀を、慌てて大河内が抱きとめた。

「汀ちゃん!」

汀の視界に、先ほどダイブした男性の、脳内風景が蘇る。
血の雨。
立ち尽くす男。
泣き声。
血だまり。
コンクリートの地面。
先の見えないスコール。
土砂降り。




103: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:25:53.98 ID:gCTWDI1i0

――あなたは何をなくしたの?

汀はそう問いかけた。
答えは返ってこなかった。
何をなくしたのか、汀はそれを知りたかった。
何をなくして、どうして泣いているのか。
しかしスコールは、彼女のことを拒むかのように、
強く、強く降り、身体を粘ついた血液まみれにしていく。

――何をなくしたの!

汀は叫んだ。
何度も、何度も。
掴みかかって、男を揺さぶる。




104: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:27:26.45 ID:gCTWDI1i0

そこで汀はハッとした。
聞こえるのは、泣き声。
しかし男の顔は。
ただ、笑っていた。

「…………っ」

頭を振り、汀が声にならない叫び声を上げる。
頭の奥の方に、抉りこむような頭痛が走ったのだ。

「高畑! 高畑、来てくれ!」

大河内が大声を上げる。
そこで、汀の意識はブラックアウトした。




105: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:28:57.37 ID:gCTWDI1i0



「……悪かった。汀ちゃんの病状を、軽く考えていたよ」

診察室の椅子に座り、大河内がため息をつく。
圭介は資料をめくりながら、興味がなさそうに口を開いた。

「気に病むなよ。いつものことだ」
「…………」
「それに、お前は汀の中では『お父さん』でもあり、『恋人』でもあるんだ。多少はしゃいでゲロ吐いたって、あいつの精神衛生上プラスになってることは間違いない」
「だろうが……口が悪いぞ、高畑」
「そうか?」

顔を上げずに、彼は続けた。

「まぁ、起きた頃には忘れてるさ。それより見てみろ、大河内」




106: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:30:13.41 ID:gCTWDI1i0

資料を彼に放り、圭介は椅子の背もたれに寄りかかった。

「あの患者の経歴だ」
「どこから取り寄せた?」
「世の中には『親切な人』が沢山いてね」

柔和な表情で彼は腕を組んだ。
大河内は資料に目を通してから、深いため息をついた。

「なぁ、この患者の治療はもうやめにしないか?」
「…………」

圭介は少し沈黙してから、言った。

「嫌だね。一度依頼された治療は必ず行う。それが俺の方針だよ」




107: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:30:57.19 ID:gCTWDI1i0

「汀ちゃんを見ろ。負担がかかりすぎてる。この患者の治療をするには、十三歳では難しすぎると私は思うがね」
「でも、汀は特A級だ」
「天才であることは認めるよ。しかし、適材適所という考え方もある。これは、赤十字の担当に回したほうがいい」
「大河内」

彼の言葉を遮り、圭介は言った。

「汀にとって、お前は『お父さん』であり、『恋人』であるかもしれないけど、お前にとって、汀は『娘』でも『恋人』でもないぞ。俺も同じだ。入れ込みすぎているのはどっちだ?」

問いかけられ、大河内が口をつぐむ。




108: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:31:35.65 ID:gCTWDI1i0

圭介は資料を彼から受け取り、テーブルの上に戻した。

「治すさ。汀は」
「…………」
「たとえそれが、家族から見放された、重度の『痴呆症』の患者であっても」
「痴呆症の患者は、精神構造が普通の人間とは違う。汀ちゃんに、それを理解させるのは無理だ」
「無理でもやるんだよ」

いつになく強固な声で、圭介は言った。

「それが、あの子の仕事だ」




109: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:32:43.74 ID:gCTWDI1i0



汀が目を覚ました時、丁度圭介が点滴を替えているところだった。
汀は起き上がろうとして、体に力が入らないことに気がつき、息をついてベッドに体をうずめる。

「おはよう」
「おはよう、良く眠れたか?」

圭介にそう聞かれ、汀は軽く微笑んで首を振った。

「よく寝れなかった」
「遊びすぎたんだよ。お前達は、加減を知らないから……」
「加減?」
「…………」

圭介が、不思議そうに問い返した汀を見る。




110: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:33:43.80 ID:gCTWDI1i0

そして少し沈黙してから、また点滴を交換する作業に移った。

「いや、いいんだ。別に」
「気になるよ。何かあったの?」
「大河内が来ただけだ」
「せんせが来たの?」

汀は、途端に顔を真っ赤にして圭介を見た。

「ど、どうして起こしてくれなかったの?」

どもりながらそう聞く彼女に、圭介はまた少し沈黙した後、答えた。

「お前、覚えてないだろうけど、昨日の夜かなり具合が悪かったんだ。どの道、クスリ飲んでたから話は出来なかったと思うよ」




111: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:34:20.23 ID:gCTWDI1i0

「せんせ、ここに入ってきたの?」
「ああ」
「恥ずかしい……私、こんな……」

毛布を手繰り寄せて、汀は小さく呟いた。
彼女の女の子らしい反応を見て、圭介は小さく微笑んで見せた。

「大河内は気にしないだろ。お前の格好なんて」
「せんせが気にしなくても、私が気にするの」

まるで、昨日大河内とWiiで遊んだことを、いや、彼がこの部屋に来たことさえもを覚えていない風だった。
否、覚えていない風、なのではない。
覚えていないのだ。




112: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:35:25.39 ID:gCTWDI1i0

圭介はこの話は終わりとばかりに、点滴台から離れると、隣の診察室に歩いていった。
汀が胸を押さえながら、俯く。
大河内と話せなかったと思ったことが、相当ショックらしい。
圭介はしばらくして戻ってくると、汀に写真のついた資料を渡した。

「これは覚えてるか?」

問いかけられ、汀は写真を覗き込んだ。
そして首を傾げる。

「誰?」
「覚えてないならいいんだ。今回の患者だ」

興味がなさそうに資料をめくり、しばらく見てから、汀はある一箇所を凝視した。




113: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:35:59.38 ID:gCTWDI1i0

「ふーん」

と何か納得した様な声を出す。そして圭介に返し、彼女は彼を見上げた。

「それで、いつダイブするの?」
「今日は無理だな。お前の体調が戻り次第、ダイブしてもらいたい」
「いいよ。圭介がそう言うなら」

にっこりと笑って、汀は続けた。

「その人を助けることも、『人を助ける』ことになるんでしょう?」

問いかけられ、圭介は一瞬口をつぐんだ。
しかし彼は、微笑みを返し、頷いた。

「……ああ。そうだよ。お前が、助けるべき患者だよ」




114: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:37:17.98 ID:gCTWDI1i0



「……そうか。一緒に遊んだ記憶が飛んだか」

赤十字病院の一室で大河内がそう言う。
彼は暗い顔で、腕を組むと壁に寄りかかった。

「ダイブした患者の記憶も、スッキリ飛んでた。お前の用意したクスリは、本当に良く効くな」

資料に目を通しながら圭介が言う。
大河内は反論しようと口を開けたが、言葉の着地点を見つけられなかったらしく、息をついて呟いた。

「クスリが強すぎる」
「それくらいが丁度いいんだ。あの子のためにも」

含みを込めてそう言うと、圭介はガラス張りの部屋の向こうに目をやった。




115: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:38:06.71 ID:gCTWDI1i0

数日前のように、車椅子にマスク型ヘッドセットをつけた汀と、前に横たえられた壮年男性の姿が見える。
マジックミラーのようになっていて、向こう側からはこちらの様子を伺うことは出来ない。
汀はもぞもぞとヘッドセットを動かすと、車椅子の背もたれに体を預け、脱力した。

『準備完了。これからダイブするよ』

壁のスピーカーから彼女の声が聞こえる。
圭介は、壁に取り付けられたミキサー機のような巨大な機械の前に腰を下ろすと、そのマイクに向けて口を開いた。

「説明したとおり、その患者は普通の患者じゃない。重度のアルツハイマー型痴呆症にかかってる。普通の人間と精神構造が違うから、注意してくれ」
『大丈夫だよ。すぐに中枢を探してくるから』




116: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:38:49.64 ID:gCTWDI1i0

「時間は十五分でいいな?」
『うん』

頷いて、汀は呟いた。

『ここ、赤十字でしょ? ……大河内せんせに会いたいな』

隣で大河内が軽く唾を飲む。
圭介は小さく笑うと、なだめるように言った。

「集中しろ」
『分かってるよ』
「これが終わったら、考えてやってもいい」




117: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:39:42.05 ID:gCTWDI1i0

『本当?』
「ああ、本当だ」
『約束だよ』
「ああ、約束だ」
『うん、私頑張る。頑張るよ』

何度も頷く汀を、感情の読めない顔で見つめ、圭介は言った。

「それじゃ、ダイブをはじめてくれ」




118: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:40:50.18 ID:gCTWDI1i0



汀は、古い日本家屋の中に立っていた。
床に、立っていた。

「うわっ!」

小さく叫び声を上げ、汀は真下に落下した。
ドタン、と受身を取ることも出来ずに、体をしたたかに打ちつけ、彼女はしばらくうずくまって、痛みに耐えていた。

『どうした?』

圭介の声がヘッドセットから聞こえる。
汀は息をついて、腰をさすりながら起き上がった。

「ちょっと失敗しただけ。何でもない」




119: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:42:35.78 ID:gCTWDI1i0

そこは、上下が逆になった世界だった。
床が天井の位置にある。
反対に、天井が床の位置にある。
しかし、家具や電灯は、重力に逆らって上方向に固定されていた。

汀だけが、家屋の中、その天井に立っている。
先ほどは床の位置から落下したのだ。

息をついて周りを見回す。
タンスに、大きなブラウン管型テレビ。
足元の電球の周りには虫が飛んでいる。
障子は開いていたが、その向こう側は真っ白な霧に覆われていた。
そこは居間らしく、頭上にテーブルと座布団が見える。




120: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:43:12.73 ID:gCTWDI1i0

奇妙な光景だった。
今にも家具が天井に向けて『落ちて』きそうな感覚に、汀は少し首をすぼめた。

「ダイブ完了。でも、良くわかんない」
『分からないってどういうことだ?』
「煉獄に繋がる通路じゃないみたい。トラウマでもないし。普通の、通常心理壁の中みたいだよ」
『何か異常を探すんだ』
「上下が逆になってるだけ。それくらいかな」

何でもないことのように汀は言うと、天井に立った。




121: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:43:46.23 ID:gCTWDI1i0

そして彼女は、這うようにしてテレビの方に近づくと、頭上の床から垂れ下がるようになっているそれに手を伸ばした。
何度かピョンピョンとジャンプし、スイッチをやっと指で押す。
さかさまになっているテレビの電源がつき、砂画面が映し出された。
しばらくして勝手にチャンネルが変わり、汀の顔が映し出される。

「……?」

首をかしげて、さかさまに映っている自分のことを、彼女は見た。
黒い画面に、汀が立っているだけの映像。




122: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:44:42.25 ID:gCTWDI1i0

またしばらくして、画面の中の汀の首が、パンッと音を立てて弾け飛んだ。
首のなくなった彼女の体が、グラグラと揺れて、無造作に倒れこむ。
汀は冷めた目でそれを見ると、手を伸ばしてテレビの電源を切った。

「訂正。通常心理壁じゃない。ここ、異常変質心理壁だ。H型だね」
『知ってる。そこから出れるか?』
「何で知ってるの?」

汀の質問に答えず、圭介は続けた。

『この患者は普通じゃないと言っただろ。中枢を探してくれ』
「……分かった」

汀がそう言った時だった。




123: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:47:07.38 ID:gCTWDI1i0

ゴロゴロゴロゴロ……ドドォォーンッ! と、雷の音があたりに響いた。

「ひっ」

雷が怖かったのか、汀は息を呑んで体を硬直させた。
そして気を取り直して障子の向こうを見る。

パタ……パタタタタタタ……! と、連続的な音を立てて、何かが下から上に、『降って』きた。
それは、血液のように赤かった。
否。
血液だった。
上下がさかさまになった空間の外で、下から上に、血の雨が降っている。




124: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:47:42.49 ID:gCTWDI1i0

それは途端に土砂降りになると、たちまちゴーッという耳鳴りのようなスコールに変わった。
汀の頭の上で、床下浸水したかのように、溜まった生臭い血液が、家屋の中に進入してくる。
狭い部屋の中、血液の波は一気にタンスやテレビを飲み込んだ。
テレビの電源が勝手につき、そこからけたたましい笑い声……男性の、引きつった痙攣しているような声が響き渡る。
汀は、頭の上から迫ってくる血だまりを見上げ、足下の天井を蹴って、障子に向かって走り出した。




125: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:48:28.32 ID:gCTWDI1i0

その途端だった。
ぐるりと視界が反転し、彼女は、入ってきた時と同じように、血の海の中に頭から突っ込んだ。
上下さかさまになっていた空間が、突然元にもどったのだ。
床が下に。
天井が上に回転した。
小さな体を動かし、汀はもったりとした血液を掻き分けて顔を出し、息をついた。
しかし、ぬるぬると血液は彼女の体を沈み込ませようとする。
それに、どんどん血液は家屋の中に進入して、かさを増してきていた。
汀は成す術もなく、血の海に飲み込まれた。




126: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:49:19.88 ID:gCTWDI1i0



気づいた時、彼女は一面の花畑の中に横たわっていた。

「……ゲホッ、ゲホッ!」

激しくえづいて、飲み込んでしまった臭い血液を吐き出す。
体中血まみれだ。

『汀、大丈夫か? 返事をしてくれ』

圭介の声に返そうとして、汀は自分を囲んでいるつたに手を伸ばし

「痛っ!」

と言って手を引っ込めた。




127: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:50:56.50 ID:gCTWDI1i0

彼女がいたのは、真っ赤な薔薇が咲き誇る、一面の薔薇畑だった。
無数の棘がついたつたに囲まれ、彼女は起き上がろうとして、ビリビリと病院服のすそが破れたのを見て、舌打ちをした。

「……攻撃性が強すぎる」
『それが痴呆症の特徴だ。理性の部分のタガが外れてるからな』
「寒い……」

肩を抱いた汀の頭上、そこからプシュッ、と言う音がした。
良く見るとそこは広いビニールハウスで、天井にはスプリンクラーがついている。
そこから、勢い良く血液が噴出した。
たちまち豪雨となり、痛いくらいに汀の体を、生臭くて生ぬるいモノが打ち付ける。
たまらず、汀は足を踏み出して、薔薇の棘で全身を切り刻まれるのも構わず、走り出した。
スプリンクラーが強すぎて、息も出来ない。




128: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:51:45.42 ID:gCTWDI1i0

『汀、何があった!』
「大丈夫! 何でもない!」

悲鳴のように答えると、彼女は近くの薔薇の茂みに飛び込んだ。
僅かに血の豪雨が防げる場所に、体中を切り刻みながら入り込み、小さくなって震える。
とても寒かった。

「何でもない……大丈夫。私やれるよ……」

か細く、ヘッドセットにそう言う。
圭介は一瞬沈黙してから、言った。

『頑張れ。俺はお前を、応援してる』
「分かった……」

頷いて、汀は近くの薔薇を手にとって、小さな手が傷つくのも構わず、それを毟り取った。




129: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:52:34.06 ID:gCTWDI1i0

そして大きな棘を、自分の左腕、その手首につける。
グッ、と力を込めると、棘は簡単に柔肌にめり込み、たちまち汀の腕から、ものすごい勢いで血が溢れ出した。
痛みに顔をしかめながら、彼女はビニールハウスの地面……血が溜まってきたそこに、自分の血を垂らした。
ジュゥッという焼ける音がして、汀の血が当った場所が蒸発した。
左腕を掴み、血を絞り出す。




130: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:53:15.80 ID:gCTWDI1i0

「そんなに血が好きなら……好きなだけ飲ませてあげるわよ。好きなだけね!」

もう一度汀は、自分の腕を棘で切り刻んだ。
ボタボタと血が垂れる。
汀の足元、蒸発した空間から、白い光が漏れ出した。
それが円形の空間に変わり、真っ白い光を放ち始める。
汀は、棘を掻き分けてそこに飛び込んだ。




131: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:54:50.06 ID:gCTWDI1i0



病院服も破り取られ半裸で、体中に切り傷をつけた状態で、汀は高速道路に横たわっていた。
のろのろと起き上がり、空を見上げる。
曇り空で、黒い雲があたりに広がっている。
また血の雨が降るのも、時間の問題のようだ。

<死んじゃえばいいのに>

そこで、何も走っていない高速道路に、子供の声が響いた。

<お爺ちゃんなんて、死んじゃえばいいのに>




132: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:55:19.67 ID:gCTWDI1i0

別の男性の声がした。

<お爺ちゃんは、死んだ方が幸せなのかもしれないよ>
<もうお爺ちゃんは、元にもどらないの?>
<お爺ちゃんは、幸せな世界に行ったんだよ>
<だから、ね>
<現実の世界の、この体は、さよならしよう>

キキーッ!
ブレーキの音が聞こえる。
汀は、慌てて振り向いた。




133: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:56:01.41 ID:gCTWDI1i0

自分めがけて、巨大なトラックが迫ってくるところだった。
避けようとしたが、体が動かない。
小さな体は、ブレーキをかけたトラックにいとも簡単にはねられ、数メートル宙を待ってから、糸が切れたマネキンのように地面に崩れ落ちた。

『汀!』

圭介の声が聞こえる。
汀は、したたかにコンクリートに打ち付けた頭から血を流しながら、
ぼんやりと目を開いた。
そして、はねられた後だというのに、のろのろと起き上がる。




134: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:56:40.51 ID:gCTWDI1i0

腕と足が異様な方向に曲がっており、満身創痍にも程があると言った具合だった。
トラックの運転席には、誰もいない。
今は停まっているそれを見て、彼女はゆっくりと振り返った。
ケタケタと、写真で見た壮年男性が笑っていた。
十メートルほど離れた場所に直立不動で立って、目だけは笑っていない顔で、笑っている。
ポツリ。
また、血が降ってきた。
汀は、荒く息をついて、彼に向かって口を開いた。

「……あなたに、輸血が出来なかった」

か細い声だった。




135: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:57:15.92 ID:gCTWDI1i0

「事故に遭ったあなたは、宗教上の理由で輸血をしてもらえなかった」

ケタケタと男が笑う。

「だから、あなたは狂ってしまった」

血の雨が強くなった。

「麻痺が残った体で、あなたは段々と夢の世界に逃避するようになっていった」

汀は、男に向けてズルリと足を引きずった。
あたりに豪雨がとどろき渡る。
汀は、男の前に時間をかけて移動すると、その焦点の合わない瞳を見上げた。
そしてさびしそうに口を開く。

「あなたが探しているものは、もうどこにもないよ」




136: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:57:48.07 ID:gCTWDI1i0

男は、いつの間にか笑っていなかった。
真正面を凝視している彼に、汀は続けた。

「元になんて戻れない。一度狂ったら、狂い尽くすしかないんだよ。この世は」

男が手を振り上げ、汀の頬を張った。
何度も。
何度も。
汀は殴られながら、悲しそうな顔で男を見上げ、そしてその手を、折れていない方の右手で掴んだ。

「でも、そんなのはさびしすぎるから」

男の目が見開かれる。




137: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:58:20.05 ID:gCTWDI1i0

「私が、狂い尽くすことを、許してあげる」

血のスコールの中、汀は男を引き倒した。
そしてその上に馬乗りになり、まだパックリと開いている自分の左腕の傷口を彼の口に向ける。
ポタポタと、汀の血が、男の口に入った。
男が悲鳴を上げて、滅茶苦茶に暴れる。
それを押さえつけ、汀は血を彼の口の中に絞り出した。
しばらくして、徐々にスコールが止んできた。
やがて雲が晴れ、空に青い色が見えてくる。
晴れた空の下、汀は力なく横に崩れ落ちた。
男は、どこにもいなかった。
彼女はボロボロの体で、ヘッドセットのスイッチを操作して、呟いた。

「治療完了……目を覚ますよ」




138: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:59:18.18 ID:gCTWDI1i0



「三島寛治。六十九歳。高速道路で、車から転落。その後、病院に運ばれるも、家族に宗教上の理由で輸血を拒否され、十分な治療が出来ずに体に麻痺が残る。後にアルツハイマー型痴呆症の悪化と自殺病を併発……か」

大河内は資料を読み上げ、それを圭介に放った。

「もっと早くこの資料を見つけてれば、ダイブは初期段階で成功してたんじゃないか?」
「それを汀に見せたのは、ただ単なる気まぐれだよ。規定概念がダイブに影響すると、余計な状況を招く恐れがあるからな」
「それにしても……やはり、見せるべきだったと俺は思う。七回もダイブする必要はなかったんだ」




139: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 20:59:52.75 ID:gCTWDI1i0

汀の部屋で、大河内は立ったまま、すぅすぅと寝息を立てている彼女を見下ろした。

「ここまで負担をかけることもなかった」
「負担? 何を言ってるんだ」

圭介はピンクパンサーのコップに入れた麦茶を飲んで、続けた。

「仕事だよ」
「お前……」

大河内が顔をしかめて言う。

「口が過ぎる」
「そういう性格なんだ。知ってるだろ?」
「汀ちゃんにこれ以上負担をかける治療を行っていくっていうのなら、元老院にかけあってもいいんだぞ」




140: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 21:00:51.78 ID:gCTWDI1i0

「脅しか?」
「ああ」
「…………」

少し沈黙してから、圭介は息をついた。

「やるんならやれよ。前みたいな失敗を、繰り返したいんならな」
「…………っ」

言葉を飲み込んだ大河内に、圭介は薄ら笑いを浮かべて言った。

「結果が全てだろ。所詮。元老院だって分かってるはずだ。今回のダイブだって、アメリカの症例二件を含めなければ、日本人で初のアルツハイマー型痴呆症患者の治療成功例として登録されたんだ。褒められはすれど、怒られるいわれはないね」




141: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 21:01:39.31 ID:gCTWDI1i0

「人道的な問題というものがある」
「人道的……ね」

圭介はFAXの方に近づいて、資料を手に取った。

「じゃあ、最初からやらなければ良かったと、お前はそう言うのか?」
「ああ、そうだ」
「助けなければ良かったというのか?」
「助ける? お前、自分が何を言っているか分かってるのか?」

大河内が声を荒げた。

「自殺病を治しただけで、アルツハイマーは治っていない。それが、患者の幸福に繋がっているとでも言いたいのか!」

胸倉を掴み上げられ、圭介は、しかし柔和な表情のまま口を開いた。




142: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 21:02:49.26 ID:gCTWDI1i0

「自殺病にかかった者は、決して幸福にはなれない。そういう病気なんだ。知ってるだろ?」
「俗説だ」
「じゃあ逆に聞くが、お前はあのまま、死なせてやった方が患者のためになるとでも言いたいのか?」
「…………」
「なぁ大河内」

圭介は大河内の手をゆっくりと下に下ろし、麦茶を飲んでから言った。

「俺達は医者だ」
「…………」
「そしてこの子は、道具だ」
「…………」
「それ以上でも、それ以下でもない」




143: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 21:03:29.58 ID:gCTWDI1i0

大河内は少し沈黙してから、小さく言った。

「なら何故、ここまでする?」

汀の部屋を見渡す。
最新のゲーム機、雑誌、漫画、それらが所狭しと置かれた部屋の中で、圭介は肩をすくめた。

「必要だからさ」
「それだけとは、私にはどうも思えないのだがね」
「皮肉か?」
「それ以外の何かに聞こえたのなら、多分そうなんだろう」

大河内は息をついて、圭介に背を向けた。




144: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 21:04:01.91 ID:gCTWDI1i0

「また来るよ」
「出来れば来ないで欲しいんだけどね」
「それは無理な相談だ」

大河内はドアに手をかけ、そして言った。

「私はその子の『父親』でもあり、何しろ『恋人』でもあるんだからな」
「…………」

圭介はそれに答えなかった。




145: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 21:04:52.70 ID:gCTWDI1i0



びっくりドンキーの前と同じ席で、汀はゆっくりとメリーゴーランドのパフェを口に運んでいた。
その頭が、眠そうにこくりこくりと揺れている。
圭介はステーキを口に運んでから、汀に声をかけた。

「大丈夫か? 無理しなくてもいいんだぞ」
「久しぶりのお外だもん……無理なんてしてないよ……」

しかし眠そうに、汀は言う。

「この後、本屋さんに行ってね、ゲームセンターに行ってね…………ツタヤにも行って…………」
「そんなに回れないだろ」




146: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 21:05:30.47 ID:gCTWDI1i0

「……何でも言うこと聞いてくれるって言ったのは圭介だよ……」

息をついて、圭介は手を伸ばして、汀の前からパフェをどけた。

「とりあえず、店を出よう。一旦車で休んだ方がいい」
「うん……」

頷いた汀を抱きかかえ、車椅子に乗せる。

「高畑様、お帰りですか?」

オーナーが進み出てきてそう聞く。
圭介は頷いて、苦笑した。

「この子がもう限界でしてね。会計は、後ほど」
「かしこまりました」




147: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 21:05:58.91 ID:gCTWDI1i0

頷いた彼から、圭介はもうまどろみの中にいる汀に目を移した。
汀は、こくりこくりと頭を揺らしながら、小さく呟いた。

「圭介……」
「ん?」
「あのね……あのね…………」

少し言いよどんでから、とろとろと彼女は言った。

「ずっと、考えてたの……」
「何を?」
「何も分からないで死ぬのと……何も分からないで生きるのって……どっちが正解なのかな……?」




148: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 21:06:35.77 ID:gCTWDI1i0

「…………」
「結局何も分からないなら…………何も出来なかったのと、同じじゃないかな…………」

圭介は無言で車椅子を押した。
そして店員達に見送られながら、駐車場に向かう。

「……俺にはまだ、よく分からないけど」

彼はそう言って、車のドアを開けた。

「生きていた方が、多分その方が幸せなんだろうと思うよ」
「…………」




149: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 21:07:11.13 ID:gCTWDI1i0

「たとえ何も分からなくても、その方が……」

寝息が聞こえた。
彼は、眠りに入っている汀を見下ろし、息をついた。
そして小さく呟く。

「幸せだと、思うよ」

その呟きは寂しく、かすかな風にまぎれて消えた。




150: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/06(土) 21:09:07.82 ID:gCTWDI1i0



第3話に続く



お疲れ様でした。
次話は明日、5/7に投稿予定です。
雨が降って寒い地方もありますが、皆様も体調に気をつけてくださいね。
m(_ _)m




154: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:11:42.45 ID:nqce1vDF0



第3話 蜘蛛の城



蝉の声が聞こえる中、汀は圭介に車椅子を押してもらいながら、木漏れ日の中を進んでいた。
夕暮れ近くの、気温が下がってきた頃、近くの公園まで散歩に出てきたのだった。
そこで、汀はふと、公園の木の下に目を留めた。

「圭介」

呼びかけられて、圭介が車椅子を止める。

「どうした?」




155: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:12:24.86 ID:nqce1vDF0

「あそこ」

右手で木の下を指差す。
そこには薄汚れた段ボール箱が置いてあり、夕立で濡れたのか、グショグショのタオルがしいてあった。
近づいて覗き込んで、圭介は顔をしかめた。
今にも死にそうなほど衰弱した、手の平ほどの大きさの白い子猫が横たわっていたのだ。

「圭介、猫だよ」
「ああ、猫だな」

興味がなさそうにそう言って、圭介は車椅子を道の方に戻そうとした。




156: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:13:34.50 ID:nqce1vDF0

「待って、待ってよ」

汀が声を上げる。

「何だ?」
「死んじゃうよ」
「それがどうした?」
「私の髪の毛と同じ色だよ」
「だから、それがどうした?」

淡白に聞き返した圭介に

「もう……」

と呟いて、汀は頬を膨らませた。




157: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:14:11.27 ID:nqce1vDF0

「この子を拾っていくよ」
「何で?」
「何でも」
「基本的に、何のメリットもないことはしたくないんだけど」
「メリットならあるよ」
「何だ?」
「癒されるよ」
「…………」




158: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:15:59.98 ID:nqce1vDF0

圭介はため息をついて、車椅子から手を離し、ダンボールに手をかけた。
濡れていて崩れたそれを破り、子猫を無造作に手で掴み上げる。

「……分かったよ。癒しは大事だからな」
「うん。癒しは大事だよ」

汀は、にっこりと、無邪気な少女の笑顔で微笑んだ。




159: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:16:49.52 ID:nqce1vDF0



汀の部屋の隅に、圭介が用意したケージが設置された。
しばらくは安静が必要と判断したので、やはり圭介が動物病院に連れて行き、それから綺麗に洗ってやってから、弱いドライヤーで乾かす。
子猫は大分衰弱していたが、温めたミルクなどを口に運ぶと、貪るように食べた。
体が自由に動かない汀は、猫の世話など出来ない。
ただ、徐々に回復してきて、妙に人懐っこいその猫を自分のベッドで寝かせることが多くなった。
猫も、汀の枕の右脇を定位置と決めたらしく、次第に我が物顔で眠るようになっていった。




160: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:17:39.14 ID:nqce1vDF0



数日後、圭介はくしゃみをした汀を、心配そうに見た。
そして言いにくそうに口を開く。

「汀。あまり猫を顔に近づけるな。その毛は、お前には毒だ」
「猫じゃないよ。小白(こはく)だよ」
「小白?」

問いかけられて、汀は頷いた。

「うん。小白」
「何で?」




161: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:18:28.29 ID:nqce1vDF0

猫……小白を抱きながら、汀は言った。

「小さくて白いから」
「…………」
「それに、毛なら平気だよ。慣れたし」

圭介は頭を掻いて、小白のトイレを掃除し始めた。
元々どこかで飼われていたのだろう。
トイレの場所もすぐに覚え、行儀もいい。
かなり、頭が良い猫のようだ。
喉を撫でられ、ゴロゴロと言っている小白を見て、 圭介は息をついてから言った。

「汀、猫で遊ぶのはいいが、仕事が入った」




162: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:19:26.95 ID:nqce1vDF0

「今日はやだ」
「我侭を言うな。マインドスイーパーの資格を持っているなら、ちゃんと仕事をしろ」

圭介はそう言って、立ち上がった。

「今回の仕事は凄いぞ。元老院から直々の依頼だ。その打ち合わせに行く」
「お外に行くの?」
「ああ。お前にも同席してもらう」
「私も、会議に出るの?」
「そうだ」
「どうして?」
「クライアントのたっての希望だからだ」

そう言って、圭介は小白の首の皮をつまみあげた。




163: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:20:33.50 ID:nqce1vDF0

猫は抗議するようにニャーと鳴いたが、彼は無視して無造作にケージに放り込み、その入り口を閉めた。

「小白!」

汀が慌てて、猫の方に手を伸ばす。
小白は汀の方に行こうとして、ケージの中で、檻部分に鼻を突っ込んでもがいている。

「猫で遊ぶのはお仕舞い。帰ってからまた遊べばいい」
「やだ! 小白も一緒に行くの!」

汀は、圭介を睨んで声を上げた。

「一緒に行くの!」
「我侭を言うな。元老院のお偉方も来るんだぞ」




164: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:21:24.07 ID:nqce1vDF0

「やだ! やだやだやだやだ!」

じたばたと駄々をこね始めた彼女をため息をついて見て、圭介は困ったように額を押さえた。
そして息を切らしている汀に、もう一度同じことを言う。

「元老院のお偉方も来るんだ。猫を連れて行くわけには……」
「小白が一緒に来なきゃ、私行かないもん!」

圭介の言葉を打ち消して、汀は大声を上げた。
こうなってしまっては、彼女は頑固だ。
圭介は一瞬、彼女を怒ろうと口を開いたが、すぐにそれを閉じた。
そして考え直して言う。

「……分かった。猫も連れて行こう」




165: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:22:52.95 ID:nqce1vDF0

「本当に?」

途端に顔をパッと明るくした彼女に、圭介は頷いてから言った。

「ただ、妙なことをしたらすぐに帰るからな」
「圭介、だから私圭介のこと好き」

圭介はそう言われ、汀から顔をそらした。
そして小白のケージの前にしゃがみこみ、猫を凝視する。
青い瞳の猫は、ニャーと威嚇するように彼に向かって鳴いた。




166: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:23:35.80 ID:nqce1vDF0

一瞬、圭介が何かを思いついた、という表情をして、口の端を吊り上げてニヤリと笑う。
汀はモゾモゾと動き出し、タンスから自分の服を取り出していたので、そのどこか邪悪な表情は見ていなかった。

「ああ、そうだな」

生返事を返し、圭介はケージの入り口を開けて、手を伸ばし、小白の首筋をむんずと掴んだ。




167: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:24:25.69 ID:nqce1vDF0



「遅くなりました」

圭介が車椅子を押しながら、長テーブルが置かれた広い会議室に足を踏み入れる。
既に、彼女達以外の人はそろっているらしく、水と資料が置かれた空間には、何も言葉がなかった。
汀は小さく肩をすぼめて、体を丸めている。
顔を上げようとしない。
その胸には、しっかりと、リードをつけられた小白が抱かれている。
リードの反対側は、汀の右手首に結ばれていた。
コツ、コツ、と万年筆でテーブルを叩いていた議長席に座っている老人が、二人を一瞥して、そして汀の抱いている猫に目を留めた。
しばらくそれを凝視する。
入り口で止まった車椅子の上で、汀は伺うように、チラッとその老人を見た。
そして慌てて、怯えたように視線をそらして小白を抱く。




168: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:25:07.76 ID:nqce1vDF0

老人は万年筆でテーブルを叩くのをやめると

「はじめよう。高畑医師と、マインドスイーパーは、そこの空いている席に」
「かしこまりました」

圭介が頷いて、汀の車椅子を、老人と対角側に移動させる。
老人が、沢山いた。
全員鋭い表情で汀を注視している。
そして老人の隣に、喪服を着た女性が座っていた。
女性は立ち上がると圭介に向けて会釈をした。




169: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:26:10.53 ID:nqce1vDF0

しかし、自分を見ようとしない俯いた汀を見て、言い淀み、議長席の老人に向かって声を発する。

「あの……マインドスイーパーというのは……」
「あそこにいる白髪の子供です」
「そんな……まだ、小さな……」
「特A級スイーパーです。無用な発言は慎んでいただきたい。お座りになってください」

女性に座るように促し、老人は圭介に向けて言った。

「高畑医師。君の上げている業績を、我々は高く評価している。今この場に、同席してくれたことを、まず感謝しよう」




170: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:26:55.68 ID:nqce1vDF0

そこで小白が、眠そうに、ニャーと汀に向かって甘えた声を発した。
老人達が顔を見合わせる。
圭介はその様子を気にした風もなく、頭を下げた。

「こちらこそ」
「資料は、事前に説明したとおりだが、一応形式として用意させてもらった。読んでくれたまえ」
「かしこまりました」

頷いて、圭介は目の前に置かれた分厚い資料にパラパラと目を通した。
そして写真と経歴が載っているページに目を留めた。
まだ若い青年の写真が載っている。




171: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:27:36.79 ID:nqce1vDF0

汀がそこで頭を上げて、写真を見た。
そして圭介に向かって小さく囁く。

「私知ってる。この人、この前死刑判決が出た人だ」

汀の細い声を聞き、喪服の女性が老人達を見る。
老人達は、汀の手の中で眠っている猫を見て不快そうな顔をしていた。

「黙ってろ」

圭介はそう言って、いきなりページを閉じた。
汀が叱られた子供のように、しゅんとして肩をすぼめる。




172: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:28:08.58 ID:nqce1vDF0

「今回のクライアントは、こちらの秋山早苗女史だ」
「知っています」

資料を自分の方に引き寄せ、パラパラと目を通しながら、圭介は議長席の老人に向けて言った。

「テレビでも随分と報道されましたから」
「話が早くて助かる。高畑医師には、今回、秋山女史の依頼を受けていただくことになる。よろしいか?」
「お受けしましょう」

会議室がざわついた。
老人達が全員、信じられないと言った表情で顔を見合わせ、何事かを囁きあう。




173: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:28:51.42 ID:nqce1vDF0

議長席の老人が、コツ、コツと万年筆でテーブルを叩いて、彼らを黙らせてから言った。

「意外だな。もう少し話を聞かなくてもいいのか?」
「お受けすると言っただけです。それ以上でもそれ以下でもありません」

圭介はそこで息をついて、資料を見終わったのか、目の前に放った。

「まずは、ご指名いただきました幸運に、心から感謝を述べさせていただきましょう。光栄です」
「光栄……か。君の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかったよ」
「先ほどから、随分と私情を挟まれる。私は医者としてここにいます。仕事をお受けすると言っただけです」
「そうか……そうだな」

頷いて、老人は続けた。




174: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:29:49.24 ID:nqce1vDF0

「今回のダイビング(治療)は、マスコミにも大きく報道されている。注目されている一件だけに、失敗は許されない。その意味は、理解していただけるな」
「はい」
「…………」

汀が更に小さくなり、ぎゅっ、と小白を抱く。

「よろしい。最初から説明を始めよう」

彼はそう言って資料を開いた。

「患者は、中島正一。二十八歳。無職。知っての通り、先日死刑判決が出た。最高裁への上告は、棄却されている」

圭介は興味がなさそうに、手を組んで言った。

「我々に、その死刑囚を救えと?」




175: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:31:56.06 ID:nqce1vDF0

「ああ、そうだ」

老人が、ゆっくりと頷く。

「三日前に自殺病を発症。現在、第六段階にまで差し掛かっている。赤十字のマインドスイーパーが三人、ダイブを試みたが、いずれも失敗に終わっている」
「失敗の要因は?」
「攻撃性のあまりの強さに、撤退を余儀なくされた」
「統合失調症ではないようですが」
「……第六段階を治療できるマインドスイーパーを保有していない。それを、私の口から言わせたいのか」

苦そうにそう言った老人に、圭介は柔和な表情のまま返した。

「まぁ、いいでしょう。それで、この場にこの子を呼んだ理由を教えていただきたい」




176: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:34:56.43 ID:nqce1vDF0

老人達がざわつく。

「余計な既成概念を入れると、ダイブに影響が出てきますので、早めに引き取りたいのですが」
「分かっている。こちらの秋山女史たっての希望だったのだ」

老人に促され、秋山と呼ばれた喪服の女性は、頷いて、潤んだ目を圭介に向けた。

「……娘は、中島に拷問され、殺されました」

勝手に喋りだした彼女を、圭介は一瞬だけ眉をひそめて見た。

「中島を助けてください」

秋山は頭を下げた。




177: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:37:23.31 ID:nqce1vDF0

「どうか、どうか助けてください」

彼女が握り締めているハンカチが、ギチ、と音を立てる。

「どうしてですか?」

圭介が、穏やかにそう聞いた。
何を聞かれたのか分からない、と言う表情で秋山が彼を見る。

「放っておいても死にます。死刑を執行させたいがためだけに助けたいのですか?」
「…………」
「娘さんを殺した殺人犯に、法の鉄槌を下したいがためだけに、助けたいのですか?」
「それの何が悪いんですか!」

ドンッ! とテーブルを叩いて、秋山が金切り声を上げた。




178: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:38:49.70 ID:nqce1vDF0

汀がビクッと体を震わせ、抱いていた猫が怯えて、彼女の服にもぐりこむ。

「娘が殺されたんです! 私の、たった一人の娘が! なのにその犯人が……やっと捕まえた犯人が、自殺病で勝手に死んでしまうなんて……」
「…………」
「これ以上理不尽なことってありますか? ありませんよ、ええありませんとも! 法の鉄槌を下したくて、何が悪いんですか!」

女性の声がしばらく会議室に響き渡っていた。
圭介は黙ってそれを聞いていたが、やがてクッ、と口元を押さえて、小さく笑った。

「何がおかしいんですか!」

掴みかからんばかりの剣幕の彼女に、彼は言った。

「あなたは法の鉄槌を下したいんじゃない。ただ単に、自分の中の鬱積した鬱憤を晴らしたいだけだ」




179: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:39:23.43 ID:nqce1vDF0

そう言って、圭介は冷めた目で秋山を見た。

「人はそれを、自己満足と言うんですよ」
「自己満足で何が悪いんです? 何がおかしいんですか!」

殆ど絶叫に近かった。
体を丸めて小さくなっている汀を一瞥して、彼女は高圧的に言った。

「あなたは仕事を請けるといいました。でも、それ以上私と娘を辱めると言うなら……」
「別に辱めてはいませんよ。思ったことを口に出したまでです。気に障ったのなら謝罪しましょう。そういう性格なので」

頭を下げずにそう言い、圭介は冷めた目のまま、微笑んでみせた。




180: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:40:21.52 ID:nqce1vDF0

「それに、レベル6を治療できるのは私達だけです。私は、『だから』仕事を請けることを決めました。あなたの個人的感情など、極めてどうでもいい」

切り捨てられ、秋山は呆然とその場に立ち尽くした。
そこで議席の老人が咳払いをし、圭介を見た。

「高畑医師。口が過ぎる」
「あなた方は根本的な勘違いをしていらっしゃる」

そこで圭介は、周りを見回し、秋山に目を留めた。

「自殺病にかかった者は、決して幸福になることは出来ません。そういう病気なのです。助ける、助けないはその人の主観に過ぎません」




181: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:40:53.96 ID:nqce1vDF0

「それは俗説だ」
「事実です」

メガネを中指でクイッと上げ、彼は続けた。

「ですが、請けましょう。報酬は指定額の三倍いただきます」

老人達が眉をひそめる。
議席の老人が、一拍置いてから聞いた。

「何故だ?」
「マインドスイーパーに余計な知識が吹き込まれてしまいました。診察費も、危険手当もいただかなければ、割に合いませんので」




182: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:41:34.60 ID:nqce1vDF0

「…………」
「それに、私の論文の学会発表の件も、宜しくお願いいたします。こちらから提示する条件は、以上です」

圭介はそう言って、資料を脇に挟んで立ち上がった。

「それでは、この子は一旦退席させます。秋山さん、マインドスイーパーに余計なことを吹き込もうとするのは、規定違反です。罰則を受けていただきます」

秋山が、一瞬間をおいてから、怒りで顔を真っ赤にする。

「何を……」

それを、手を上げて制止し、圭介は汀の車椅子を掴んだ。

「一旦失礼します」




183: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:42:24.40 ID:nqce1vDF0



会議室を出たところにある、中庭の隅で、汀は眠っていた。
木陰になっていて、爽やかな風が吹いてくる。
丁度日を避けられる場所に、圭介は車椅子を設置したのだった。
小白も、汀の手の中で、丸くなって眠っている。
汀は耳に、自分のiPodTouchから伸ばしたイヤホンをつけていた。
そこからは、流行の女の子達のユニットが歌っている歌が、やかましく流れている。




184: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:43:17.65 ID:nqce1vDF0



汀は白いビーチに座っていた。
白い水着を着て、波打ち際で足をぶらぶらとさせている。
そこがハワイだ、と分かったのは、彼女が好きな女の子達のユニットが歌っている歌のPVを、事前に見ていたからだ。
撮影場所は、確かハワイのはずだ。

辺りには誰もいない。
汀は立ち上がって、静かにひいては返す波に足を踏み入れ、その冷たい感触に、体を震わせて笑った。
カンカンと照っている太陽で、肌がこげるのも構わず、波音を立てて海に、背中から倒れこむ。




185: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:43:55.89 ID:nqce1vDF0

新鮮なその感覚に、汀は水に浮かびながら満足そうに息をついた。
そこで、ニャーという声がした。
汀が目を開くと、自分の体の上に、白い子猫が乗っているのが見えた。

「小白、あなたも来たの?」

驚いてそう問いかけると、小白はまた、ニャーと鳴いて、汀の腹の上で小さくなると、恐る恐る水に手をつけた。
そしてビクッとして手を引っ込める。

「びっくり。猫って夢と現実の世界を行き来できる生き物だって言うことは知ってたけど、実際にそんな例を見るのは初めてだよ」

ニャーと小白は鳴くと、また恐る恐る汀の腹の上から、水に手をつけた。




186: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:44:31.73 ID:nqce1vDF0

「大丈夫だよ」

そう言って、汀は小白を抱き上げると、体を揺らして立ち上がった。
小白はまたニャーと鳴くと、汀の肩の上に移動した。
そしてマスコットのように、そこにへばりつく。

「でも、何しに来たの? 一人でいるのは、やっぱり不安?」

問いかけて、汀は波打ち際の砂浜を、特に何をするわけでもなく、ブラブラと歩き始めた。
ニャーと鳴いた小白に頷いて、彼女は続けた。

「そうだよね。一人でいると、不安だよね。私も、圭介がいてくれなきゃ、おかしくなってると思うんだ」

足元の砂を、ぐりぐりとつま先でほじり、汀は呟くように言った。

「圭介には、感謝してるんだ……」




187: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:45:11.06 ID:nqce1vDF0

特に、小白の反応はなかった。
また歩き出し、汀は言った。

「今度の患者さんって、死刑囚なんだって。女の人を、拷問して殺したんだって。そんな人の精神構造って、どうなってるんだろう。ね、考えただけでワクワクしない?」

ニャーと小白が鳴く。

「あなたにはまだちょっと、早かったかな」

首をかしげて汀は続けた。

「沢山の人が、私に注目してる。あの頃から考えると、信じられないことなんだ」

彼女がそう言った時だった。




188: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:45:42.35 ID:nqce1vDF0

突然、脇に生えていた椰子の木から、ボッと音を立てて炎が吹き上がった。

「きゃっ!」

驚いて汀がしりもちをつく。
そして彼女は、小白を抱いて

「まただ……」

と呟いた。

「逃げるよ!」

悲鳴のように叫んで、彼女は走り出した。
無限回廊のように立ち並ぶ椰子の木に、次々と炎がついていく。
次いで、空に浮かんでいた太陽が、ものすごい勢いで沈み、あたりが暗くなった。




189: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:46:14.41 ID:nqce1vDF0

空に、赤い光がともる。
しかしそれは太陽の光ではない。
何かが燃えている。
灼熱の、光を発する何かが炎を上げて、空の中心で燃えていた。
熱い。
暑い、のではない。
体をジリジリと焦がすほどに、周囲の気温が上がりはじめた。
次いで、爽やかな色を発していた海が、途端にヘドロのような色に変わり、ボコボコと沸騰し始める。
夏のビーチは、あっという間に地獄のような風景に変わってしまっていた。
汀は、体を焦がす熱気に耐え切れず、小白を抱いたまま、しゃがみこんで息をついた。




190: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:47:01.39 ID:nqce1vDF0

「やだ……やだよ……」

首を振る。

「圭介! 助けて、圭介!」

顔を上げた汀の目に、たいまつを持った人影が見えた。
熱気で揺らめくビーチの向こう、二十メートルほど離れた先に、たいまつを持った男……何故か、ドクロのマスクを被った男が、反対の手に薄汚れたチェーンソーを持って、それを引きずりながら、近づいてくる。

「圭介!」

居もしない保護者の名前を呼んで、汀は泣きながら、はいつくばって逃げ始めた。




191: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:47:33.29 ID:nqce1vDF0

「やだ、来ないで! こっち来ないで!」

ドルン、と音を立ててチェーンソーのエンジンが起動し、さびた刃が高速回転を始める。

「やだ怖い! 怖いよぉ! 怖いよおお!」

絶叫して、汀はうずくまって目を閉じ、両耳をふさいだ。
ドルン、ドルンとチェーンソーが回る。
ザシュリ、ザシュリ、と男が足を踏み出す音が聞こえる。
そこで、汀は

「シャーッ!」

という声を聞いた。




192: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:48:14.50 ID:nqce1vDF0

驚いて顔を上げると、そこには全身の毛を逆立て、汀と男の間に四足で立ち、牙をむき出している子猫の姿があった。

「小白、危ないよ。こっちおいで、逃げるよ。小白……!」

おろおろと、汀がかすれた声で言う。
男は、さして気にした風もなく、また足を踏み出した。

「シャアアーッ」

小白が威嚇の声を上げた。
途端、白い子猫の体が、風船のようにボコッ、と膨らんだ。
それは、唖然としている汀の目の前でたちまちに大きくなると、
体高五メートルはあろうかという、化け猫のような姿に変わった。




193: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:49:17.33 ID:nqce1vDF0

小白が、汀の体ほどもある牙をむき出して、威嚇する。

「小白、駄目!」

汀が叫ぶ。
そこでドクロマスクの男は、たいまつを脇に投げ捨て、
チェーンソーを振りかぶって小白に切りかかった。
化け猫の眉間にチェーンソーが突き刺さり、回転する。
しかし、小白はそれに動じることもなく、額から血を噴出させながら、頭を振り、巨大な足で、男を吹き飛ばした。
人間一人が宙を舞い、燃えている椰子の木の群れに頭から突っ込む。




194: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:49:53.71 ID:nqce1vDF0

小白はニャーと鳴くと、震えて動けないでいる汀のことをくわえて持ち上げ、男と逆方向に走り始めた。

『汀!』

目をぎゅっと閉じた汀の耳に、どこからか圭介の声が聞こえた。
汀はそこでハッとして、自分をくわえて走っている小白に言った。

「圭介だ! 目を覚ますよ。小白もついてきて!」

目の前に、突然ボロボロの、木の板を何枚も釘で打ちつけた奇妙なドアが現れる。




195: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:50:36.08 ID:nqce1vDF0

それがひとりでに開き、中の真っ白な空間が光で周囲を照らした。
背後でチェーンソーの音が聞こえる。
振り返った汀の目に、人間とは思えない速度で、こちらに向かって走ってくる男の姿が映った。
小白は、それに構うことなく、誰に教えられたわけでもないのに、明らかに小さなそのドアに頭を突っ込んだ。
ポン、という音がして、汀が宙に投げ出される。
ドアの中の白い空間に、汀と、小さな姿に戻った小白が飛び込む。
そこで、彼女らの意識はホワイトアウトした。




196: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:51:35.08 ID:nqce1vDF0



「汀、起きろ。大丈夫か、おい、汀!」

切羽詰ったような圭介の声が聞こえる。
汀は真っ青な顔で、ものすごい量の汗を流しながら、目を開けた。

「け……圭介……?」
「すぐにこれを飲め。早く!」

圭介が、いつになく慌てて、汀の耳のイヤホンを引き剥がし、彼女の口に錠剤をねじ込む。
ペットボトルのジュースと一緒に、苦い薬が体の中に流し込まれる。
続いて圭介は、汀の右手を掴んで、ポケットから出した小さな注射器を静脈注射した。




197: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:52:10.56 ID:nqce1vDF0

「落ち着け。ここは現実の世界だ。俺がついてる。分かるな?」
「ここ、どこ……?」

はぁはぁと荒く息をついて、汀がそう聞く。
彼女の右手を、両手で強く握ってしゃがみ込み、圭介は言った。

「元老院だ。お前、俺が渡した薬を飲まずに寝たな? 何回繰り返せば気が済むんだ!」

怒鳴られ、汀は力なく頭を振った。

「……覚えてない。分かんない……」
「…………ッ」

忌々しげに舌打ちをして、圭介は深く息をついた。

「……少し目を離すとこれだ」




198: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:52:51.82 ID:nqce1vDF0

そこで、汀の服にもぐりこんでいた小白が顔を出し、圭介の手に噛み付いた。

「痛っ!」

小さく言って、圭介が慌てて汀から手を離す。

「ニャー」

小白が威嚇するように鳴く。

「この猫……!」

噛まれたところから血が出ている。
しかし汀は、小白を弱弱しく抱いた。

「ぶたないで……小白が、助けてくれたの……」
「…………」




199: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:53:19.12 ID:nqce1vDF0

圭介は傷を揉んで止血すると、頭を抑えてため息をついた。

「しばらく寝るな。俺がいいというまで起きてるんだ。できるな?」
「…………うん」
「帰るぞ。その生意気な猫も一緒にな」
「猫じゃないよ……小白だよ……」

そう言って、汀は小白の小さな体を、ぎゅっ、と抱きしめた。




200: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:54:15.93 ID:nqce1vDF0



次の日、汀は頭をふらふらさせながら、車椅子に乗っていた。
それを押しながら、圭介が半ばノンレム睡眠状態に入っている汀を、息をついて見る。
赤十字病院の入り口には、多数の報道陣が待ち構えていたため、裏口から入って、今、施術室へと向かっているところだ。
報道陣も、顔を出すことのないマインドスイーパーの姿を捉えようと必死だ。

早く施術室に汀を誘導したかったが、当の彼女が、単純に「寝不足」のために体調が不良であることに、圭介は頭を悩ませていた。
道具と一口に言っても、やはり人間は人間だ。
それに、汀は普通の女の子ではない。
そう、普通ではないのだ。




201: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:55:07.32 ID:nqce1vDF0

施術室の前には、大河内をはじめとした、多くの医者が集まっていた。
大河内がふらふらしている汀を見て、一瞬顔を青くする。

「汀ちゃん!」

声を上げて近づいた彼を制止して、圭介は周りを見回した。

「すぐにダイブに入ります。患者の容態を見るところによりますと、もう猶予がありません」
「…………容態は深刻だ。先ほど、事態が急変した」

大河内がそう言って、圭介と汀を施術室の中へと誘導した。
医師たちが、顔を見合わせて心配そうな表情をしながら、大河内の後に続く。




202: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:55:44.15 ID:nqce1vDF0

「急変とは?」

圭介が聞くと、大河内は機械的にそれに返した。

「赤十字のマインドスイーパーが二人やられた。患者も、このままステる(死亡する)確立が高い」
「マインドスイーパーがやられた時間帯は?」
「つい先ほどだ」

圭介達の脇を、鼻や口から血を流している少年と少女が、担架で運ばれていく。
大河内は歯を噛みながらそれを見送り、忌々しそうに呟いた。

「……精神世界で殺されると、現実の肉体にも多大なる影響が及ぶ。あの子達は、もうマインドスイープ出来ないかもしれない」




203: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:56:25.33 ID:nqce1vDF0

「無駄話をしている暇はない。早く準備に取り掛かかってください」

圭介は大河内の声を打ち消し、固まっている周囲に向けて、淡々と声を上げた。

「何をしているんです? レベル6の患者の治療には、皆さんの協力が要ります。患者に鎮静剤を投与してください。麻酔の量を二倍に。早く!」

圭介が、施術室のベッドに縛り付けられてもなお、ガタンガタンとそれを揺らしながら暴れている患者……死刑囚を見て、声を荒げる。
そこで、彼の隣に腰を下ろしてマスクを被っていたマインドスイーパー……十五、六ほどの男の子の口から勢い良く血が噴出した。




204: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:57:14.11 ID:nqce1vDF0

「三番、やられました! ダイブ続行不可能です!」
「すぐに回線を切れ! 一緒に引きずり込まれるぞ!」

中で医師や看護士達が、大声で喚いている。
吐血した少年は、ダラリと椅子に脱力すると、そのまま崩れ落ちた。

「ダイブ中のマインドスイーパーを、全員帰還させてくれ。邪魔だ」

大河内に圭介が耳打ちする。
それに対し、大河内は苦々しげに言った。

「駄目だ。意識的境界線が張られていて、元に戻れないらしい」
「どうして俺達の到着を待たなかった?」
「お前達こそ、施術予定時間を三時間も遅れてどうした? それに、汀ちゃんが到底、ダイブできる状態だとは思えない」




205: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:57:56.26 ID:nqce1vDF0

「できるさ。秘策を持ってきた」
「秘策?」

圭介はそこで、車椅子の後ろ部分に取り付けてあった小さなケージをあけ、中から小白をつかみ出した。

「ニャー」

鳴いた猫を呆気に取られて見て、大河内は声を荒げた。

「猫だと? お前、そんな科学的根拠のないまやかしに任せるって言うのか?」
「まやかしじゃない。偶然かどうか分からないが、この猫にはマインドスイーパーの素質があるらしい。最低でも汀の盾くらいにはなる」
「ふざけるなよ! レベル6の患者の治療に当らなきゃいけないんだぞ! それをお前は……!」
「無駄話をしている時間はないと言っただろう」




206: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:58:47.90 ID:nqce1vDF0

大河内を押しのけ、圭介は汀を暴れている死刑囚の隣の機械の前に設置した。
そして何度か彼女の頬をぴたぴたと叩く。

「起きろ、汀。起きるんだ」
「…………起きてるよ…………」
「これから治療を始める。出来るな?」
「……」
「汀?」
「…………できるよ」
「よし。今日はいいものを持ってきた」

そう言って圭介は、汀の手首に、小白の首に繋がっているリードを結んだ。




207: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 21:59:32.53 ID:nqce1vDF0

そして小白を彼女に抱かせる。
猫はすぐに汀の膝の上に丸くなると、顔を上げて、ニャーと甘えた声を出した。
それを見て、とろとろとした表情だった汀が、笑顔になる。

「小白も、一緒に行く?」

問いかけられ、猫はニャーと鳴いた。

「これは私達に対する冒涜だぞ、高畑」

大河内が肩を怒らせてそう言う。
圭介はそれを無視し、汀の耳にヘッドセットをつけると、マスク型ヘルメットを被せた。




208: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 22:00:08.51 ID:nqce1vDF0

「時間は十五分でいいな?」
「…………うん…………」
「端的にこの患者について説明しておく。まずは……」
「………………」

すぅ、すぅ、と言う寝息が聞こえる。
圭介は慌てて顔を上げ、声を張り上げた。

「五番、今すぐに接続してください! ダイブに入りました!」




209: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 22:00:50.71 ID:nqce1vDF0



汀は、いつもの病院服で暗い地下牢のような場所に立っていた。

「…………」

しばらく状況を理解できなかったのか、彼女はきょとんとして停止していた。
足元で、小白がニャーと鳴いた。
猫を抱き上げて肩に乗せ、汀は呟いた。

「どこ、ここ……?」

そこで、ボッと言う音とともに、壁の蝋燭に自然に火がともった。
薄暗かった部屋の中があらわになる。
そこは、錆と腐った血液、それと据えた何か生物的な悪臭が漂う、牢屋の中だった。




210: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 22:01:42.52 ID:nqce1vDF0

壁には磔台や、ソロバン型の器具、鞭、三角形の木馬など、大小さまざまな拷問道具が、綺麗に陳列されている。
部屋の隅には石造りの水槽があり、磔台が取り付けられた水車が、ガタン、ガタンと揺らめきながら回っていた。
しかし、それよりも異様だったのは、部屋の中、いたるところに白い糸がはびこっていたことだった。
触ると、粘って指に細い糸を引く。
まるで、蜘蛛の糸のようだ。
良く見ると、薄汚れた壁は、その糸が絡み合ってレンガのような形を作り上げているものだった。
鉄格子も、糸が寄り集まって出来ている。
十畳ほどの部屋の中を見回し、汀は、そこで思い出したかのように耳元のヘッドセットのスイッチを入れた。




211: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 22:02:18.68 ID:nqce1vDF0


「……圭介?」
『汀、時間がない。短く説明するから、すぐにその患者の中枢を見つけてくれ』
「私、ダイブしてるの?」
『そうだ。その患者はレベル6。死の一歩手前にいる。極めて危険な状況だ。精神構造も変化して、極Sランクの危険区域、変質形態Sの六乗と指定されてる。なるべく早くそこを出ろ』
「……分かった」

頷いて、汀は深呼吸して、足を踏み出そうとした。
そこで彼女は、ガチャリと音がしたのを聞いて、足元に目をやった。
汀の右足に、鉄枷がはまっていた。
鎖は壁に繋がっている。




212: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 22:03:09.63 ID:nqce1vDF0

汀は、何度かそれを引っ張って、動かないことを確認すると、ため息をついた。

「そう簡単にはいかないかも」
『どういうことだ?』

「捕まっちゃった。この人、対マインドスイーパー用のトラップを心の中に沢山設置してるみたいだね」
『極稀に、心への進入を許さない特異体質がいる。それがその患者だ。何とかしろ』
「最悪」

顔をしかめた汀の耳に、そこでズリ……ズリ……という何かを引きずる音が聞こえた。
小白が、毛を逆立ててシャーッ、と言う。




213: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 22:03:55.58 ID:nqce1vDF0

少しして、鉄格子の向こうに人影が見えた。
体中に包帯を巻いている。
全裸の男だ。
包帯の所々から血がにじんでいる。
男の手は、六本あった。
足も混ぜると、四肢ではなく、八肢だ。
わき腹から伸びた手で壁の糸を掴んで、
男はぐるりと向きを変え、汀の方を向いた。
その目、包帯から除く眼球がぎょろりと動き、口が裂けそうなほど広がる。
男は、四肢にそれぞれ、束にした三、四本ほどの包丁を持っていた。
黒いビニールテープで、包丁が無造作に束ねられている。

「トラウマを見つけたよ。見つけられたって言ったほうが早いかな?」




214: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 22:04:32.81 ID:nqce1vDF0

『すぐに離れろ』
「無理っぽい」

クスクスと笑って、拘束された汀は面白そうに言った。

「拷問って、一回受けてみたかったんだぁ」
『…………』

マイクの向こうの圭介が唾を飲んで、そしてため息をついた。

『……お前、俺を怒らせたいのか?』
「怒らないでよ……そんなつもりで言ったんじゃないよ」
『ならすぐに離れて、中枢を見つけてくれ』
「…………分かった」

シュン、として汀は男から目を離した。




215: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 22:05:13.40 ID:nqce1vDF0

男は鉄格子に手をかけた。
鉄格子がぐんにゃりと歪み、人一人通れそうな空間が開く。
そこから進入してきて、八肢の包帯男は、キキキ、と奇妙な声を上げた。

「折角だけど、私、おじさんの方が好みだな。若いと駄目」

そう言って、汀は強く、左腕を壁に叩きつけた。
ベコッ、とレンガのような壁が歪み、汀の足を拘束している部分が砕け散る。
足で鎖を引きずって、汀は笑っている男の方に足を踏み出した。

「それに、わざわざ好き好んで、嫌味そうなトラウマと戦うつもりもないし……ね!」

足を振って、鎖で男の顔面を殴りつける。
張り飛ばされ、男は簡単に床を転がり、壁にたたきつけられた。




216: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 22:06:09.30 ID:nqce1vDF0

汀は鎖を手で引きちぎり、それを脇に放り投げてから、鉄格子の空いた場所から外に出た。
そして、いくつも並んでいる牢屋の部屋の前を駆け出す。
少し行ったところに階段があり、その先のドアが開いていた。
そこに飛び込み、ゴロゴロと転がる。
起き上がった汀の目に、真っ暗な空が映った。
そこは、洋風の城の一角だった。
テラスになっていて、下が見えるようになっている。
近づいて下を覗き込むと、城は、ボコボコと泡立つ、ヘドロの海の中に建っていた。
どこまでも、果てしなくヘドロが続いている。
時々、トビウオのように、何か巨大なものが水面を跳ねるのが見えた。




217: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 22:06:53.17 ID:nqce1vDF0

いびつな城だった。
三角錐の屋根が所狭しと立ち並んでいる。
そこで、背後からキキキという笑い声が聞こえた。
振り返ると、包帯の八肢男が出てくるところだった。
否、一人ではない。
二人。三人。
四人。
合計四人の、同じ格好をした同じ背丈の男達が、綺麗に整列する。

そのうちの一人が、木造りの十字架に、両手両足を巨大な釘で磔にされた女の子を抱えていた。
女の子の手足は奇妙な方向に折れ曲がり、意識はないようだ。
汀と同じように、病院服を着ている。




218: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 22:07:49.17 ID:nqce1vDF0

「マインドスイーパーだと思うけど、見つけたよ。トラウマに捕まってる」

汀がそう言うと、マイクの向こうで圭介は少し考え込み、言った。

『救出できるか?』
「難しいんじゃないかなぁ」
『無理なら諦めて中枢を探せ』
「分かった」

淡々とやり取りをしている間に、蜘蛛男達が汀を取り囲む。
汀はそこで、十字架を担いでいる男に向き直り、ニヤァと笑った。

「何で近づいてこないの? ほら、私はここだよ」

パンパンと挑発的に手を叩いて、汀は言った。




219: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 22:08:35.41 ID:nqce1vDF0

「鬼さんこちら、手の鳴る方へ!」

男達が一瞬制止して、一斉に束ねた包丁を取り出した。
その目が円形に見開かれ、けたたましい絶叫を上げる。
凄まじい勢いで汀を囲む円が狭まり、彼女は振り上げられた包丁を、無機質な目で見つめた。
そこで小白が、シャーッ! と鳴き、汀の肩の上で、風船のようにボコリと膨らんだ。

「小白……」

驚いて呟いた汀を覆うように、小白はムササビを連想させる形に変形すると、彼女の代わりに全ての包丁を受けた。
しかしそれは突き刺さることなく、 キンキンキンキンと鉄にでもたたきつけたかのような金属質な音が響き渡る。




220: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 22:09:19.20 ID:nqce1vDF0

「凄いね小白! 私にはそんなことできないな!」

目の前の猫の頭をなで、汀は十字架を抱えている男を殴り飛ばした。
人一人が簡単に数メートルも吹き飛ばされ、壁にたたきつけられる。
転がった十字架を、女の子ごと拾い上げ、汀は外に向かって走り出した。
男達が絶叫を上げて追いすがる。
汀は、パラシュートのように広がった小白の両足を片手で掴んで、無造作に宙に体を躍らせた。
そこで、彼女達の意識は、ホワイトアウトした。




221: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/07(日) 22:10:53.53 ID:nqce1vDF0



第4話に続く



お疲れ様でした。
次話は明日、5/8に投稿予定です。
本日は私の体調がすぐれないので、ここで失礼します。
m(_ _)m




222: 以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします 2017/05/07(日) 22:22:44.51 ID:Vk+C9SPNO

小白すげえな





223: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 20:33:57.47 ID:+tmKKeWJ0

>>222
以降頼もしいパートナーになっていきます。
猫は一日の大半を夢の世界で過ごしますからね。

皆様こんばんは。
第4話の投稿をさせていただきます。




224: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 20:36:47.49 ID:+tmKKeWJ0



第4話 蝶々の鳴く丘で



圭介は、白衣のポケットに手を突っ込んだまま、病室をゆっくりと見回っていた。
その隣で資料をめくりながら、大河内が重い口を開く。

「こっちの区画は、もう駄目だ。お前の探してる適合者は、見つからないよ」
「駄目って、どの基準で駄目って言ってるんだ?」

問いかけて、圭介は感情の読めない瞳で、近くの病室を覗き込んだ。
ぼんやりと視線を宙に彷徨わせた女の子が、ベッドに横たわっていた。
鼻や喉にチューブが差し込まれ、いくつもの点滴台が設置されている。

「この子は?」

聞かれた大河内は、言葉を飲み込んでから答えた。

「……網原汀(あみはらなぎさ)、この病棟の中でも、特に重症な子だよ」




225: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 20:37:40.52 ID:+tmKKeWJ0

圭介は無造作に病室に足を踏み入れ、女の子に近づいた。
そして顔を覗き込む。
女の子に反応はなかった。
目を開いてはいるが、意識はないらしい。
人形のように顔が整った子だった。
その子の艶がかかった黒髪を撫で、圭介は言った。

「一番安定してるように見える」
「……バカを言うな。左半身と、下半身麻痺にくわえて、自殺病の第八段階を発症してる。もう長くはないよ」
「この子にしよう」

圭介は軽い口調でそう言うと、ポケットから、金色の液体が入った細い注射器を取り出した。




226: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 20:38:52.15 ID:+tmKKeWJ0

大河内が目をむいて口を開く。

「おい、高畑……本気か? 一番重症だって、さっき言っただろう。聞いていなかったのか?」
「狂っていればいるほど好ましい。第八段階? 最高じゃないか。それで、この子はそのまま何日生きてるんだ? いや……『生かされて』るんだ?」
「…………」
「答えろよ、大河内」
「…………三十七日だ」
「取引をしよう」

圭介はそう言って、女の子の点滴チューブの注入口に、注射針を差し込んだ。
そして大河内が止める間もなく薬品を流し込む。




227: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 20:39:20.30 ID:+tmKKeWJ0

「この子をもらっていく。その代わり、お前はこの子の過去を全て消せ」
「GMDが効くかどうかも分からないんだぞ! それに、もう長くはないと……」
「効くさ。そのために開発されたクスリだ」

淡々とそう言って、圭介はポケットに手を突っ込んだ。
そして背を向けて、病室の出口に向けて歩き出す。

「意識が回復したら、連絡をくれ」




228: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 20:41:31.40 ID:+tmKKeWJ0



汀と小白が目を覚ました時、彼女達は、ゆっくりと落下しているところだった。
小白がまるでパラシュートのようになって落下速度を低減しているのだ。

「猫って凄いねぇ。夢の世界では、私より無敵なんだ」

感心したようにそう呟いて、汀は下を見た。
何かが、草のように、果てしなく続く荒野の中突き立っていた。
真っ赤な夕暮れ景色に、光を反射して煌いている。
それは、日本刀だった。
柄の部分が土に埋まり、ぎらつく刃を上に向けている。

「……攻撃性が強すぎるよ」

呆れたように言って、汀はまだ磔にされている状態の女の子に構うことなく、十字架を下に向けた。




229: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 20:42:39.92 ID:+tmKKeWJ0

ゆっくりと落下していって、十字架の木が、日本刀の群れに切り裂かれながら、地面と垂直に着地する。
汀は十字架の上に、器用にしゃがみこんでいた。
ポン、と音がして小白が元の小さな猫に戻る。
猫が右肩にへばりついたのを確認して、汀は、もう少しで日本刀の群れに串刺しにされそうになっている、磔られた女の子に声をかけた。

「起きて。ね、起きて。もしかして死んでる?」

手を伸ばしてパシパシと女の子の顔を叩く。

「起きて」
「…………ッ!」

そこで意識が覚醒したのか、女の子は激しくえづいた。
グラグラと十字架が揺れる。




230: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 20:43:13.95 ID:+tmKKeWJ0

その上で器用にバランスを取りながら、汀は面白そうに続けた。

「拷問されたの? ね? どんな感じだった?」
『汀、赤十字のマインドスイーパーを救出したのか?』

マイクの向こうの圭介に問いかけられ、汀はヘッドセットの位置を直しながら、首をかしげた。

「うーん……助けたというか……助かってないというか……」
『どっちだ。はっきりしろ』
「動けないの。刀がいっぱいある」
『その子だけ帰還させることはできるか?』
「異常変質区域の中にいるから、無理だよ」
『なら見捨てて、お前と小白で中枢を探せ』
「…………」




231: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 20:43:54.40 ID:+tmKKeWJ0

汀はそれに答えず、周囲を見回した。

『汀?』

問いかけられ、汀は刀で体を切らないよう、注意して地面に降り立った。
そして手近な一本を手に取り、周囲の刀をなぎ払う。

「連れて帰るよ」

そう言った彼女に、一瞬沈黙してから圭介は言った。

『手負いなんだろう。無理だ。時間も残り少ない』
「だからって、置いていけないよ」
『いいか汀。お前の仕事は何だ?』

汀は少し考え、また近くの刀を、自分が持った日本刀でなぎ払った。

「人を、助けることだよ」

はっきりとそう言う。




232: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 20:44:55.47 ID:+tmKKeWJ0

圭介はまた少し沈黙してから、言った。

『……分かった。なら好きにしろ』
「好きにするよ?」
『ああ。でも、危ないと思ったらすぐに見捨てて中枢を探せ』
「もう危ない状況なんだけど……まあいいや」

ボコボコと地面が波打ち、汀を取り囲むように競りあがった。
一……二……三。
合計十三体の包帯を巻いた蜘蛛男の姿を形取り、それが先ほどまで彼女達を取り囲んでいたものと同じように、刀の群れの中を、体が切り刻まれるのもいとわずに動き出した。
切り傷がつくたびに、悲痛な声を上げる男達。
だが、その顔は笑顔だ。
とても嬉しそうに、悲鳴を上げている。




233: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 20:47:05.05 ID:+tmKKeWJ0

手に持っていた包丁を、それぞれ脇に放り投げ、手近な刀を、六本の腕に持つ。
刀と、刀を持った男達に取り囲まれ、汀は日本刀を構えて周囲を見回した。
そして、まだ磔られている女の子に、厳しい声で言う。

「起きなさい。あなたもマインドスイーパーなら、少しは私の役に立って」
「あなたは……」

か細い声でそう言うと、女の子は体中の痛みに、小さく声を上げた。
まだ、両足と両手の平が釘で木に打ち付けられており、血が流れ出ている。

「なぎさちゃん……?」

呼びかけられ、汀は怪訝そうに振り返った。

「なぎさ?」
「なぎさちゃんだよね……? あたし、岬(みさき)だよ。覚えてる? あたしだよ……!」




234: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 20:49:13.76 ID:+tmKKeWJ0

汀よりも少し年上の、どこか赤みがかったショートの髪の毛の女の子――岬は、青ざめた顔のまま、汀にそう言った。
汀は彼女から視線をそらして、近づいてくる蜘蛛男達を睨んだ。

「今トラウマに囲まれてるの。お話はあとでしよう。あと、悪いけどあなたのことは覚えてない。てゆうか知らない」
『チッ』

耳元のヘッドセットから、圭介が小さく舌打ちをしたのが聞こえた。

「どうしたの圭介?」

問いかけると、彼は一拍置いてから、何でもないことのように言った。

『いや、こっちの話だ。それより、トラウマに囲まれてると言ったな。そこはどこだと思う?』
「異常変質心理壁であることは間違いないと思うけど……中枢どころか、心の外壁にさえたどり着いてないことは確かだよ。十五分じゃ間にあわないと思う」




235: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 20:49:47.18 ID:+tmKKeWJ0

『間に合わせろ』
「……最悪」

毒づいた彼女の目に、後方の平原が、空ごと……つまりその空間そのものが、ブロック状になって、下方に向かって崩れ落ち始めたのが見えた。

「……訂正。間に合わせなきゃ。精神構造の崩壊が始まったよ。この人、もうじき死ぬね」
『知ってる。承知の上での治療だ』

そこで、汀の右後方の男が奇声を上げて宙に飛び上がった。
実に二、三メートルもふわりと浮き上がり、六本の刀で汀に切りかかる。
汀は、おぼつかない手つきでそれを一閃して弾いたが、小さな体が押されて後ろに下がる。
そこで、突き立っていた刀で背中をしたたかにこすってしまい、彼女は

「痛っ!」

と叫んで、一瞬硬直した。
背中からたちまち血が溢れて、流れ落ちる。




236: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 20:50:32.20 ID:+tmKKeWJ0

『どうした?』

圭介に対して

「何でもない。大丈夫!」

そう答えて、汀はまた切りかかってきた男の刃を避け、地面を転がった後、少女とは思えない動きで一気に間合いを詰めた。
そして男の首に、日本刀を突き立てる。
頚動脈を一瞬で切断したらしく、日本刀を抜いたところから、凄まじい勢いで血液が噴出し、汀に降りかかった。
返り血でドロドロの真っ赤になりながら、汀はトドメとばかりに男の胸に、もう一度刃を突き立てた。
それを抜くと、蜘蛛男の一人はビクンビクンと痙攣しながら、その場に仰向けに倒れた。
突き立っていた刀の刃が、後頭部から口に貫通して串刺しにする。
十二人になった男達は、血まみれの汀を見て、楽しそうに笑い声を上げた。
切られた蜘蛛男の体が、粘土のように溶け、地面に流れる。




237: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 20:51:43.08 ID:+tmKKeWJ0

それが、今度は二人の蜘蛛男の形をつくった。
一人から、二人に増えて十四人。

「キリがない……」

毒づいた汀の肩で、小白が威嚇の声を上げている。
そこで、地面に崩れ落ちた岬の声が聞こえた。

「なぎさちゃん、助けてくれてありがとう……早く、ここを抜けなきゃ……」
「私はなぎさなんて名前じゃないよ。それに、そんなこと言われなくても分かってる」

冷たくそう返し、汀は、無理やり足から釘を引き抜いている岬を見た。

「歩ける?」
「何とか……」
「トラウマと戦ってもキリがないから、逃げたいんだけど時間がないの。この世界はもうすぐ崩壊するし」




238: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 20:52:27.49 ID:+tmKKeWJ0

汀達の、数十メートル先の空間が、ブロック状になって崩れ落ちる。

「とりあえず、無理にこじ開けるしかなさそうだね……!」

汀はそう言って、足元の地面に刀を突き立てた。
男達が、その瞬間同時に絶叫した。
血走った目を丸く見開き、彼らがゆらゆらと揺れた後、同時に汀に切りかかる。
汀は、抵抗のある感触を感じながら、ズブズブと刃を根元まで押し込んだ。
そして力任せに、地面から飛び出た柄を踏み込む。
男達がまた絶叫し、汀が刀を突き立てた部分からおびただしい量の血液があふれ出す。
それを見た岬が、青い顔を更に真っ青にした。

「な……何してるの? 心理壁を直接傷つけたら、この人の体にどんな障害が残るか……」
「どうせ死ぬんだから関係ないよ」

そう言って、汀は血の出ている部分に足をたたきつけた。




239: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 20:53:13.05 ID:+tmKKeWJ0

ボコッと地面が歪み、ブロック状に抜け落ちる。
その先は、真っ黒な空間になっていた。
岬は、荒く息をついて涙を流しながら、折られた腕の骨を、力任せに元にはめているところだった。
彼女のもう片方の手を掴み、汀は言った。

「行くよ。逆にこっちが死ぬかもしれないけど、まぁそれって、運命だよね」
「割り切ってるね……」
「言われるまでもないよ」

軽く微笑んで、汀は岬を先に穴の中に投げ入れ、小白を抱いた。
彼女達は、ブロック状に空いた穴の中に飛び込んだ。
その瞬間、男達を飲み込むように、空間が崩れ落ちる。
彼女達の意識は、またホワイトアウトした。




240: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 20:54:10.59 ID:+tmKKeWJ0



気がついたとき、彼女達は打って変わって爽やかな、小鳥がさえずる丘の上に立っていた。
岬が体の痛みに耐え切れず、足元の草むらに崩れ落ちる。
彼女を一瞥してから、汀は木が立ち並んでいる丘を見回した。
蝶々が沢山飛んでいる。
それぞれ色や大きさは違ったが、共通していたことは、紙で出来ていたということだった。
近くの蝶々を一匹捕まえて、汀はそれを握りつぶした。
途端、周囲に青年の悲痛そうな声が響き渡った。

<僕はやってない! 僕は違うんだ。頭の中の人が命令したんだ!>

くしゃくしゃになった蝶々を広げてみる。
そこには、血液のようなもので雑に、先ほど流れた音声と同じものが書かれていた。
汀はそれを脇に放ると、もう一匹蝶々を捕まえようと、その場をはねた。




241: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 20:54:42.98 ID:+tmKKeWJ0

『汀、どうだ?』

圭介に問いかけられて、汀は言った。

「ダイブ、心理壁の中に進入成功したよ。」
『トラウマに囲まれてたんじゃなかったのか?』
「この人の心理壁を壊しちゃった。どうせ自己崩壊してる途中だったから」

それを聞いて、圭介は一拍置いてから深くため息をついた。

『お前……』
「廃人になるね。この人」

何でもないことのように言って、汀は面白そうに、紙の蝶々に囲まれながらくるくるとその場を回った。

「でも、いいじゃない。どうせ死刑で死んじゃう人だよ?」




242: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 20:55:10.37 ID:+tmKKeWJ0

『…………』
「圭介?」
『治療を続けろ。いいか、お前は人を救うんだ。そのためにダイブしてるんだ。分かるな?』
「圭介、私思うんだけどさ」

そこで汀は、ヘッドセットに向かって、困ったような顔をした。

「死刑で殺される人を治して、それで、救ったって言えるのかな?」
『ああ。お前は余計なことを考えず、救えばいいんだ』
「圭介、それは違うよ」

汀は淡々とそう言った。

「助けない方がいいよ、この人」

また近くの蝶々を一つ掴んで、握りつぶす。




243: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 20:55:50.57 ID:+tmKKeWJ0

<うるさい! うるさい! 僕は殺すんだ! あの女を……僕を笑った女を! 殺してやる! 殺してやる! 殺してやる!>

『どうして?』

圭介に聞かれ、汀は答えた。

「だって、屑は死んでも治らないもの」
『…………』

圭介はしばらく考え込んでいた。
が、断固とした口調で彼は言った。

『治せ』

汀は、また一つ蝶々を握りつぶした。

<誰も僕を分かってくれない、誰も僕を分かろうとしない。誰も彼もが僕を見下すんだ。僕は……僕は……>




244: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 20:56:24.09 ID:+tmKKeWJ0

そこで、突然木々の間に蜘蛛の巣が出現した。
蝶々達が、次々と網にかかっていく。

<僕は……僕は……僕は……>
<殺してやる! 殺してやるんだみんな!>
<血……ひき肉……>
<興奮する。絶叫を聞くと>
<僕を拒絶する声を聞くと、僕は生きている実感を得ることが出来るんだ>
<だから鳴いてよ。もっと、もっと鳴いて>
<誰か僕を分かってよ! 僕はここにいるよ!>
<どうして誰も分かってくれないんだ! 父さんも、母さんも……>
<僕は……! 僕は!>

<僕は、誰だ?>

最後の呟きは、ぐわんぐわんと丘に反響して消えた。




245: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 20:56:59.04 ID:+tmKKeWJ0

蝶々達は、動きを止めていた。
おびただしい数の蜘蛛が、カサカサと動いて蝶々達を食べ始める。
蜘蛛も、紙で出来ていた。

「この人は自壊を選択してる。生きてても、自分のことが何だか分からなくなってるよ」
『でも、治すんだ』
「どうして?」
『……俺達が、医者だからだ』
「医者?」
『医者は人を治す。それが、人を救うということだ。お前は目の前のことしか見ていない』
「…………」
『汀』

圭介は、彼女の名前を呼んで、優しく言った。

『人を、救いたいんだろう?』
「…………」




246: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 20:57:37.41 ID:+tmKKeWJ0

『沢山の人を、お前の手で救ってやりたいんだろう?』
「…………」
『目の前だ。そのチャンスを、お前の手で掴め。それは、お前の「踏み台」だ。それ以上でも、それ以下でもない』
「私……私は……」
「なぎさちゃん!」

そこで、うずくまっていた岬が大声を上げた。
ハッとした汀の足元に、紙の蜘蛛の大群が迫ってきていた。
岬が這って逃げようとしている。
小白は、汀の肩の上で、シャーッ! と毛を立ててうなった。

「貴方達が欲しいのは、これ?」

汀がニコリと笑って、蜘蛛達の前に、閉じていた右手を開いた。

そこには、いつの間に捕まえたのか、虹色の羽をした蝶々が一匹、握りこまれていた。

「あげてもいいよ」




247: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 20:58:14.53 ID:+tmKKeWJ0

『汀!』

圭介が大声を上げる。
汀は、動きを止めた蜘蛛達に言った。

「でも、自分が自分であるのか分からないままでいるのは悲しすぎるから」

彼女はそう言って、虹色の蝶々を、折り紙を元に戻すように、ゆっくりと開き始めた。
空間がざわついた。
蜘蛛達の口から、男の拒否を示す凄まじい絶叫が辺りに轟きわたる。

「私が、あなたにあなたの顔を見せてあげるよ」

折り紙を開く。
それは、顔写真だった。
赤ん坊の、写真だった。

「中島正一。それがあなたの名前。あなたは何にもなれないし、何かになれるわけでもない」




248: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 20:58:52.66 ID:+tmKKeWJ0

汀は、クスリと笑った。

「これから、殺されにいくの。それから逃れることは、多分できないの」

いつの間にか、おびただしい数の紙の蜘蛛は、足を上に向けて、硬直して死んでいた。
代わりに、丘の向こうがざわついた。
次いで、地面が揺れた。
ミキミキと木を押しつぶしながら、何かが地面の下から出てくる。
それは、体長十メートルはあろうかという、巨大な蜘蛛だった。
八つの赤い目を光らせながら、巨蜘蛛は地面を踏みしめ、汀の前まで移動すると、顔を屈めて蟲の口を開いた。

「シャーッ!」

小白が地面に降り立ち、風船のように膨らむ。
巨蜘蛛の半分ほどの大きさに変わった小白は、牙をむき出して蜘蛛を威嚇した。
その化け猫を制止して、汀は一歩前に進み出た。
そして赤ん坊の写真を、蜘蛛に突きつける。




249: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 20:59:51.42 ID:+tmKKeWJ0

「良く見て。これが、あなたよ。あなたは蜘蛛じゃない。あなたは人間。何の変哲もない、平凡で、ごくごく普通の何の力もない、無力な人間の一人よ」

巨蜘蛛が悲鳴を上げた。
嫌々をするように首を振った蜘蛛に、汀は淡々と続けた。

「あなたが思い描く現実なんて、どこにもない。誰も、あなたのことを理解なんて出来ない。あなたが、あなたを理解できないように。私も、あなたを理解することができない」
「危ない!」

そこで岬が悲鳴を上げた。
汀が気づいた時は遅かった。
蜘蛛が足を振り上げ、汀に向かって振り下ろしたのだ。
小白も、とっさのことで反応が出来ないほど、すばやい動きだった。
蜘蛛の足は、簡単に汀の背中を胸まで貫通すると、向こう側に抜けた。
そして地面に、まるで蟲のように、少女のことを縫いとめる。




250: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 21:00:56.11 ID:+tmKKeWJ0

「ゲボッ」

口から血の塊を吐き出して、汀は胸から突き出ている蜘蛛の足を見た。

「……ガ……あ……」
『汀、汀……どうした!』

彼女の声に、圭介が狼狽した声を上げる。
汀はそれに答えることが出来ず、鼻や口から血を垂れ流しながら、震える手で、赤ん坊の写真を前に突き出した。
そして、歯をガチガチと鳴らしながら、かすれた声で言う。

「良く……見て。これがあなたよ……誰も言わないなら……私が言ってあげる……」
「なぎさちゃん!」

岬が声を上げて、這いずって汀に近づこうとする。
汀は彼女に微笑んで、また血を吐き出してから、硬直している蜘蛛に、一言、言った。




251: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 21:01:40.40 ID:+tmKKeWJ0

「ただの人間のくせに……世界中で何百何億といる、ただの人間のくせに……」
『汀!』
「何を、粋がってるの?」

蜘蛛が絶叫した。
その長い絶叫は周囲に轟き渡り、丘をグラグラと揺らした。
たまらず目を閉じた汀の体を固定していた足が、フッと消える。
胸に大穴を空けて地面に崩れ落ちた汀の目に、空中に浮かんでいる、膝を丸めた赤ん坊の姿が映った。
汀は血を吐き出し、脇の小白に支えられながら赤ん坊の前に這って行った。
そして、写真を赤ん坊の頭につける。
白い光が辺りに走り、赤ん坊の姿が消えた。
同時に丘の蜘蛛の巣が消え、真っ白な蝶々達が周囲を飛び回り始める。




252: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 21:02:08.69 ID:+tmKKeWJ0

汀は小白に寄りかかって、ゼェゼェと息をついて、また血を吐き出した。

『良くやった、汀。戻って来い、早く!』

圭介がマイクの向こうで怒鳴る。
汀は、しかしそれに答えることが出来ずに、地面に崩れ落ちた。
そこに岬が到着し、彼女の体の上に倒れこむ。
そしてヘッドセットに向かって、叫ぶように言った。

「四番、五番、治療完了しました。目を覚まします!」




253: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 21:03:39.20 ID:+tmKKeWJ0



激しく咳をしながら、汀は目を開いた。
息が詰まり、呼吸が出来ない。
過呼吸状態に陥っている汀の口に、備え付けてある紙袋の口をつけ、圭介はその背中をさすった。

「大丈夫か? 落ち着いて、息を吸うんだ。しっかりしろ。ここは現実の世界だ」
「ゲホッ! ゲホッ!」

強く咳をした汀の口から、パタタタッ! と血が袋の中に飛び散った。

それを見て、圭介は歯噛みして汀の頭からマスク型ヘルメットをむしりとった。
そして車椅子から彼女を抱き上げ、出口に向かって走り出す。

「続いて、この子の処置に入ります! 私が病室まで運びます。早く準備を!」




254: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 21:06:16.65 ID:+tmKKeWJ0



「負担をかけすぎだ……」

数日後、自室のベッドの上で呼吸器を取り付けられ、意識混濁状態になって眠っている汀を見て、大河内が苦そうに口を開く。
あの直後、汀は意識を失い、まだ目を覚まさない。
大河内は圭介に向き直って、彼をにらみつけた。

「いい加減にしろよ、高畑。この子は人間なんだぞ。お前の『治療』は、この子に負担をかけすぎている」
「だが、結果的に中島は一命を取り留めた」

資料をめくり、壁に寄りかかりながら口を開く。
大河内は一瞬黙ったが、また苦そうに言った。

「秋山さんは訴訟を起こすつもりらしい」
「へぇ」




255: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 21:06:55.40 ID:+tmKKeWJ0

「中島は命は取り留めたが、自分が何をしたのか、何者なのか、全ての記憶を失っていた。そんな人間を断罪したところで、意味はないとさ」
「いいことじゃないか。元々この国は死刑廃止論者が多いんだ。この機会に、死刑について考える人が多くなれば法治国家としてのレベルアップが図れる」
「ふざけている場合じゃない」
「ふざけてなんていないさ。俺はいたって真面目だよ」

圭介はそう言って、資料を閉じた。

「レベル6の患者の治療に成功した例は、日本では初だ。これで、俺達は更に高みを目指せる。元老院も満足だろう」
「お前はそうやって、結果結果と……」
「だが、それが全てだ」

淡々と圭介はそう言った。




256: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 21:07:23.88 ID:+tmKKeWJ0

「結果を残せなければ、生きている意味も、存在している意味もない。過程なんてどうだっていいんだ」
「そのためにこの子を犠牲にしてもか。そうでもしなきゃ、お前の復讐は成し得ないとでも言いたいのか?」
「ああ」

簡単にその言葉を肯定し、圭介は鉄のような目で汀を見下ろした。

「精々働いてもらうさ。死ぬまで、俺の道具としてな。それが、この子の贖罪でもあり、義務でもあるんだ」
「…………」

大河内は無言で圭介の胸倉を掴み上げた。
そして、腕を振り上げ、彼の頬を殴りつける。
床に崩れ落ちた圭介を、荒く息をついて、大河内は見た。

「それがお前の本心か」




257: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 21:07:57.65 ID:+tmKKeWJ0

「……酷いじゃないか。大人のすることじゃないな」

頬を押さえながら、メガネの位置を直して圭介が立ち上がる。
彼は薄ら笑いを浮かべながら続けた。

「気が済んだか?」
「もう五、六発殴らせてもらわなきゃ、収まらないな。汀ちゃんのためにも」
「お前、勘違いしてるぞ」

圭介は小さく息をついた。

「治療は、汀が自分で望んでおこなっていることだ。俺が強制しているわけじゃない」
「騙していることは確かだろう。この子に真実を告げるんだ!」
「嫌だね。真実を告げたら、こいつは道具としての価値をなくす」

拳を握り締めている大河内の言葉を打ち消して、圭介は続けた。




258: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 21:08:30.42 ID:+tmKKeWJ0

「そういえば……岬とか言ったか? あの赤十字のマインドスイーパー」
「……その子がどうした?」
「目障りだな。関西総合病院にでも飛ばしてくれ」
「どこまでも最低な男だな……!」
「お前に言われたくはないね」

壁に寄りかかり、圭介は資料を脇に放った。

「さて、外道はどっちかな」

二人の男が睨み合う。
それを、ケージの中で小さくなって小白が見つめていた。




259: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 21:09:11.47 ID:+tmKKeWJ0



汀が目を覚ましたのは、それから一週間経った夜中のことだった。
しばらくぼんやりしていたが、苦しそうに呼吸器を外し、何度か咳をする。
そして汀は、ナースコールのボタンを押した。
しばらくして、寝巻き姿の圭介が、駆け足で部屋に入ってきて、電気をつける。

「汀、目が覚めたか」
「圭介……」

汀はぼんやりと答えて、首をかしげた。

「私、どうしたの?」
「急に具合が悪くなったんだ。それだけだ。気にするな」
「何だか、すごく疲れた……」
「無理するな。今、クスリを持ってきてやる」
「圭介」




260: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 21:09:43.70 ID:+tmKKeWJ0

汀は彼の名前を呼んで、言った。

「なぎさって、誰?」

問いかけられて、圭介は一瞬停止した。

「岬ちゃんって、私の友達だよね?」
「誰の話をしてるんだ?」

圭介は汀に向き直り、ポケットから金色の液体が入った注射器を取り出した。
それを汀の点滴チューブの注入口に差込み、中身を流し入れる。
そして彼は、微笑んで汀の白髪を撫でた。

「俺はそんな子、知らないな」
「夢に出てきたの。じゃあ、私の勘違いかな」
「ああ、お前の夢の中での出来事だよ」

圭介はそう言って、汀の手を握った。

「今日はゆっくり休め。お前、疲れてるんだよ」




261: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 21:10:09.68 ID:+tmKKeWJ0

「うん……」

頷いて、汀は圭介に向かって言った。

「ね、圭介」
「何だ?」
「私、また誰かのこと治したんでしょ?」

問いかけられ、圭介はしばらく押し黙った後、笑って頷いた。

「ああ」
「私、人を助けることが出来たの?」
「お前は立派に人を助けたよ。立派にな」
「嬉しい」

微笑んで、汀は呟いた。

「私、人を助けるんだ。もっともっと、沢山の人を……」
「ああ、そうだな」

頷いて、圭介は言った。

「俺は、それを出来る限り助けるよ」




262: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 21:10:44.38 ID:+tmKKeWJ0



女の子は目を覚ました。
ぼんやりとした頭のまま、周囲を見回す。
見慣れない病室。
見慣れない人達。
髭が特徴的の人が、にこやかに笑いながら、彼女に言った。

「私達が分かるかい? 分かったら、返事をしてくれないかい?」

女の子は頷いて

「……分かります」

と答えた。




263: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 21:11:14.20 ID:+tmKKeWJ0

髭の男性の後ろで、腕組みをしたメガネの男性が、壁に寄りかかって資料を見ている。

「私の名前は大河内。君の主治医だ。先生と呼んでくれればいい」

髭の男性に助けられて上体を起こし、彼女は猛烈な脱力感の中、ぼんやりと彼を見た。

「せんせ?」
「ああ、先生だよ」
「ここは、どこ?」
「赤十字病院だよ。君は、大きな事故に遭って、ここに運ばれてきたんだ。覚えてるかい?」

女の子はそれを思い出そうとした。
しかし、頭の中が空白で、何かガシャガシャしたものが詰まっていて、それが邪魔をして思い出せない。

「私……名前……」
「ん?」
「私の、名前……」

それが分からないことに、女の子は愕然とした。




264: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 21:11:56.01 ID:+tmKKeWJ0

大河内は少し押し黙った後、何かを言いかけた。
しかし後ろの青年が、資料を見ながら声を上げる。

「汀(みぎわ)だ。苗字は、高畑」
「たかはたみぎわ?」
「ああ。お前は、俺の親戚だ」

資料を閉じて、メガネの青年は彼女に近づいた。

「俺は高畑圭介。圭介と呼んでくれていい」
「私の親戚?」
「そうだ」
「お父さんと……お母さんは?」

問いかけられ、圭介は一瞬苦い顔をした。
しかしすぐにもとの無表情に戻り、彼女に言う。

「お前に、お父さんとお母さんはいないよ」




265: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 21:12:25.70 ID:+tmKKeWJ0

「いないの?」
「お前が小さい頃、事故に遭って他界した。それからずっと、お前は俺と二人暮しだ」
「私、どうしたの?」
「大型トラックに撥ねられたんだ」
「体が動かないよ……」
「右腕は動かせるはずだ」
「他のところは?」
「麻痺が残ってる。無理だろうな」
「高畑」

そこで大河内が圭介を制止して、口を開く。

「まぁ……まだ起きたばかりで分からないことが多すぎるだろうから、ゆっくり理解していこう、な? 私が、君のリハビリと訓練を担当させてもらうから」
「リハビリ? 訓練?」
「うん。大丈夫だ。少し頑張ればすぐによくなるさ」




266: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 21:13:08.91 ID:+tmKKeWJ0

問いかけに答えず、大河内は続けた。

「何か、流動食くらいだったら食べられるかな? おなかは減ってるかい?」
「全然減ってないよ……」

そこで汀(みぎわ)と呼ばれた女の子は、壁に取り付けられた鏡を見て、動きを止めた。
そこには、老婆のように髪の毛を真っ白にさせた女の子……ガリガリに骨と皮ばかりのやつれた姿をした子が映っていた。
動く右手で顔を触り、それから髪を触る。
白髪には艶がなく、パサパサとした感触が手を伝わってくる。

「これ……私……?」

目に見た事が信じられず、汀は呆然と呟いた。
その頭を撫で、大河内が言う。




267: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 21:13:39.52 ID:+tmKKeWJ0

「私は、今の髪の方が好きだよ。白い方が素敵だ」
「…………本当?」
「ああ、本当だ」

彼がニコリと笑う。
その後ろで、圭介が持っていた資料を、汀の膝の上に放った。
パサリと音を立てて薄い資料が、彼女の目に留まる。
表紙に、端的に
『Mind Sweeper 契約書』
と書かれている。

「お前はこれから、マインドスイーパーとして、俺と一緒に働くことになる。暇な時にそれをよく読んで、サインしておけ。重要な書類だから、なくすなよ」
「マインドスイーパー……って、何?」
「ワンダーランドに行ける職業だ。夢の国。行きたいだろう? 女の子だもんな」

皮肉気にそう言って、圭介は背中を向けた。




268: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 21:14:07.34 ID:+tmKKeWJ0

「それじゃ、また来る」

歩いていく圭介を見送り、汀は呟いた。

「あの人……怖い……」
「無愛想な奴なんだ。根はいい人間だ。信用してやってくれ」

大河内がそうフォローして、汀の手を握る。

「とにかく、一命を取り留めてよかった」
「せんせ、私、もう体動かないの?」

「そんなことはない。リハビリして、ちゃんと過程を踏めば段々動くようになってくるさ。今はただ、麻痺しているだけだよ」

圭介とは真逆のことを言い、大河内は優しく、汀のことを抱きしめた。
汀がびっくりしたような表情をし、しかし冷えた体に感じる人の体の温かさに、安心したように息をつき、大河内に体を預ける。

「泣かないで。一緒に治していこう。一緒に」




269: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 21:14:43.56 ID:+tmKKeWJ0

いつの間にか汀は泣いていた。
涙が、次々と目から流れ落ちていく。

「あれ……? あれ……?」

呟いて、汀は右手で目を拭った。

「どうして私……泣いてるんだろう……」

「人の心は難しいものだ。君がどうして泣いているのか、分からないけれど……」

大河内は汀から体を離して、また頭を撫でながら言った。




270: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 21:15:09.49 ID:+tmKKeWJ0

「これからは、私がついている」
「……うん」

涙を流しながら、汀は頷いた。
いつの間にか、彼女の病室の表札は、「高畑汀」となっていた。
振り仮名で、「なぎさ」ではなく「みぎわ」と書いてある。
その意味を、彼女はまだ知らない。




271: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 21:16:29.20 ID:+tmKKeWJ0



びっくりドンキーのいつもの席で、汀はチビチビとメリーゴーランドのパフェを食べていた。
圭介がステーキをナイフで切って口に運ぶ。

「でね、圭介。3DS、結局値下げしたんだって。ネットに書いてあったよ」
「もう一台欲しいとか言い出すなよ」
「使わないからいらないなぁ。それより、PSVITAが欲しい」
「あれの発売日はまだ先だろ?」

他愛のない会話をしながら、圭介はナイフを置いた。
そして汀の前に、一抱えほどもある包装された箱を置く。

「ほら、プレゼントだ」
「どうして?」

目を丸くした彼女に、圭介は笑いかけて言った。




272: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 21:17:06.74 ID:+tmKKeWJ0

「覚えてないだろうけど、お前、レベル6の患者の治療に成功したんだ。そのお祝い。前から欲しかったって言ってた、雪ミクのプーリップ(ドール=人形)だ。数量限定だから、手に入れるの苦労したんだぞ」
「圭介、大好き!」

そう叫んで、汀は包装紙を手荒に破いた。
そして中に入っている頭が大きいドールを見て、嬌声を上げる。

「わあ、可愛い!」
「大事にしろよ」

そう言って食事に戻った圭介に、汀は箱を抱きながら言った。

「ね、圭介」
「ん?」
「この前ネット見てたらね、死刑判決が出た人、あのさ、女の人拷問して殺した人」

それを聞いて、圭介の手が止まった。




273: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 21:17:34.67 ID:+tmKKeWJ0

「自殺病は治ったけど、死刑を取り下げるようにって、被害者の人たちが言ってるんだって。不思議だよね。どうしてだろ、って私は思ったよ」

圭介は何事もなかったかのように食事を再開して、そして彼女に微笑みかけた。

「人間って、不思議な生き物だからな」
「それで片付けるの?」
「だって、それが全てだろ」

彼はステーキを咀嚼してから、続けた。




274: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 21:18:03.77 ID:+tmKKeWJ0

「ほら、アイスが溶けるぞ」
「……うん!」

人形を大事そうに抱きながら、汀はパフェを食べる作業に戻った。
隣には、小白が眠っているケージが置いてある。
圭介はしばらく、感情の読めない無機質な瞳で彼女を見ていたが、やがて自分も、ステーキを食べる作業に戻った。




275: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/08(月) 21:19:25.36 ID:+tmKKeWJ0



第5話に続く



お疲れ様でした。
次話は明日、5/9に投稿予定です。
気長にお待ちくださいませ。
m(_ _)m




276: 以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします 2017/05/08(月) 22:44:03.49 ID:wTcPiQ+MO






277: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:19:11.55 ID:tKa1gWj60

皆様こんばんは。
第5話の投稿をさせていただきます。




278: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:22:03.05 ID:tKa1gWj60

「ダイブ続行不可能! マインドスイーパーが、精神区画内にて捕縛されました!」

ラジオのミキサー室のような部屋で、ヘッドフォンをつけた白衣の医師が大声を上げる。
大河内が青ざめた顔で、椅子に座っている十五、六歳程の少年を見た。
頭にはマスク型のヘルメットが被せられている。
そして、隣にはベッドが置いてあり、両手両足を四方に縛りつけられ、さるぐつわをかまされた女性が磔られていた。
女性の頭にも、マスク型ヘルメットが被せられている。

「馬鹿な……たかがレベル3の患者だぞ! どうして狙われた?」

いつになく強い語気で彼が言うと、計器を操作している別の医師が、焦った口調で言った。

「逆探知されます! このままでは、マインドスイーパーの意識が乗っ取られます!」
「切断だ! 全ての回線を緊急切断しろ!」

大河内が大声を上げる。




279: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:23:18.41 ID:tKa1gWj60

そこで、椅子に座っている少年の体が、ガクガクと揺れ、次いで鼻からおびただしい量の血液が流れ出した。
痙攣している少年の頭からマスクをむしりとろうとして大河内が近くの看護士に羽交い絞めにされて止められる。

「駄目です! 今切断したら、心理壁に重大な障害が残ります!」
「このままだと、どの道殺される!」

ゴパッ、と少年が血の塊を吐き出した。
そして、荒く息をつきながら、口の端を吊り上げて、およそ人間とは思えない形相で、ニヤリと笑った。

「……遅かったか……!」

大河内が、それを見て硬直する。

「はは……はは……はは……ははははは!」

少年が突然、高笑いをした。




280: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:23:57.96 ID:tKa1gWj60

そして生気を失った瞳で大河内と、周囲の医師たちを見回す。

「ごきげんよう、日本赤十字病院の皆さん」

体は動かさず、首だけがゆらゆらと揺れている。
声はガラガラとしわがれていて、まるで老人のようだった。

「僕の勝ちだね。今回も、君達の『負け』だ」

勝ち誇ったように少年は言うと、目を見開いて、また笑った。

「はは……次の『試合』はいつにしようか?」

「ふざけるなよ! 罪のない患者と、マインドスイーパーの命を奪って、何が目的だ!」

大河内が語気を荒げる。

「目的? 目的ねえ……」

少年は首をかしげ、そしてはっきりと言った。

「復讐と、趣味かな」




281: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:24:50.45 ID:tKa1gWj60

「こいつ……!」
「またね。今度はもっと楽しい戦場で会おう。それと」

少年が、体を揺らして笑った後、続けた。

「もっと、歯ごたえのあるマインドスイーパーを用意した方がいいよ。その方が、お互い楽しゴボッ!」

言葉の途中で、少年が盛大に吐血した。
そしてゆっくりと床に崩れ落ちる。
起き上がろうとした彼の目、耳、口、鼻、顔に開いている全ての穴から、バッシャァッ! と血が飛び散った。
それをモロに被り、大河内は、床で痙攣している少年を見た。
そして近づき、マスク型ヘルメットをむしりとり、歯を強く噛みながら抱き上げる。
男の子は、もう事切れていた。




282: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:25:57.42 ID:tKa1gWj60

力を失った亡骸を抱いて、大河内が血まみれの部屋を見回す。
誰も、言葉を発する者はいなかった。
ベッドに縛り付けられていた患者も、少年と同様の様子になって事切れている。

「……患者の脈拍、停止しました……」
「心理壁の崩壊を確認。復旧は不可能です……」

しばらくして、女性の看護士が、計器の前で小さな声で言う。
大河内は、少年を抱いて大声を上げた。

「何をしてる! 患者にAED! この子を即手術室に運ぶんだ!」




283: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:27:00.06 ID:tKa1gWj60



第5話 白い世界



びっくりドンキーの店内、客があまりいない隅の席で、汀はすぅすぅと寝息を立てていた。
その正面で、圭介が携帯電話を弄っている。
表情は硬い。
汀の右手にはリードがつけられ、彼女の膝の上には飲食店内だというのに、白い、小さな猫が乗って、丸くなって眠っていた。
しばらくして、オーナーに案内され、髭が特徴的な男性が顔を出した。
大河内だった。

「汀ちゃんは……寝ているのか」
「お前の到着があまりに遅いから、こんなところでクスリを投与することになっちまった」

小さな声で毒づいて、圭介が汀の隣を手で指す。

「座れよ」
「助かる」

頷いて、大河内は汀の隣に腰を下ろした。




284: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:27:44.65 ID:tKa1gWj60

そして

「この猫が、マインドスイーパーの力があるとかいう猫か。こんにちは、私は大河内だ。小白ちゃん」

そう言って、眠っている猫の頭を軽く撫でる。
オーナーが大河内の注文を聞いて、頭を下げて下がる。
そこで圭介は、暗い表情のまま大河内に言った。

「ここには来て欲しくなかった」
「急を要するんだ。元老院からの出頭命令をお前達が無視しなければ、私が出向くこともなかった」

眠っている汀を見て、そして彼は続けた。

「どうして無視した?」
「仕事が終わってここに来ることは、汀の中でとても大事なプロセスなんだ」




285: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:28:42.39 ID:tKa1gWj60

「過程は重視しないんじゃなかったのか?」
「それとこれとは話が違う。次元の違う話題を持ってくるな、苛々する」
「お前にしては珍しく荒れてるな」

大河内が、オーナーが持ってきたコーヒーに口をつける。

「うむ、美味い」
「ありがとうございます」

頭を下げてオーナーが下がる。
圭介はそれを冷めた目で見て、そして口を開いた。

「お前の用件は知ってる。断らせてもらう」
「話を聞きもしないで断るのか?」
「赤十字の問題は、赤十字で処理しろ。俺には関係がない。お前達の尻拭いで、大事な弾を減らしたくない」




286: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:29:20.79 ID:tKa1gWj60

「酷い言い草だな。何があった?」
「こっちのセリフだ」

吐き捨てて、圭介は息をついた。
そして水を口に運んで、飲み込んでから言う。

「汀の体調が思わしくない。今日のダイブも、想定していた結果を出すことは出来なかった」
「だが、成功したんだろう?」
「…………」

それには答えずに、圭介は足を組んだ。
そして大河内を、睨むように見る。

「そういうわけだ。引き取ってくれ」
「完全にご機嫌斜めだな」
「分かってもらえて嬉しい」

低い声でそう言って、圭介はまた一つため息をついた。




287: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:30:39.86 ID:tKa1gWj60

大河内はしばらく黙っていたが、かばんの中から資料を取り出して、圭介の前に滑らせた。

「……断ると言っただろう」
「赤十字の意向じゃない。この私、個人からの依頼だとしたら、どうかな」

圭介が顔を上げる。

「どういうことだ?」
「言ったままだ。私が、私個人の依頼として、患者の治療をお前達に頼んでいるんだ」
「何のメリットもないだろう」
「現在、赤十字病院は、自殺病患者にマインドスイーパーがダイブできない状態が続いている。もう三日だ。テロと言ってもいい」

その話が出た瞬間、圭介は知っていたらしく、顔をしかめた。

「いいじゃないか。供給過多な人口が減る」
「それが医者の言葉か」
「ああ」




288: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:31:20.78 ID:tKa1gWj60

圭介はまた水に口をつけ、言った。

「……で?」
「お前達に、救ってもらいたい人間がいる。自殺病は比較的軽度だ。だが、放っておけばいずれステる(死ぬ)」
「それは、どんな自殺病にでも言えることだろ」
「偽善者といわれるかもしれないが、この患者は助けたい。それに、お前達にとっても、悪い話ではないと思うが」

大河内にそう言われ、圭介は資料を手にとってめくった。
そしてしばらく各ページを凝視した後

「へぇ……」

と興味がなさそうに言って、資料をテーブルに放る。

「悪い話ではないな」
「無駄弾を撃たせるつもりはない。だが、貴重な一発になるはずだ」




289: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:32:05.82 ID:tKa1gWj60

「それだけじゃないだろ」

圭介は、そう言って自嘲気味に小さく笑った。

「お前達は……いや、『お前』はナンバーX(テン)と汀をぶつけたいんだ」

大河内はその単語を聞いた瞬間、サッと顔を青ざめさせた。

「……どこからその情報を仕入れた?」

たちまち低い声になり、身を乗り出した大河内に、圭介は薄ら笑いを浮かべながら言った。

「外道め。外見は父親面してても、結局の要点はそこか」
「どこから聞いたのかと質問をしているんだ」
「世の中には親切な人が沢山いてな」




290: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:32:43.07 ID:tKa1gWj60

圭介は水を飲んで、そして続けた。

「それだけのことだ」
「一度、お前の身辺を警察も交えて徹底的に洗う必要がありそうだな」
「元老院が許せば、勝手にやればいい」

挑発的にそう言い、圭介と大河内はしばらくの間にらみ合った。
しばらくして大河内がため息をつき、また資料を出した。
そして圭介の前に放る。

「ナンバーX。警察はそう呼んでいる」

そこには、汀と同じような白髪の、十七、八歳ほどと思われる少年の写真があった。
病院服姿で、名前を書かれたプレートを持っている写真だ。
名前の欄には「X」と一単語だけ書かれている。




291: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:33:22.85 ID:tKa1gWj60

「見ない顔だな」
「そこまでの情報はないのか」
「探りあいは止めよう。俺は、お前から得られる情報を一切信用していないからな。探り合いってのは、対等な条件で行うもんだ」

そう言いながら資料をめくり、圭介はしばらくして、大河内にそれを放って返した。

「で?」
「OK、最初から話を始めよう……」

コーヒーに口をつけ、大河内は続けた。

「先日、その少年が赤十字の施設を脱走した」
「へぇ、『施設』ね」

圭介は冷たい目で彼を見た。




292: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:34:17.79 ID:tKa1gWj60

「『収容所』の間違いじゃないのか?」
「喧嘩を売っているのか?」
「事実を述べたまでだ」
「…………その子に、名前はない。施設では十番目のXをつけられていた。つまり、GMDサンプルの第十号だ」
「…………」
「脱走を手伝った組織も、方法も分かっていない。警察が動いているが、公にしていない情報だ」
「だろうな」

息をついて、圭介は言った。

「つまり今の状況は、飼い犬に手を噛まれた状況と同じってことか?」
「……そうなる」




293: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:34:50.17 ID:tKa1gWj60

「傑作だな。赤十字の施設が、秘密裏に育てたマインドスイーパーに、肝心のマインドスイープを妨害されてるなんて、新聞社にこの情報を売りつけたら、いくらで食いつくだろうね」

大河内が顔を青くして、また身を乗り出す。

「やめろ。全てを台無しにしたいのか?」
「俺もそこまで馬鹿じゃない。冗談だ」

とても冗談とは思えない淡々とした声で圭介は言うと、水がなくなったグラスを見つめた。

「殺し合いをしろってことか」
「違う。汀ちゃんに、ナンバーXを説得して欲しいだけだ」
「説得?」

怪訝そうな顔をした圭介に、大河内は頷いた。




294: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:35:42.83 ID:tKa1gWj60

「赤十字は違うだろうが、私個人としては、ナンバーXを断罪する気も、咎めるつもりもない。ただ、これ以上罪を重ねて欲しくないんだ」
「随分と偽善的な台詞だな」
「何とでも言え。この状況を、それで収拾できるなら、俺は偽善者でもいい」
「だからこそのこの患者か」

最初に渡された資料を手に取り、めくりながら圭介が言う。

「合点がいったよ」
「請けてくれるか」
「充当手当ての五倍もらう」

圭介は感情の読めない瞳を彼に向けた。

「それでいいなら請けよう」




295: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:36:40.37 ID:tKa1gWj60

「……分かった。明日、ダイブを決行したい。赤十字のマインドスイーパーも、サポートにつける」
「邪魔になるだけだと思うが、やりたいなら好きにすればいい」

圭介はそう言って立ち上がり、汀の隣に移動した。
そして眠っている小白を無造作に掴み、ケージに放り込むと、リードを外して、それもケージの中に突っ込んだ。
彼はケージを腕にかけると、汀を慎重に抱き上げた。
彼女は、すぅすぅとまだ寝息を立てていて、起きる気配がない。

「待て。もう少し詳しく説明と打ち合わせをしたい」




296: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:37:10.61 ID:tKa1gWj60

「これ以上、汀の体を冷やすわけにはいかない。追加の情報があるなら、すぐに病院に戻って、うちにFAXするんだな」

圭介は頭を下げるオーナーに会釈してから、一言付け加えた。

「お前の情報は、信用しないけどな」

背中を向けて歩いていく彼を見て、大河内が深いため息をつく。
コーヒーをすすった彼に、店員が別のコーヒーを持ってくる。
それを制止して、大河内も立ち上がった。




297: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:38:08.04 ID:tKa1gWj60



「ナンバーX?」

きょとんとした顔で汀がそう言う。
圭介は汀の点滴を替えながら、それに答えた。

「ああ。そう呼ばれているらしい」
「テロしてるの?」
「そうらしい」

頷いて、彼は汀の前の椅子に座った。

「今日の診察は全て中止した。これから赤十字病院に向かうぞ」
「大河内せんせに会えるかな?」
「依頼主が大河内なんだ。嫌がおうにも会うことになるさ」




298: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:38:52.70 ID:tKa1gWj60

「ほんと? やだ、私こんな格好で……」
「気にするな。大河内も気にしないよ」
「せんせが気にしなくても、私が気にするの」

そう言いながら、壁の鏡を見て、櫛で髪を梳かし始めた汀に、圭介は息をついて、手元の資料を見てから言った。

「今回のダイブは、極めて危険なことになるかもしれない。小白を絶対に連れて行け」
「うん。小白も行くよね?」

汀に問いかけられ、隣で丸くなっていた猫は、分かっているのかいないのか、顔を上げてニャーと鳴いた。

「その、ナンバーXっていうマインドスイーパーが、勝手に回線に進入してきて、他の人のマインドスイープを邪魔してるんだ」




299: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:39:25.74 ID:tKa1gWj60

「話によるとな。どの程度の能力者なのか分からないから、危ないと思ったらすぐに帰還しろ。今回は、それが可能なフィールドを用意した」
「どういうこと?」
「これが、今回の患者だ」

圭介が汀の前に資料を投げる。
汀はその写真を見て、意外そうに呟いた。

「へぇ……赤ちゃん?」
「今回の対象は、生後一ヶ月の女児。自殺病の第二段階を発症してる。軽度だが、乳児だからダイブにはもちろん細心の注意をはらってくれ」
「いいの? ナンバーXっていう人は、患者も殺しちゃうんでしょう?」

問いかけられて、圭介は淡々と言った。

「ナンバーXは、どうでもいい。お前は、人を助けることに全力を注げばいいんだ。分かるな?」




300: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:39:55.29 ID:tKa1gWj60

「……うん。分かる」

汀はそう言って、髪を梳く手を止めた。
そして圭介を見て、はっきりと言う。

「私は、その人から、この赤ちゃんを守りながら、自殺病を治療すればいいんだね」
「分かってるじゃないか。決して、戦おうなんて考えるなよ」
「どうして?」
「…………」

無言を返し、圭介はクローゼットの中から、汀の余所行きの服を取り出した。

「行くぞ。用意を始めるからな」

汀はしばらく不思議そうな顔をしていたが、やがて自己完結したのか、頷いて服を受け取った。




301: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:40:50.81 ID:tKa1gWj60



十字病院の会議室で、汀は大声を上げた。

「せんせ!」

会議室に集まっていた多くの医師や、マインドスイーパーだと思われる、病院服の少年少女達が、一斉に汀を見る。
気にせず車椅子を進めた圭介を一瞥して、入り口で待ち構えていた大河内が、満面の笑顔で汀を抱き上げた。
そしてその場をくるりと一回転する。

「ははは、久しぶりだなぁ、汀ちゃん」
「せんせに会いたかったよぉ。せんせ、元気だった?」

大河内に抱きつき、猫のように頭を押し付ける汀。
その頭を撫でながら、大河内は彼女を抱き上げつつ、会議室の上座に移動した。




302: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:41:35.15 ID:tKa1gWj60

「元気だったさ。汀ちゃん、少し痩せたんじゃないか?」
「せんせに会えるから、しぼったんだよ」
「駄目だぞ、無理しちゃ。よぉし、今晩は、うまくいったら私のおごりで……」
「大河内、場所を考えろ」

圭介が大河内に耳打ちする。
大河内はそこでハッとして、慌てて汀を椅子に座らせ、そして自分はその隣に腰を下ろした。

「せんせ?」

不思議そうに汀が聞く。
大河内は彼女に笑いかけ

「ごめんな、汀ちゃん。あまり時間がないんだ。治療が終わったら、いろいろ話そうな」

と言った。




303: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:42:17.89 ID:tKa1gWj60

頭をなでられ、汀は頬を紅潮させて頷いた。

「うん、うん!」

圭介が大河内の隣に腰を下ろす。
大河内は咳払いをして、周りを見回した。

「……こちらが、先ほど説明した高畑医師と、マインドスイーパーです。特A級の能力者です。私が、個人的な要望でお呼びしました」

不穏な視線を向けている周囲の威圧感に、汀が肩をすぼめる。
車椅子に乗せられたケージの中から、小白がニャーと鳴いた。

「それでは、本日のダイブについて説明を開始します。難しい施術になると思われます。各マインドスイーパー、オペレーターは特に注意して聞いてください」

大河内はそう言って赤ん坊の写真が映し出された正面のスクリーンを、指し棒で示した。




304: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:42:52.79 ID:tKa1gWj60

「事前に説明したとおり、ダイブ対象者は、高橋有紀。生後一ヶ月の赤ん坊です。現在、比較的経度な自殺病第二段階を発症しています。自覚症状などはありませんが、年齢を考え即急なダイブと事前治療が必要であると判断しました」

そして彼は、下のほうに映されている、ナンバーXの写真を指した。

「赤ん坊なので、心理壁の構築もありません。トラウマの発生もないと考えられます。しかし、今回のダイブには、ほぼ確実に外部からのハッキングがあると考えられます」

小白がまたニャーと鳴く。
眉をひそめた周囲に構わず、彼は続けた。

「現在警察も身柄を拘束しようと捜索をしていますが、この男による精神攻撃の可能性が高い。皆さんには、可能な限り迅速に、患者の治療を行い、この男のハッキングを我々が阻止している間、退避していただきたい」




305: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:43:28.12 ID:tKa1gWj60

「大河内先生。その男は何者なんだね?」

そこで、座っていた壮年男性が口を開いた。

「先日、うちのマインドスイーパーが五人もやられている。それに今回の、この数のスイーパーだ。ただ事ではなかろう」
「ええ、ただ事ではありません」

大河内はそう答えて、ナンバーXの顔写真を指した。




306: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:44:03.11 ID:tKa1gWj60

「明確な正体はまだ分かっていません。サイバーテロリストの一派である可能性が高いと思われます」
「それだけの情報で、気をつけろといわれてもな……」
「こちらとしても提供できる情報があまりに少なく、対応が出来ない状態が続いています。しかし、今回のこのダイブは成功させたい」

彼は、息をついてから言った。

「こちらも、出来うる限りの対策と援助をします。では、詳しい内容に入っていきましょう」




307: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:45:56.75 ID:tKa1gWj60



汀は、淡々とした目で、眠らされている赤ん坊を見た。
赤ん坊の頭には、マスク型ヘルメットが被せられている。
そこは円形の部屋になっていて、中心部に赤ん坊がいる。
そして汀がその隣に、圭介が汀の脇の機械の前に。
他のマインドスイーパーは、それぞれ部屋の壁部にあたる場所に腰掛け、マスク型ヘルメットを被っていた。
総勢十一人のマインドスイーパー。
殆どが、十五、六の男女だ。
汀は眠っている小白を抱いて、そしてヘッドセットをつけてからマスクを被った
そこに大河内が近づいて、しゃがみこむ。

「汀ちゃん、危ないと思ったら、すぐに帰還するんだ」
「せんせ、これが終わったら、一緒に遊ぼう」

大河内の言葉には答えずに、汀は無邪気に言った。




308: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:46:26.99 ID:tKa1gWj60

圭介が顔をしかめて、大河内を睨む。

「汀、集中しろ」
「うるさい圭介」

圭介の言葉を跳ね除け、汀は動く右手を大河内に伸ばした。

「ね、約束。ゆびきりげんまん」
「分かった。約束しよう」

大河内が、汀の小指と自分の小指を絡ませる。
そこで圭介が立ち上がり、大河内を汀から引き離した。

「ダイブの邪魔だ。早く配置につけ」
「分かってる。だが、妙な胸騒ぎがしてな……」

大河内が小声で言う。




309: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:46:59.44 ID:tKa1gWj60

圭介は息をついて、彼の耳元で言った。

「仮に戦闘する羽目になったら、俺が直接回線を切る。得策のない話は嫌いだからな」
「それを聞いて安心した。頼むぞ」
「言われるまでもない。もらう分は働くさ。俺も、汀もな」

そう言って圭介は、背中を向けた大河内に代わって、汀の脇にしゃがんだ。

「余計なことは考えるな。いいか、精神世界でどんなジャックにあっても、動揺するなよ。俺が何とかする」
「分かってるけど……どうして、圭介も、せんせも、そんなに緊張してるの?」

問いかけられ、圭介は口をつぐんだ。




310: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:47:30.80 ID:tKa1gWj60

そして軽く笑いかけ、汀の頭をなでる。

「緊張なんてしていないさ。ただ、赤ん坊の意識の中に、十二人もダイブさせる施術は、世界初だからな。そのせいかもしれないな」
「大丈夫だよ。仮にどうにかなったとしても……」

汀は、冷めた目で赤ん坊を見た。

「少しくらいなら大丈夫でしょ」
「だな。気負わずに行け」
「うん」

彼女の答えを確認して、圭介は席に戻った。
そして声を上げる。

「一番、準備整いました。ダイブを開始します!」




311: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:48:06.98 ID:tKa1gWj60



汀は目を開いた。
彼女は、いや、「彼女達」は一面真っ白な空間に立っていた。
汀が少し離れたところに立っていて、他のマインドスイーパー達が固まってきょろきょろと周囲を見回している。
そこは、一面が白い珊瑚の砂浜のようになっていた。
足元には柔らかい砂地。
そして真っ白な空が広がっている。
水音。
そして、クラシックの優しい音楽がかすかに聴こえる。
汀は、米粒のような砂を、しゃがんで手ですくうと、サラサラと下に落とした。




312: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:48:39.39 ID:tKa1gWj60

風はない。
完全に無風だ。
しかし温かい。
足に擦り寄ってニャーと鳴いた小白を抱き上げて肩に乗せ、
汀はヘッドセットのスイッチを入れた。
他のマインドスイーパー達も、同じような動作をしている。

「ダイブ完了。周りの状況を確認したよ」
『どうだ?』

圭介に問いかけられ、汀はマイクの向こうの保護者に、肩をすくめてみせた。

「ただの、自然構築された無修正の白空間。本当に自殺病を発症してるの? ってくらい平和」
『そうか。中枢は……探すまでもないだろうな』
「うん」

汀は、先の空間に目をやった。




313: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:49:22.70 ID:tKa1gWj60

そこには丸い、一掴みほどの玉が浮いていた。
顔の位置にあるそれは、多少濁ってはいるが、ほぼ透明で、水晶のようだ。
中に、黒い墨のような紋様が浮いていて、それが形を変えつつ、徐々に広がってきている。
汀はその前に立って、少し考え込んだ。

「訂正。ちょっと難しいかも」
『どういうことだ?』
「中枢が剥き出しで置いてあるのは乳幼児によくあることだから、問題はないんだけど……中枢の内部まで、ウイルスが入り込んでるね」
『取り除けるか?』
「駄目元でやってみる」

そう言って玉に手を伸ばしかけた汀に、追いついたマインドスイーパーの一人が声をかけた。




314: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:50:49.14 ID:tKa1gWj60

「あ……あの!」

振り返った汀の目に、自分を見ている少年少女たちが映る。
中には、不穏そうな表情を浮かべている子もいた。
全員同じ白い病院服なので、判別がつけにくいが、明らかに汀に敵意を向けている子もいる。
汀は一歩下がって、自分に声をかけた女の子を見た。

「何?」
「私、片平理緒(かたひらりお)って言います。あなたが、高畑汀さん……なのよね?」

理緒と名乗った女の子は、車椅子状態とは違う汀と肩の上の猫を見て、少し戸惑った様子を見せたが、笑顔で手を差し出した。

「ご一緒できて、嬉しいわ。私、このチームのリーダーをしてるの。本当に猫を連れてるんだ。びっくりしました」




315: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:51:23.87 ID:tKa1gWj60

汀よりも一、二歳程年上だろうか。
しかし丁寧で優しい、おっとりした口調は、どこか落ち着いた風格を漂わせている。
灰色になりかけているショートの髪を、両側に編んでいる。
可愛らしい子だった。
しかし汀は、理緒が差し出した手を、顔をしかめて見ると、小さな声で返した。

「仕事中でしょ? 余計な手間をかけたくないんだけど」

汀の態度に、数人のマインドスイーパーが表情を固くする。
しかし理緒は、一歩進み出ると、優しく汀の右手を、両手で包み込んだ。
そしてニッコリと笑う。

「そんなことないですよ。挨拶も重要な仕事の一つです。あなた、会議室では一言も返してくれなかったから……」

そういえば、会議室でのマインドスイーパー同士の計画チェックで、何度も話しかけられたことを汀は思い出した。




316: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:53:19.99 ID:tKa1gWj60

しかし、彼女は理緒の手を乱暴に振り払い、そして言った。

「馴れ馴れしいのは好きじゃない」
「気に障った……? ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんだけれど……」

理緒は少し表情を暗くしたが、すぐに笑顔に戻り、玉を指で指した。

「それ、私、上手に治療できます」
「……?」

怪訝そうな顔をした汀に、理緒は慌てて顔の前で手を振って続けた。

「あ……あなたが、もっと上手く治療できるなら、その方がいいですけれど……考えてる風だったので……」
「精神中核を触れるの?」
「はい。私、そのためにこのダイブに参加しました」

理緒が、花のような笑顔で笑う。




317: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:54:01.88 ID:tKa1gWj60

顔の前で指を組んで、彼女は玉に近づいた。

「綺麗な核。やっぱり、赤ちゃんの精神は凄く安定してて、強いなぁ」
「中核を無傷に素手で触れるスイーパーなんて、聞いたことないわ」
「触れます。ほら」

そう言って、理緒は手を伸ばし、汀が制止しようとする間もなく、丸い玉を両手で包み込んだ。
そして、つぷり、と音を立てて指を中に入れる。
どうやら鉱石質なのは外観だけらしく、ゼリー状らしい。
そのまま理緒は

「うん、うん……怖くないからね。大丈夫だよー」

と、子供に言い聞かせるように呟きながら、目を閉じた。
そして黒い筋を指でつまみ、するっ、と抵抗もなく引き抜く。




318: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:55:09.09 ID:tKa1gWj60

時間にして十秒もかからなかっただろうか。

「ほら、心配ない」

くるりと振り返って、理緒はニコリと微笑んだ。
彼女が手につまんでいた、黒いウナギのような筋が、塵になって消えていく。

「……驚いた。精神中核の奥に食い込んでたウイルスを、核を傷つけずに、素手で除去するなんて……」

汀が、思わずと言った具合で呟く。
それに、マイクの向こうで圭介が答えた。

『その子は、赤十字が保有している数少ないA級能力者の一人だ。治療には成功したのか?』




319: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:55:53.10 ID:tKa1gWj60

「私が来る意味あったの?」
『……特に問題がないようだったら、戻って来い。深追いする必要はない』
「どういうこと?」

それに、圭介が答えかけた時だった。
理緒が精神中核から引き抜いた黒い筋が、途中から千切れてポタリ、と地面に落ちた。
途端にそこがボコボコと沸騰をはじめる。

「トラウマ……?」

きょとんとして汀が呟く。

『何?』
「トラウマだ。何で……?」

汀が言っている間に、沸騰している地面の染みは広がると、直径一メートル程の円になった。
そこから、黒いゼリー状の物質が、沸騰しながら競りあがる。




320: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:56:26.96 ID:tKa1gWj60

「え……?」

ポカンとしている理緒の方に、蛇のようになった、そのゼリー物質は鎌首をもたげた。
次いで、その口が開き、凄まじい数の牙があらわになる。

「きゃあああああ!」

理緒が悲鳴をあげ、幼児の精神中核を抱いてその場にしゃがみこむ。

「何してるの!」

そこで、汀が動いた。
座り込んでいる理緒に駆け寄り、突き飛ばす。
そして地面をゴロゴロと転がる。
二人がいた場所に、黒い巨蛇が頭から着地する。




321: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:57:01.58 ID:tKa1gWj60

そのまま地面にするすると入り込み、蛇は姿を消した。

「あ……ありがとう……」

震えながら、理緒が口を開く。
それをかき消すように、汀は呆けた感じで立ち尽くしているマインドスイーパー達に怒鳴った。

「トラウマの攻撃が来る! 邪魔だから早く帰って!」
『汀、状況を教えろ。何故生まれたばかりの乳幼児の頭の中に、トラウマがあるんだ!』

圭介が声を張り上げる。

『回線を遮断するぞ!』




322: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:57:32.58 ID:tKa1gWj60

「駄目! 今遮断したら、中核を置いてトラウマを残しちゃうことになる!」
『乳幼児の頭の中にトラウマがあるわけが……ザザ…………ブブ…………』

そこで、圭介の声がかすれて消え、マイクの向こうからノイズが聞こえ始めた。

「圭介? 圭介!」

汀が声を上げる。しかし、ノイズの方が大きくなり、圭介の声を上手く聞き取ることが出来ない。

『ジャック…………遮断できな…………ブブ…………ユブ…………』

プツリ、と音を立てて通信が切れた。

「圭介…………?」

汀が呆然と言う。

「圭介、どうしたの? 圭介!」




323: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 21:58:06.61 ID:tKa1gWj60

マイクのスイッチを何度も動かすが、ヘッドセットは壊れたかのように全く動かなかった。

「応答してください! 先生!」

理緒も、泣きそうな声で叫んでいる。
他のマインドスイーパーも、口々に担当医のことを呼んでいた。
次の瞬間だった。
地面からぬるりと現れた黒蛇が、手近なマインドスイーパーをそのまま丸呑みにした。
耳を劈く絶叫が辺りに響き渡った。
蛇の腹の中で、飲み込まれた少年と思わしきものが、バキボキと砕け散る音が聞こえる。
遅れて、鎌首をもたげた蛇の口から、おびただしい量の血液が垂れ下がった。

「散りなさい!」

汀が大声を上げる。




324: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 22:02:31.06 ID:tKa1gWj60

しかし、マインドスイーパー達は、とっさの事態に対応できないのか、迫ってくる黒蛇に背を向けて逃げるのが精一杯だった。
近くにいた女の子の胴体が、半ばから噛み千切られる。
噴水のように辺りに血が飛び散る。
鞭のように、蛇が体を振る。
数人のマインドスイーパーが、数十メートルも吹き飛ばされ、頭から落下して動かなくなる。
また、一人飲み込まれた。

「ああ……あ……」

理緒が精神中核を抱いたまま、震えている。
小白が足元に降り立ち、シャーッ! と鳴いて風船のように膨らんだ。
そして体高五メートルほどの、巨大な化け猫になって蛇を威嚇する。




325: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 22:03:37.47 ID:tKa1gWj60

「逃げて! 早く!」

どこまでも続く白い砂浜に、逃げ場や隠れるところなどどこにもなかった。
マインドスイーパー達が蛇に、動かぬ肉片に変えられていく。
蛇は体の中のぐちゃぐちゃになった肉塊を吐き出すと、一人腰を抜かしてしゃがんでいた男の子の口めがけて、凄まじい勢いで突進してきた。
そして、明らかに大きなサイズであるというのに、全て男の子の体の中に吸い込まれて消える。

「ガッ!」

そこで、蛇を飲み込んだ男の子が奇妙な声を発した。
その目がぐるりと裏返り、血の涙が溢れ出す。

「み……汀さん! 汀さん!」

痙攣しながら立ち上がった男の子を見て、理緒が汀にしがみつく。
小白がうなり声を上げている。
汀は反応しないヘッドセットを地面に叩きつけると、理緒を庇うように立った。




326: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 22:04:31.91 ID:tKa1gWj60

「……あなたが……ナンバーX……!」
「はは! はははは! ははははははは!」

男の子が、血痰を吐き散らしながら叫ぶように笑った。
そしてその目がぐるりと元にもどり、彼は首をコキコキと鳴らした。

「トロイの木馬作戦。上手くいったかな」

男の子の体中のいたるところから、血が流れ出す。
それでも足を踏み出し、彼は口を裂けそうなほど開いて笑った。

「赤十字も、ピンポイントで僕が『偶然』選ばれた患者の中に隠れてたなんて、思ってもみなかっただろうね」
「ナンバーX? あの人……!」

理緒が悲鳴のような声を上げる。




327: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 22:05:35.89 ID:tKa1gWj60

「うるさいよ」

パンッ、と音がした。
汀の隣で、理緒がもんどりうって地面を転がる。
いつの間にか、どこから取り出したのか、男の子は拳銃を握っていた。
その弾倉を回転させて止め、彼はニヤリと笑った。

「銃……? どうして……」

汀が呟く。
肩を撃たれたのか、理緒がうめきながら立ち上がろうとしてまた、地面に崩れ落ちる。
彼女は、それでも中核を離そうとしなかった。

「あと五発」

もう一回弾倉を回してから、少年は走り出した。




328: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 22:07:42.03 ID:tKa1gWj60

「楽しもうじゃないか! 赤十字!」

飛び掛ってきた小白の頭を掴んで、くるりと曲芸師のように飛び越え、彼は一瞬で汀に肉薄した。
そこでハッとした汀が手を伸ばし、彼の銃を持った手を横に払う。

「一発」

パンッ! と弾丸が明後日の方向に発射された。
彼は体を回して、汀の腹に蹴りを叩き込んだ。
小さく悲鳴をあげ、汀が地面に転がる。
弾倉を回し、彼は地面に倒れた汀の頭に向けて銃の引き金を引いた。

「二発、三発」

パンッ、パンッ!
連続して銃声が聞こえる。




329: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 22:08:41.21 ID:tKa1gWj60

汀はそれより一瞬早く地面を転がり避けると男の子に駆け寄り、殴りつけた。
彼はそれを軽くいなして、銃口を汀の頭に向けようとする。
何度か、その応酬が繰り広げられ、今度は汀が男の子の頭を殴りつけ、後ろ蹴りを彼の腹に叩き込んだ。
地面に叩きつけられた少年は、しかし笑いながら、弾倉を回して銃の引き金を引いた。

「四発」

パンッ! と音がして汀の頬を銃弾が掠める。
すかさず汀は男の子に馬乗りになり、腕を振り上げた。

「あれ……?」

そこで男の子は口を開いた。

「なぎさちゃん?」

呼びかけられ、振り下ろしかけていた汀の手が止まった。




330: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 22:09:10.89 ID:tKa1gWj60

男の子はその隙を見逃さず、逆に汀の体を抑えると、彼女を引き倒し、馬乗りになった。
そして弾倉を回し、彼女の眉間に銃を突きつける。

「こんなところで会えたなんてびっくりだけど、さよならだね。残念だよ」

汀が必死に動こうとしているのを、血涙を流しながら見下ろし、彼は裂けそうなほど口を開いて笑った。

「アディオス。また会おうね、なぎさちゃん」

カチッ。
撃鉄が虚しく虚空を叩く音が響いた。

「あれ?」

男の子はそう言って、ポカンとした。

「運がいいね……失敗か……」




331: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 22:11:15.75 ID:tKa1gWj60

そこで汀の手が動いた。
彼女は一瞬で男の子の銃を指で叩き、回転させると、今度は自分の指にはめた。
親指で弾倉を回転させ、そして引き金を引く。
銃声がして、男の子の眉間を弾が貫通した。
崩れ落ちた男の子を蹴り飛ばし、汀は荒く息をつきながら立ち上がった。
小白が駆け寄り、よろめいた彼女を支える。

「凄い……精神世界で、あれだけ動けるなんて……」

理緒が唖然として呟く。




332: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 22:11:47.51 ID:tKa1gWj60

そこで、ヘッドセットの電源がつき、圭介の声が響き渡った。

『汀! 無事か!』

汀はしばらく呆然としていたが、やがてうっすら涙が浮かんだ目を手で拭い、ヘッドセットを拾った。
そして何度か深呼吸をした後、口を開く。

「一番、五番、治療完了。目を覚ますよ……」




333: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 22:12:27.36 ID:tKa1gWj60



「あーあ、負けちゃった」

雑然とした部屋の中、マスク型ヘッドセットをむしりとり、少年……ナンバーXは悔しそうに口を開いた。

「なぎさちゃんが相手じゃなぁ。ま、今回は不意打ちだったし、他人の体だったし、仕方ないか」
「何一人で割り切ってるんだい」

タバコを口にくわえた、白衣を着た女医と思われる女性が、彼の頭をカルテで叩く。

「痛っ。何すんだよ」
「お前、また赤十字のサーバーに侵入してただろ。やめろっつぅのが分かんないのか」

男口調で喋って、女医は顔をしかめた。

「いい加減にしないと、本当にブチのめすよ」




334: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 22:17:14.77 ID:tKa1gWj60

「ごめんごめん。今回が最後だって」
「それ、前回も聞いた」

ナンバーXはベッドの上から起き上がると、女医に向かって手を広げた。

「それより聞いてよ。なぎさちゃんが生きてたんだ」
「なぎさ?」
「あぁ、ナンバー犬里海函
「何?」

女医が聞き返して、そして考え込む。

「まさか、そんな……でも、考えられない話じゃ……」
「元気そうだったよ。髪の毛は真っ白になってたけどね。はは、僕とおそろいだ!」

そう言って、彼はくるくるとその場を回った。

「綺麗になったなぁ、なぎさちゃん。あの頃と変わらないと思ってたけど、神様は面白いいたずらをするね!」




335: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 22:19:11.80 ID:tKa1gWj60

「いいか、よく聞けよ」

女医はナンバーXの頭を掴んで、自分の方に向かせた。

「お前をあそこから助けてやったのは、こうやって好き勝手暴れさせるためじゃない。私達の『理想』を実現するための駒として、お前を『使ってやろう』って考えの下、手間隙かけて助けてやったんだ。お前、何か勘違いしてるんじゃないだろうな」
「勘違いなんてしてないさ。感謝してる。してるよ」
「してるならそのニヤケ顔をやめろ」
「分かる?」

ため息をついて手を離し、女医は椅子に腰を下ろした。
そしてタバコの煙を吐き出し、灰皿に突っ込んで火をもみ消す。

「赤十字への警告は十分過ぎるほどやった。お前も、満足しただろ? これ以上やると逆探知される可能性が高い。一旦ジャックをやめて、居場所を変えるよ」
「またかよ」

小さく毒づいて、ナンバーXはニヤケながら鏡に映った自分を良く見つめた。




336: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 22:19:54.78 ID:tKa1gWj60

「ま、仕方ないか」
「我侭言うな。それにしてもお前……」

彼女はふと動きを止めて言った。

「どうやって次の患者が赤ん坊だってつきとめたのさ?」

ナンバーXはニヤリと、およそ少年とは思えないほど口を開いて、不気味に笑った。

「ま、世の中には親切な人が沢山いるってことで」

彼は大きくあくびをして、部屋の出口に向けて歩き出した。

「それだけのことだよ」




337: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 22:20:41.93 ID:tKa1gWj60



びっくりドンキーの店内で、汀はぼんやりとした表情のまま、チビチビとメリーゴーランドのパフェを口に運んでいた。
その前でステーキを切りながら、圭介が口を開く。

「どうした? 気分でも悪いのか?」
「うぅん。そうじゃなくて……」

汀は言いよどんでから、伺うように言った。

「圭介は、夢の中の自分と現実世界の自分の区別がつかなくなったりすることってある?」

問いかけられて、圭介は軽く笑った。

「ああ、しょっちゅうあるよ」




338: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 22:21:09.32 ID:tKa1gWj60

「そうなんだ。普通のことなんだね」

汀も微笑む。
圭介はステーキを咀嚼してから言った。

「どうした? 嫌な夢でも見たか?」
「嫌なわけじゃないけど……夢の中では、私はなぎさって呼ばれてるの。そういう夢、よく見るんだ」

圭介の手が止まった。

「夢の中では、私はみっちゃんとたーくん……いっくんと一緒に、遊んでるの」

圭介は小さく微笑んで、ステーキを食べる作業に戻った。

「ただの夢だよ」
「そう……なのかな……?」

自信がなさそうに呟いた汀の目にそこで近づいてくる人影が映った。




339: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 22:21:35.61 ID:tKa1gWj60

「こ……こんにちは」

どもりながら、頭を下げる女の子。
理緒だった。
病院服ではなく、今時の可愛い女の子の服を着ている。
汀はきょとんとして彼女を見た。

「どちらさまですか?」

聞かれて、理緒もきょとんとして、そして圭介を見た。

「あ、あの……先生に、ここに来ればお二人に会えるって聞いて……」
「チッ」

小さく舌打ちをして、しかし圭介はすぐに柔和な表情に戻ると、彼女を案内してきたオーナーを見た。
そして視線を理緒に戻し、言った。

「君は……片平さんと言ったかな」




340: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 22:22:13.29 ID:tKa1gWj60

「は、はい! 高畑先生に名前を覚えていただいて、光栄です!」

勢い良く頭を下げる理緒。
舌打ちには気づいていないようだった。
圭介は汀の隣に座るように促し、ポカンとしている汀に言った。

「お前、覚えてないだろうけど、この前の仕事で一緒だったんだ。片平……理緒ちゃんだ。赤十字の、A級スイーパーだよ」
「そうなんだ」

微笑む汀。
精神世界と違ってやつれきっている彼女を見て、理緒はしばらく躊躇した後、彼女の麻痺している左手を、両手で包んだ。

「はい! 命を助けてもらいました。私、どうしてもお礼が言いたくて」
「言ってくれれば、こっちから出向いたものを」
「そんな……こちらからご挨拶に伺うのが、礼儀というものですよ」




341: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 22:22:44.22 ID:tKa1gWj60

そう言いながら、理緒はかばんの中に入っていた包みを取り出して、圭介に差し出した。

「どうぞ。上野駅で買ってきました。たまごプリンです!」
「気を使わなくていいのに」
「私、プリン大好きだよ!」

そこで汀が声を上げる。

「本当?」

理緒は圭介にプリンを渡し、汀に向き直った。

「……ね、お友達になりませんか?」
「友達?」

きょとんとして汀が聞き返す。




342: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 22:23:14.01 ID:tKa1gWj60

「うん。これも何かの縁ですもの。これからも、一緒にお仕事するかもしれませんし」
「汀でいいよ。理緒ちゃん」

そう言って、汀は素直に、理緒に右手を差し出した。

理緒は一瞬ポカンとした後、すぐに笑顔になってその手を握り返した。

「はい、汀ちゃん!」

その様子を、苦そうに圭介が見ていた。
彼は近づいてきたオーナーに、メリーゴーランドのパフェをもう一つ注文してから、水を口に運んだ。
溶けた氷が、カランと音を立てた。




343: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/09(火) 22:25:08.01 ID:tKa1gWj60



第6話に続く



お疲れ様でした。
次話は明日、5/10に投稿予定です。
気長にお待ちくださいませ。
m(_ _)m




345: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:40:06.87 ID:ic+McGmT0



第6話 食肉マーケット



この幸せがずっと続くと思っていた。
何とはなしに、この楽しい時間がずっと続くと、ただそう思っていた。
たとえそれが、与えられて、何者かに造られた記憶であっても、それが真実だと思い込もうとしていた。

「いつか僕らは、離れ離れになるよ」

一面のクローバーの花が広がる平野で、円になって寝転んでいた少年の一人が口を開いた。
彼は手に沢山クローバーを持って、何かを作っている。

「どうしてそんな悲しいことを言うの?」

私は、彼にそう聞いた。




346: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:40:45.55 ID:ic+McGmT0

彼――いっくんは、淡々とそれに答えた。

「だって、ここは現実じゃないもん」
「ここが現実じゃないって、誰が決めたんだよ」

私の隣にいた少年――たーくんが、口を尖らせてそう言う。

「誰が決めたんじゃなくても、夢は夢さ。現実じゃない。現実は、もっとこう……ドロドロしててさ。もっと汚いところだろ?」

いっくんがそう言う。
そこで、たーくんの隣に寝転んでいたみっちゃんが口を開いた。

「そうだね。いっくんの言うとおりだと思うよ」
「みっちゃんはいっくんの肩ばっかり持つよな」

たーくんが呆れたように言う。




347: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:41:26.26 ID:ic+McGmT0

私達の髪の毛は、みんな同じ様に灰色になりかかっていた。
色素が抜けてきているのだ。
私は、一面のクローバーの香りを吸い込んで、そして呟いた。

「でも、ここが現実じゃなくても。私はここの方がいいな」
「どうして? 現実じゃないのに」

いっくんがそう言う。

「だって、みんながいるもん」

私がそう言うと、いっくんは小さく笑って、そして立ち上がり、手の中のものを、私の頭に被せた。
そしてみっちゃんの頭にも、同じように被せる。
それは、沢山のクローバーで編んだカチューシャだった。

「あ……ありがとう……」

みっちゃんの顔は真っ赤だ。




348: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:42:11.11 ID:ic+McGmT0

いっくんは、私達にも立つように促して、そしてしゃがんで一つ、クローバーを取った。
それを顔の前に持ってきて、くるくると回す。
四葉のクローバーだった。

「じゃあ、約束しようよ。もし僕達が離れ離れになったとしてもこの四つ葉のクローバーの葉を、一つずつ持って、ここに帰って来るって」

いっくんは、クローバーの葉をむしると、私達に一枚ずつ渡した。

「そして、また一緒に遊ぼう」

彼は、にっこりと笑って、続けた。

「約束だよ。忘れないでね。みっちゃん。たーくん……なぎさちゃん」




349: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:42:48.70 ID:ic+McGmT0



汀は目を覚ました。
体中、汗でドロドロだった。
荒く息をつきながら、ベッド脇の電灯をつけ、手の平を広げて見つめる。
そこには、夢の中のいっくんに渡された四葉のクローバーの欠片は、存在しなかった。

「夢……」

小さく呟いて、ため息をつく。
額の汗を拭って、脇に寝ている小さな猫、小白の頭を撫でる。
そして、彼女は水差しからコップに水を注いで、口に運んだ。




350: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:43:23.18 ID:ic+McGmT0



「今度の患者だ」

圭介がそう言って、薄い資料を汀の前に放る。

「また、赤十字との共同作戦になる。一応目を通しておいてくれ」

しかし汀に反応はなかった。
ぼんやりと資料を見つめ、口を半開きにして、うとうとしている。

「汀」

呼ばれて、彼女は、ハッとしてとろとろと圭介を見た。

「…………何?」
「クスリも飲んでないのに、寝るなよ。それに、これから出かける予定なんだ」
「どこに?」
「赤十字病院だ」
「……今日は行かない」

汀はプイと横を向くと、眠っている小白の方に頭を向けて、ベッドに横になってしまった。




351: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:44:06.68 ID:ic+McGmT0

「どうした? 具合が悪いのか?」
「うん」
「大河内も来るらしいが」
「行かない」

頑なにそう主張する汀に、圭介はため息をついた。

「……具体的にどこが悪いんだ? お腹か? 手が痛いのか?」
「頭が痛い」

弱弱しくそう呟いた汀の額に手を当て、圭介は顔をしかめた。
そして、汀の毛布を剥がし、彼女を仰向けに寝かせる。

「何だ……熱があるな。どうして起きた時俺に言わなかった?」
「…………眠い。寝ていい?」
「駄目だ、ちょっと我慢しろ」
「……うん……」




352: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:44:49.34 ID:ic+McGmT0

圭介はそう言うと、点滴を外し、汗で濡れた汀の服を、手馴れた動作で着替えさせ始めた。

「今日は、これじゃダイブは出来そうにもないな……」

小さく呟いた彼に

「出来ないよ……頭が動かない」

と言い、汀はおとなしくモゾモゾと圭介の差し出したキャミソールを被った。

「仕方ない。しばらく仕事はキャンセルだ。今クスリをもってくるから、おとなしくしてろ」
「うん……」

キャミソールを右手だけで着ながら、汀はまた横になった。
圭介がそこに毛布をかけてやる。
そして彼は体温計を彼女の口にくわえさせ、早足に部屋を出て行った。




353: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:45:19.89 ID:ic+McGmT0

――なぎさちゃん。

呼びかけた、夢の中の少年の顔が汀の頭にフラッシュバックする。

――約束だよ。

少年が笑う。

――僕と、君だけの約束。

汀は目を閉じ、苦しそうにその場に丸くなった。
頭がガンガンと、内側から金槌で叩かれているように痛い。

――僕らは、ずっと……。

凄まじい耳鳴りが彼女を襲った。

「来ないで!」

汀は、耳を塞いで叫んだ。




354: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:45:55.06 ID:ic+McGmT0

夢の中の少年は、しかし笑いながら、近づいてくる。
手を伸ばし、微笑む。

「こっち来ないで! やだ! やだぁ!」

首を振って怒鳴る。
男の子は、伸ばした手を開いた。
そこの上に乗っていたものは……。

「汀!」

圭介に耳元で怒鳴られ、汀はハッ、と目を開けた。
耳鳴りと強烈な頭痛は、いつの間にか消えていた。
代わりに、倦怠感と熱による頭の疼きが、じわじわとのぼってくる。
汀は荒く息をつきながら、目を剥いて圭介を見た。




355: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:46:59.92 ID:ic+McGmT0

「どうした? 寝るなと言っただろ。クスリを持ってきた。注射してやるから、もう少し我慢しろ」
「圭介」

汀はそう言って、右手で圭介の手を掴んだ。
痩せた彼女の手は、叩いただけで折れてしまいそうだった。

「私、最近おかしいよ。どうしていいか、分からないよ」
「出し抜けに何だ? ただの夏風邪だろ」
「なぎさって誰!」

そう叫んで、汀は圭介の手を強く引いた。

「誰なの? 私の頭の中に、私じゃない私がいる! 圭介、怖いよ。どうにかしてよ!」
「落ち着け。それは夢だと、前に言っただろ。それ以上でもそれ以下でもない」




356: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:47:31.56 ID:ic+McGmT0

「でも……でも!」
「なぎさなんて人間はいない。お前は汀だ」

圭介はそう言うと、汀の手を握り、落ちている体温計を拾った。

「汀。大事なのは、お前が誰かを助けたいと思う気持ちだ。違うか?」

冷静にそう言われ、汀は答えた。

「何を言ってるのか分からないよ! 話をすり替えないで!」
「すり替えてなんていないさ。はっきり言おう。お前、クスリの投与と、複数の患者へのダイブの影響で、記憶が混濁してるんだ。多分、それはお前が頭の中で勝手に作った幻想だ」
「幻想? 違うよ! だって、私、こんなにはっきりと……」
「幻想だ」

もう一度繰り返し、圭介ははっきりと汀の顔を見た。




357: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:48:17.69 ID:ic+McGmT0

「俺の言うことが信用できないのか?」

問いかけられて、汀は一瞬押し黙った。

そして下を向いて、小さく呟く。

「でも……」
「でも、じゃない。俺が幻想だと言ったら、それは幻想なんだ。現実じゃない。第一、お前は俺の親戚だと、前に言っただろう。お前は産まれた時から、高畑汀だ」
「じゃあ、じゃあ圭介はどうして、私のお父さんとお母さんの話をしないの? どうして?」

汀に食い下がられて、圭介は苦そうな顔をした。
そして彼女の腕に点滴の針を刺しながら、息をつく。

「前にも言っただろう。お前の親は、お前に話すに値しないって」
「意味が分からないよ! はっきり言って!」




358: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:48:58.54 ID:ic+McGmT0

「何を興奮してるんだ」
「もういい! 圭介の馬鹿!」

怒鳴って、汀は点滴を刺そうとしている圭介の手を振り払い、腕に刺さっていた別の点滴を、乱暴にむしりとった。

「出てって! ここから出てって!」

悲鳴のように絶叫して、手元にあったテディベアの人形などを圭介に投げつける。
圭介は呆れたようにそれを体に受けていたが、枕が顔に当たり、メガネが床に落ちたところで、足を踏み出した。
汀は涙でぐしゃぐしゃの顔で圭介を見ていたが、彼が形容しがたい、どこか辛そうな顔をしているのを見て動きを止めた。

「分かった。出て行くよ」

圭介はそう言うと、汀の脇にしゃがみこんで、また点滴を腕に刺した。




359: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:50:09.26 ID:ic+McGmT0

そしてメガネを拾い上げる。
彼は、黙ってそっぽを向いている汀に構わず、ポケットから出した金色の液体が入った注射器を、点滴の注入口に差し込んで、中身を流し込んだ。

「これを飲め。置いておくからな」

そう言って、圭介は大きな錠剤を何粒かベッド脇に置いて、白衣のポケットに手を突っ込んで部屋を出て行った。
汀はしばらく荒く息をついていたが、やがて圭介が置いていった薬を掴んで、無言でドアに向かって投げつけた。
彼女の剣幕に恐れをなしたのか、小白がケージの方まで避難して目を丸くしている。
汀は手で涙を拭うと、緩慢とした動作でベッドに横になった。




360: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:50:57.09 ID:ic+McGmT0



『やってくれたな……完全にうちの姫は反抗期だ』

携帯電話の向こうから、圭介の苦い声を聞いて、大河内は椅子をキィ、と鳴らして少し回転させると、含みを込めて笑った。

「はは、私が何をしたと言うんだ?」
『とぼけるなよ、外道が』
「言いがかりはよしてもらおう。だが高畑、これで良く分かっただろう」

大河内は自分の医務室の中を見回して、息を吐いた。

「人間の記憶を完全に消すと言うのは無理だ。そんな鬼畜の所業は、技が認めても神は認めんさ」
『生憎と俺は無神論者でね』




361: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:51:42.25 ID:ic+McGmT0

「気が合わんな。今度お前と、カトリックとプロテスタントの合判性について、議論をしたいと思っていたところなんだが」
『御免こうむる』
「つれんな」

大河内は喋りながら、目の前に座っている人物を見た。
病院内だというのに、タバコの煙をくゆらせている彼……男性は、メガネの奥の瞳をやけに光らせながら、大河内を凝視していた。
表情は変わらない。
無表情のままだ。

『重ねて言うが、外道と取引をするつもりはない。汀は俺のものだ』
「どうかな」

大河内は、柔和な表情で、電話の向こうに対してにぃ、と笑った。

「いずれ汀ちゃんは取り戻す。必ずだ」




362: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:52:32.17 ID:ic+McGmT0

『強気だな』
「お前にどんなスポンサーがいるのか分からんが、私にもそれは同様でね」
『へぇ、興味はないが』

そう言って、圭介は一拍置いた。
そして低い声で続ける。

『これ以上汀を刺激するなら、こちらにも考えがある』
「……脅しか?」
『それ以外の何かに聞こえたなら、きっとそれなんだろう』

電話の向こうで醜悪に笑い、彼は続けた。

『世の中には、親切な人が沢山いるからな』

プツリ、と音がして電話が切れた。
今までの会話は、全てフリーハンドで周囲にも聞こえるように流されていたのだった。




363: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:53:07.85 ID:ic+McGmT0

携帯電話をポケットにしまった大河内に、タバコの煙を吐き出した男性が口を開いた。

「……その様子だと、まだ、のようだな」
「…………」

無言を返した大河内に、男は続けた。

「大河内君。『機関』としても、これ以上の干渉は望ましくない、と考えている」
「承知しております」

頷いた大河内を見て、男はタバコを灰皿に押し付け、火を消してから立ち上がった。

「ナンバーズの回収を急ぎたまえ。君の将来と、現在と、過去のためにもな」

言い捨てて、男はかばんを持ち、ハットを被ってから一言付け加えた。




364: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:53:34.88 ID:ic+McGmT0

「あぁそれと、その高畑とかいう男」
「…………」
「やはり、正規の医師ではない。元老院が庇っているので、詳しい調査は続行できなかった……が、それだけは伝えておこう」

男が、早足で医務室を出て行く。
大河内は換気扇のスイッチを入れて回すと冷蔵庫からコーヒーの缶を取り出して、プルトップを空けた。

「知ってるよ……」

その呟きは、換気扇の音にまぎれて消えた。




365: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:54:18.67 ID:ic+McGmT0



汀の体調が回復したのは、それから一週間経ってのことだった。
しかし、いまだ微熱が続いている。
圭介は自分と話そうとしない汀の車椅子を押して、赤十字病院の廊下を歩いていた。
汀は、意識が朦朧としているのに加え、質問をのらりくらりとかわそうとする圭介に、苛立ちを覚えていた。
いや、何より苛立ちを覚えていたのは、意味不明な夢を繰り返し見てしまう自分自身についてのことだった。
その不安と憤りが、一番身近にいる圭介に当たっているだけなのだ。
ここまで連れてくるのにも一苦労した圭介は、大汗をかきながら会議室に足を踏み入れた。
中には子供一人しかいない。
そこで汀は、椅子に座って折り紙を折っていた女の子に目を留めた。

「理緒ちゃん……?」

自信がなさそうにそう呼びかけると、女の子は汀を見て、パァ、と顔を明るくした。




366: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:54:49.66 ID:ic+McGmT0

赤十字のA級マインドスイーパー、片平理緒だった。
彼女が立ち上がって、足早に近づく。

「汀ちゃん、大丈夫? 私、お見舞いに行ったんですよ。でも、汀ちゃん、その時寝てて……」
「うん、大丈夫……」
「熱、まだあるの?」
「うん……」

力なく頷いた汀の車椅子を、圭介は理緒に渡した。

「頼む。俺は行くところがある。君がケアしてくれ」
「は……はい! 分かりました!」

元気に頷いた理緒の頭を撫で、圭介は汀に一言かけようと口を開いた。
だが、汀が自分の方を向こうともしていないのを見て、口をつぐんで、会議室を出て行く。




367: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:55:19.62 ID:ic+McGmT0

「……どうかされたのかしら? 高畑先生」

理緒が不思議そうにそう呟くと、汀はぼんやりとした視線のまま口を開いた。

「知らないよ、圭介なんて」
「喧嘩中ですか?」
「…………」
「そ、そうだ。私、汀ちゃんみたいにいろいろ持ってないけど、折り紙得意なんです。いろいろ折ったから、見てください!」

話題を変えた理緒に、汀は表情を僅かに明るくして答えた。

「うん……」




368: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:56:08.14 ID:ic+McGmT0



「元老院の要請で参りました、高畑と申します」

圭介がそう言って、薄暗い部屋の中、円卓状になっている会議スペースの一角で椅子に座っている状態で頭を下げる。

「随分と遅かったではないか。予定を一週間も繰り越して、どういうつもりだ?」

赤十字の医師の一人にそう言われ、圭介は柔和な表情のまま、それに返した。

「別に、あなた方の道理に私が合わせるといった道理もないまででして」
「何を……!」

他の医師たちも眉をひそめる。




369: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:56:38.57 ID:ic+McGmT0

そこで、圭介と対角側に座っていた大河内が口を開いた。

「……時間が惜しい。打ち合わせを続けましょう。今回のダイブには、英国のメディアもかなり注目しています。一刻も早く結果が欲しい」
「それは、そうだが……」

医師の一人が口ごもる。
大河内はそれを打ち消すように続けた。

「今回の患者について、説明します。資料をご覧ください」

圭介が、興味なさそうに目の前に置かれた厚い資料をめくる。

「患者の名前は、エドワード・フレン・チャールズ。三十五歳。英国の王位第十五継承権を持つ、皇族の人間です」

医師達が、口をつぐんで大河内を見る。




370: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:57:12.37 ID:ic+McGmT0

「現在自壊型自殺病の第二段階を発症。それに加え、防衛型自殺病の第一段階を併発しています。英国の医療機関では治療が困難と判断され、一週間前、赤十字病院に搬送されてきました」

大河内は、周りを見回して続けた。

「二つの自殺病の併発に加え、英国では、自殺病の『完治』が望まれています。元老院は以上の点を鑑みて、今回、高畑医師との共同ダイブを要請されました」
「現在の患者の状況は?」

圭介がそう聞くと、周囲から鋭い視線が飛んだ。
それを無視して資料に視線を落とした圭介に、大河内は事務的に答えた。

「防衛型自殺病、第二段階症状前期兆候の確認がなされています」




371: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:57:52.35 ID:ic+McGmT0

「防衛型と自壊型の併発……」

そう呟いて、圭介は口の端を小さくゆがめた。

「……DID※か」 ※解離性同一性障害=多重人格のこと
「……ええ。古い言い回しになりますが、分析によると二重人格の症状が見受けられているようです」

大河内がそう言って、資料を見る。

「今回の施術には、赤十字のマインドスイーパー、片平理緒を同席させることにしました。個人的にも、高畑医師と親交が深く、連携が取れると判断してのことです」

そして大河内は資料をめくった。

「それでは、詳細なダイブの予定についてご説明します。十五ページをご覧ください」




372: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:58:31.32 ID:ic+McGmT0



施術室に汀と理緒が入ったのは、それから二時間程してのことだった。
汀は眠そうに、コクリコクリと頭を揺らしている。
その車椅子を押しながら部屋に入ってきて、理緒は困った顔で圭介を見上げた。

「駄目です……私が呼びかけても、返事をしてくれなくなりました」

圭介は理緒から車椅子を受け取り、汀の隣にしゃがんで、額に手を当てた。
その様子を、大河内と医師たちが心配そうな顔で見ている。
圭介はしばらく汀を触診していたが、やがて立ち上がって言った。

「ダイブ可能です。施術を開始しましょう」

汀の膝の上の小白がニャーと鳴く。
大河内が眉をひそめて近づいて囁く。

「どう見ても意識混濁状態のように見えるが」




373: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:58:59.93 ID:ic+McGmT0

「やれるさ。これ以上は待てない」

圭介は断固とした口調でそう言うと、汀の車椅子を、ベッドに縛り付けられている患者の脇に持っていって固定した。
理緒も、隣のベッドに横になる。

「今回の施術では、俺が二人のナビゲートを同時に行う。理緒ちゃんは、それでいいな?」




374: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 20:59:34.39 ID:ic+McGmT0

問いかけられて、理緒は頷いた。

「はい……でも、汀ちゃんが……」
「夢の中での運動性が落ちているかもしれないが、君がサポートしてやってくれ。トラウマが現れたら、こいつらに任せて君は中枢の治療に専念しろ」
「……わかりました」

理緒の頭を撫で、圭介は反応がなく、よだれをたらしている汀の耳にヘッドセットをつけ、無理やりにマスク型ヘッドホンを被せた。




375: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:00:24.89 ID:ic+McGmT0



汀が目を覚ました時、そこは沢山のスーツ姿の人が歩いている、巨大な交差点の真ん中だった。
スーツ姿の人々の顔には、モザイクのような紋様が浮いており、顔は見えなくなっている。
彼女は熱に浮かされた顔をしながら、それをぼんやりと見回した。
足元でニャーと鳴いた小白を抱き上げて肩に乗せ、汀はヘッドセットのスイッチを入れてふらついた。
そしてゆっくりとその場にしりもちをつく。

「あれ……」
『汀、聞こえるか?』
「…………」

マイクの向こうからの圭介の声に答えず、汀は苦い顔で周囲を見回した。




376: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:00:56.83 ID:ic+McGmT0

交差点のど真ん中でしゃがみこんでいる少女を気にかける人など、誰もいない。
皆、背筋をピンと伸ばし、話もせずにどこかへ歩き去っていく。
その光景が、ビル群を縫って、どこまでも続いていた。

「……やりたくないって言ったのに」

小さく毒づいた彼女に、圭介は淡々と答えた。

『贅沢を言うな。マインドスイーパーの資格があるんなら、仕事をしろ』
「現実の私の体調、最悪みたいだね。体が殆ど動かないよ」
『…………何とかしろ』
「それでどうにかなるなら、お医者はいらないんじゃない?」

冷たくそう返し、汀はゆっくりと立ち上がった。




377: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:01:29.27 ID:ic+McGmT0

体が、まるで水の中にいるかのようにもったりとしか動かない。
その様子を心配そうに小白が見ていた。
そこで汀は、人々を掻き分けてこちらに近づいてきた理緒を見た。

「汀ちゃん! 大丈夫?」

息を切らしている理緒がそう問いかける。
汀は息をついて彼女の手を握ると、頷いた。

「うん。現実の私の体が、あんまり良くないから、頭が働かないみたい。体が良く動かないから、サポートしてくれない?」
「はい! 分かりました!」

元気に理緒が頷く。




378: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:02:04.24 ID:ic+McGmT0

『その患者はDIDだ。二重人格だと推定される。つまり、精神世界の分裂が考えられる』

圭介が淡々と口を挟んだ。

『そして今回のダイブは、患者の「完治」が最大の目的だ。そのために理緒ちゃんを一緒にダイブさせた。精神中核をみつけて、ウイルスを除去してくれ』
「はい!」
「DID……こんな時に最悪」

汀がため息をつく。

「後日にすることは出来ないの?」
『無理だ。患者の精神分裂が進んでいる。これ以上放置すると、治療が不可能になる。中核が一つのうちに、何とかするんだ。そこはどこだ?』




379: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:02:44.29 ID:ic+McGmT0

汀が周囲を見回して、やはり苦そうに答える。

「無限回廊の中の一箇所だと思う。煉獄に繋がる道が見えないから、表層心理壁だね」
「汀ちゃん、見ただけで分かるの?」

驚愕の表情で理緒が聞く。
汀は頷いて、答えた。

「私、普通とちょっと違うから」
『…………』

圭介は少し沈黙してから言った。

「お前の体調が思わしくないから、時間は最大限伸ばして、十五分に設定する」
「無理だよ」
『それでもやるんだ。お前の使命を思い出せ』




380: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:03:17.25 ID:ic+McGmT0

汀は少し押し黙った後、足を引きずって歩き出した。

「……分かった」
「トラウマは……見られませんね」

理緒がそう呟く。

「だってここは、防衛型心理壁だもん」
「防衛型?」

きょとんとした理緒に、彼女に支えられながら歩きつつ、汀は息を切らしながら言った。

「いろいろ自殺病にはタイプがあるの。その中でも、防衛型は、意地でも精神中核に続く道を隠そうとするわ」
「そうなんですか……じゃあ、どうすれば……」
「こうするの」




381: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:04:03.96 ID:ic+McGmT0

汀は理緒から手を離すと、手近な男性と思われるスーツ姿の男の顔面を、思い切り殴りつけた。
もんどりうって倒れ、地面に叩きつけられてゴロゴロと転がる男。
唖然としている理緒の前で、汀は倒れた男に近づくと、無造作にその頭を踏み潰した。

「ギャ」

小さな叫び声が聞こえて、辺りに脳漿と、血液と、わけの分からない液体が飛び散る。

「汀ちゃん! それ、この人の記憶片だよ!」
「いいんだよ。ほら」

はぁはぁと息をつきながら返り血で血まみれになった汀は周りを見回した。
おびただしい数の、顔の見えない人々の動きが止まっていた。
そして、それぞれがぐるりと、汀と理緒に向き直る。




382: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:04:37.42 ID:ic+McGmT0

「ひっ……」

体を硬くした理緒の前で、人々は懐から、全て同じタイプの拳銃を取り出すと、コッキングして弾を充填した。
そしてザッ、と同じ動作で二人に拳銃を向ける。

「トラウマが出てこないんなら、トラウマの発生を誘発すればいいだけの話」
「そんな……ど、どうすればいいんですか!」
「こうする」

汀は手近な一人に一瞬で肉薄すると、腕を叩いてその拳銃を奪い取った。
そして、自分を狙っている近くの男女の頭部に、立て続けに発射する。
正確に銃弾は頭を抜けると、血液脳漿を飛び散らせながら、明後日の方向に飛んでいく。
汀に向けて、そこで大勢の人々が拳銃を発砲した。
小白が風船のように膨らみ、汀と理緒を覆い隠す。




383: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:05:17.50 ID:ic+McGmT0

実に二十秒ほども続いた銃撃が止み、硝煙の煙と、反響する銃声が止んだ頃、小白が体を振った。
バラバラと銃弾が地面に落ちる。
小白の体には傷一つついていない。

「あ……ああ……あ……」

ガクガクと震えて小さくなっている理緒を尻目に、小白の体の下から這い出ると、汀は言った。

「防衛型は、こういうときにすぐ逃げようとするから、見つけるのが簡単ね」

同じ動作で銃の弾倉を交換し、コッキングした人々の右後方、そこに、同じような顔が隠れている男が、人々の波を掻き分けながら逃げようとしているのが、遠目に見えた。




384: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:05:44.60 ID:ic+McGmT0

「欧米社会は銃を持ってるから嫌い」

そう言って、汀は逃げる男の頭めがけて拳銃の引き金を引いた。
パンッ! と血液が飛び散る。
ゆっくりと男が倒れる。
そこで、空間それ自体がぐんにゃりと歪んだ。
顔がない男女の姿が、徐々に消えていく。
空がいきなり夜になり、ビル群も消えていく。

「ここから転調みたいだね」

汀が息を切らしながら、しかし楽しそうに言う。
小白からプシューッ、と音を立てて空気が抜ける。
小さな猫に戻った小白を抱き上げる汀。
そこで、彼女達の意識はホワイトアウトした。




385: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:06:32.87 ID:ic+McGmT0



彼女達が次に目を覚ましたのは、肉と獣の臭いと、血の据えた臭いが交じり合った、不快な空気の滞った場所だった。

「何……ここ……」

平気そうな汀とは対照的に、理緒が鼻をつまんで顔をしかめる。
そこは、沢山のテントが並んでいる場所だった。
丸太のテーブルに、丸太の椅子。
そして、テントそれぞれには、血まみれのエプロンを羽織った、顔がモザイクで隠れた男性達がそれぞれ肉切り包丁を持って、『作業』をしていた。
少し離れた場所に、サーカスのテントのような場所が見える。
先ほどと同じように、スーツ姿の男が入り混じって歩き回っている。
しかし先ほどと違ったのは、幾人かがテント前のテーブルに座り、何かを、犬のようにがっついて食べていることだった。




386: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:07:01.66 ID:ic+McGmT0

「何かしら……」

理緒が鼻をつまみながら、近くのテントを覗き込み――。

「ひっ」

と小さな悲鳴を上げて、危うく卒倒しそうになった。
それを支えて、汀が笑顔で彼女のことを覗き込み、手を握る。

「どしたの?」

聞かれて、理緒は震える手でテントの中を指した。

「だ……だって……だって、あれ……」
「ん」

小さく相槌を打って、汀は軽く笑った。

「あれが、どうかした?」




387: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:07:35.21 ID:ic+McGmT0

理緒が震えながら指差した先。
そこには、天井から伸びた大きな鈎針で吊るし切りをされている、生物だったモノがあった。
否。
女性の、体だった。
頭部は舌を伸ばし、鼻や口から血を流し、目玉をひん剥いた状態で脇に投げ捨ててある。
首にあたる部分に鈎針が刺さっていて、時折肉切り包丁を持った男が、女の体を切り裂いて、『肉』を取り出しているのが見える。
良く見ると、テーブルに座って『肉』を貪り食っているのは、男の外見をした人だけだった。
女性はいない。
歩いている人の中にも、女性は見受けられなかった。

「汀ちゃん……!」

引きつった声を上げて、理緒が汀にしがみつく。
汀はそれを怪訝そうに見ると、息を切らし、熱で顔を赤くしながら、その場に手を広げてくるくると回って見せた。




388: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:08:03.41 ID:ic+McGmT0

「どうしたの? 面白いじゃない。こんなに狂ってなきゃ、楽しめないよ」
「楽しむ? 何を楽しむっていうんですか!」

ヒステリックに問い返した理緒に、汀は近くのテントを覗き込んで、面白そうに笑い、答えた。

「全部だよ。ほら、しっかりして。行こ」

手を引かれて理緒が、ふらつきながら狂宴の中を歩き出す。

まだ生きている女性もいるらしく、所々で、絞め殺す断末魔の声が聞こえる。
その度に耳を塞ごうとする理緒を、汀は不思議そうに見ていた。

「折角だから入ってみよ」

サーカステントの前について、汀は、係員と思われる男性を見上げた。




389: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:08:51.16 ID:ic+McGmT0

『汀、状況を説明しろ』

そこで圭介の声に邪魔され、彼女は頬を膨らませた。

「今、いいところなの」
『端的でいい』
「中核に近い心理壁の中に入り込んだよ。おそらく、この人の主人格だね。自壊型の特徴が見れる。前後左右トラウマだらけだよ! 以上報告終わり!」
『……残り十分だ。慎重に行け』
「主人格……これが……?」

理緒が、そこで震える声を発した。

「高畑先生、こんなのおかしいです! どうしてレベル2の人の心の中が、こんなに濁ってるんですか!」




390: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:09:29.88 ID:ic+McGmT0

悲鳴のような声を発した理緒に、汀は息をついて答えた。

「そっか。理緒ちゃんはDIDの人の心の中にダイブするのは、初めてのことなんだ」
「そうですけれど……」
『……DID患者は、既に何らかの強い心的外傷を受けて、精神分裂を起こしている。つまり、冒された主人格の方は、「もう既に崩壊している」状態なんだ。人の心は不思議なもので、そんな状態になったら、正常な人格をつくり、「自己」を保とうとする』

圭介はそう説明し、何でもないことのように言った。

『一般的なDID患者の主人格、その崩壊レベルを自殺病に換算すると、レベル7に相当する』
「な……っ!」

唖然と硬直した理緒の手を引いて、汀は受付の男に言った。




391: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:10:01.95 ID:ic+McGmT0

「Two Children and a cat, please!」

汀の肩の上で、小白がニャーと鳴いた。
顔にモザイクがかかった、ピエロ風の男は、チン、チン、チンと切符を切ると、それを汀に手渡した。
インクではなく、血液で「999」とプリントされている。

「これは……」
「持ってた方が良さそうだよ。悪魔の数字、欧米では『666』って言われてるけど、夢の世界では、それが反転して逆になるの」
「私、そんなこと知らない……マインドスイーパーの学校では、そんなこと教えてもらわなかったです。汀ちゃん、どうして……」
「早く。始まっちゃうよ」
「始まるって、何が……」
「ショーだよ」

目をキラキラさせながら、汀はそう言った。

「この人の心の中で、一番狂ってて、一番面白いショーが始まるんだよ!」




392: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:10:51.34 ID:ic+McGmT0



緊張のあまり過呼吸のようになりながら歩く理緒の手を引いて、汀は最前列に腰を下ろした。
周りには、手にフライドチキンのようなモノを持った、顔にモザイクがかかった男達が、ワーワーと意地汚い野次を飛ばしながら銀幕に向かって騒いでいる。

「やだ……怖い……怖い……」

震えている理緒の肩を叩き、汀は売り子の男が差し出してきたフライドチキンのようなモノを二つとって、彼女に差し出した。

「うん、味は悪くないよ」
「何食べてるの!」

悲鳴を上げる理緒。
汀はフライドチキンを頬張りながら、銀幕に向かって声を上げた。

「時間がないの! 早く始めてくれる?」




393: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:11:18.29 ID:ic+McGmT0

「汀ちゃん、こんなのおかしいよ。一度戻った方が……」

理緒の制止を無視して、汀はもう一つのフライドチキンを、銀幕に投げつけた。
薄い膜がバリンと破れ、次いで、陽気なオクラホマミキサーの曲とともに顔にモザイクがかかったピエロ達が出てきて、全くテンポのずれた踊りを踊り始める。

「あはは! きゃははははは!」

面白くもなんともない光景。
全員が全員バラバラの、意味のない踊り。
しかし汀は心底楽しそうだった。
呆然としている理緒の前で、ピエロたちが引っ込み、ドラムの音と共に、銀幕が上がった。
周りの男達の歓声が大きくなる。
ドラムの音とともに引っ立てられて、鎖を引きずりながら、次々と全裸の女性達が舞台上に現れる。




394: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:11:47.78 ID:ic+McGmT0

彼女達はオクラホマミキサーの陽気な曲と共に悲鳴や絶叫を上げながら、処刑人の服を着た男達に、一列に並べられた。
タン、タン、タン、と曲が終わる。
次の瞬間、客席の男達が立ち上がって、手に持った拳銃で、一斉に女性達を撃った。
理緒が絶叫して耳を押さえ、丸くなる。
汀は対照的に、目を輝かせて手を叩いて喜んでいた。
恐る恐る目を開けた理緒の視界に飛び込んできたのは、動かなくなった女性達だったモノと、飛び散った血液、体液だったもの、内臓だったモノ、良く分からない液体でべしょべしょになったぐちょぐちょの舞台だった。

「いやぁあああああ!」

理緒が悲鳴を上げる。

それを皮切りにして、またオクラホマミキサーの曲が流れ、ピエロたちが出てきてテンポ外れの踊りを踊り始めた。




395: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:12:32.51 ID:ic+McGmT0

彼らは、動かなくなった女性だったモノの一つを持ち上げた。
客席の男の一人が、声を上げる。
続けて沢山の男達が、値段を示す単語を口走る。
最後に手を上げた男のところに、ピエロ達は死骸を放った。
まだ生暖かいそれが、理緒の目の前にびちゃりと着地する。
四肢が無残に嫌な方向に曲がった女性の死体。
苦悶の表様に、怒り、憎しみ、全ての負の感情を込めた、醜悪な表情をしたそれの髪の毛を掴み、落札した男が、ずるずると「ソレ」を引きずりながら外に歩いていく。
またオクラホマミキサーの曲が終わり、女性達がぐちょぐちょの舞台の上に引きずり出される。
中には反抗する女性もいたが、問答無用で処刑人の持つ斧に頭をカチ割られて動かぬ人形と成り果てていた。




396: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:13:03.14 ID:ic+McGmT0

「嫌、こんなの嫌……嫌だ……嫌……」

癲癇の発作のように震えながら呟く理緒の脇で、ヒートアップした汀が騒いでいる。

「私にも銃! 銃頂戴! 銃!」

売り子から拳銃をむしりとり、女性の一人に狙いをつける汀。

「何してるの!」

理緒が悲鳴を上げて彼女を客席から引き摺り下ろす。
熱で真っ赤な顔をしている汀が、怪訝そうに彼女に聞く。

「どうしたの? お腹痛いの?」
「私がどうしたのって聞きたいです! 汀ちゃん、おかしいよ!」
「何が?」
「だ、だって殺されてるよ! 女の人が、銃で……きゃあああ!」

また舞台の上が銃撃され、女性達が崩れ落ちる。




397: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:13:38.44 ID:ic+McGmT0

ピエロ達が、今度はバラバラなコサックダンスをしながら、
死体を掴み上げる。
無残な落札が始まった。

「ちぇ、撃てなかった」

不満そうにそう言って、汀は頬を膨らませた。

「折角のDIDなのに、何が不満なの?」
「全部だよ! 汀ちゃん、早く中枢を探そ? 頭がおかしくなるよ!」
「おかしくなんてならないよ」

ニッコリと笑って、汀は言った。

「これ以上おかしくなったら、みんな困るもん」




398: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:14:24.43 ID:ic+McGmT0

絶句した理緒と、汀の耳に圭介の声が聞こえてきた。

『時間が差し迫ってる。早めに手を打て』
「手を打てって言われてもなぁ……」

汀はそこで始めて、困ったように周りを見回した。

「この人、過去に女性に酷い目に遭ってるね。多分母親だ」
『患者の過去は検索しないのが礼儀だ』
「知ってるよ」
『理緒ちゃんがお前についていけないそうだ。早く中枢を探せ』
「ついてけないって……何で?」
『いいから探せ』
「命令されるのは好きじゃない」
「汀ちゃん……お願い、本当に早く……」

動悸が治まらないらしく、理緒が胸を押さえながら言う。




399: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:14:56.45 ID:ic+McGmT0

その様子を呆れたように見て、汀は一言、呟くように言った。

「理緒ちゃん、マインドスイープするの何回目?」
「……私、今まで小さい子にしかマインドスープしたことなかったから……それに、こんな、世界全体がトラウマなんて、見たことも聞いたことも……」
「世の中にはもっとドロドロでグチャグチャなところもあるんだよ?」

首をかしげて、汀は銃を舞台の上に向けた。

「それに比べれば、これくらい」

パンッ、と彼女は躊躇なく引き金を引いた。
壇上の女性の一人が頭を撃ち抜かれ、白目を剥いて倒れる。

「どうってことないじゃない」
『汀、あと三分だ。カウントダウンを始めるぞ』

圭介の声を聞いて、汀はチッと舌打ちをした。




400: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:15:33.07 ID:ic+McGmT0

そこで売り子が近づいてきて、汀の前にしゃがむ。
小白の分までチケットを切って、売り子は理緒の前に屈んだ。

「理緒ちゃん、チケット」

そう言われ、理緒は悲鳴をあげた時にどこかに落としてしまったことに気がつき、青くなった。

「え……わ、私……」

次の瞬間、理緒の首に巨大な鉄枷が嵌められた。

「理緒ちゃん!」

汀が慌てて近づこうとするが、よろけて倒れてしまう。
舞台に引きずり上げられ、理緒は泣き喚いて首枷を外そうと抵抗していた。
やがて、首枷から伸びている鎖が、台に設置されて巻き上げられる。




401: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:16:12.01 ID:ic+McGmT0

それに、首吊り自殺のような形で吊り上げられ、理緒はオクラホマミキサーの曲の中、必死に体をばたつかせていた。

『どうした!』

圭介の声に、汀が青くなって返す。

「理緒ちゃんがトラウマに捕まっちゃった!」
『いつまでも遊んでるからだ。汀、時間がない。GDM―Tを注射するぞ。理緒ちゃんは無傷で助けろ』
「分かった!」

汀は緩慢とした動作で、舞台に向かって走り出した。
観客席の男達が、銃を構える。
オクラホマミキサーの曲が聞こえる。
ピエロ達が踊っている。




402: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:16:48.01 ID:ic+McGmT0

そこで、汀の体が消えた。
否。
地面を、床が砕けるほど強く蹴って、まるで弾丸のように理緒に向けて飛び上がったのだった。
残像を残しながら、およそ人間とは思えないほど速く汀は理緒に到達すると、近くの処刑人を殴り飛ばし、目にも留まらない勢いで斧を奪い、鎖を断ち切った。
理緒が地面に崩れ落ち咳をする前に、彼女は息を切らしながら彼女を抱き上げ、舞台裏に転がった。
銃撃が聞こえた。

「ゲホッ、ゲホ、ゲホッ!」

理緒が激しくえづく。
涙目で震えている彼女の脇で、汀は体を震わせると、盛大にその場に吐血した。

「みぎわ……ちゃん……」

首の鉄枷を外し、汀に這って近づく理緒。




403: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:17:17.45 ID:ic+McGmT0

汀は、真っ赤に充血した目で、彼女を見て、その肩を掴んだ。

『効果時間は十一秒か。良くやった』

圭介の声が聞こえる。

「そこ……」

汀が指をさす。
そこには、オクラホマミキサーを流していると思われる、古びたレコード機があった。

「壊して……早く……!」




404: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:17:53.49 ID:ic+McGmT0

タン、タン、タン。
と音楽が終わった。
顔を上げた理緒の背筋が、ゾッと寒くなった。
舞台に、男達が全員上がり、銃をこちらに向けていたのだ。
小白がシャーッ! と鳴いて威嚇する。
理緒は無我夢中でレコード機に駆け寄ると、それを引き倒し、レコードを床にたたきつけた。
そこで、彼女達の意識はホワイトアウトした。




405: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:18:30.44 ID:ic+McGmT0



汀は、理緒に支えられ、真っ白な空間に立っていた。
そこには、砂画面が映っている小さなブラウン管型テレビが一台、置いてあるだけだった。
周りには何もない。
どこまでも、何もなかった。

「寂しかったんだって」

汀は、荒く息を吐きながら呟いた。

「寂しいってことは、一番残酷なことなんだよ……」

彼女はそう言って、血痰を吐いてから、その場に崩れ落ちた。

「汀ちゃん!」




406: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:19:36.83 ID:ic+McGmT0

「早く……治療して……」

彼女に背中を押され、理緒はブラウン管型テレビの前に立った。
そして震えながら、そのダイヤルに手を伸ばし、回す。
慎重に回していくと、プツッ、という音がして青空が映し出された。

「怖くない……怖くないよ……」

自分に言い聞かせるようにそう言い、理緒はテレビ画面の中に手を突っ込んだ。
画面が水面のように揺らめき、手を飲み込む。
しばらくして、彼女は両手で持ちきれないほどの、黒いミミズを抱えて、画面から引きずり出し、嫌悪感で顔を真っ青にさせながら、それらを地面に叩き付けた。
プツッ、という音がして、テレビの砂画面が消え、真っ白になる。
汀はゴロリ、と地面に倒れると、ヘッドセットに手を伸ばし、言った。

「治療完了……二人とも、目を覚ますよ」




407: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:20:16.81 ID:ic+McGmT0



圭介は、朝、誰もいない診察室の中で、硬い表情で資料を眺めていた。
そこには、以前汀がダイブ中、助けたことがある少女の顔写真があった。
灰色の髪の写真と、赤茶けた髪の写真。
そこには、「加原岬」と書かれている。
圭介は携帯電話を取り出すと、どこへかコールして、口を開いた。

「…………やられたな。まさか、マインドスイーパーの意識を弄ってくるとは思わなかった」
『やっとそれに気づいたのかい。遅すぎるね。だから先手を取られるんだ』

電話の向こうの声は、明らかに面白がっているように、弾んだ声で続けた。

『加原岬、十五歳。以前、「そっち」のマインドスイーパーとは、死刑囚の頭の中でご対面したことがあるんだっけか』
「ああ」
『現在は関西総合病院にいるらしいけど、どうしてだか知ってるかい?』




408: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:20:48.90 ID:ic+McGmT0

問いかけられ、圭介は口元を醜悪に歪めて笑った。
しかし、抑揚なくそれに答える。

「知らんな」
『……そう。ならいいんだ』

電話の向こうの声はそう言って、端的に付け加えた。

『それじゃ。これ以上話すと逆探知されるから、次からは「鯨」の番号にテルしてね』
「分かった。それじゃ」

プツッ、と電話が切れる。
そこで圭介は、インターホンの呼び出し音が鳴ったのを聞いて、壁のモニターに近づいた。




409: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:21:37.68 ID:ic+McGmT0



「……汀ちゃんは、あれからずっと寝てるんですか?」

唖然として理緒が言う。
余所行きの、今時の女の子の服を着て、髪を綺麗に結っている。

「見ていくかい?」

そう言って圭介は汀の部屋のドアを開けた。
ベッドでは、やせ細ってやつれた女の子が、すぅすぅと頼りない寝息を立てていた。

「汀ちゃん……私のせいで……」
「一時的に脳の働きを活性化させるクスリを投与したのは、何も君のためだけじゃない。依頼を成功させるためだったんだ。気に病むことはない」
「高畑先生は……」




410: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:22:10.52 ID:ic+McGmT0

そこで、理緒は視線をそらしながら、小さな声で言った。

「高畑先生は、それでいいんですか……?」

問いかけられた圭介は、一瞬沈黙してから答えた。

「……患者を治すことは、汀が一番望んでいることだ。俺は、その助けをしているに過ぎない」
「でも……このままじゃ、汀ちゃん……」
「大丈夫だ。汀は絶対に死なせない」

圭介は目を細めて、汀を見た。

「絶対にだ」

その視線をちらりと見た理緒は硬直した。




411: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:22:42.57 ID:ic+McGmT0

どこか、言い知れぬ冷たさ……いつもの彼とは違う、異質の何かを感じ取ったからだった。

「あの……私、失礼します。これ……汀ちゃんが起きたら、渡してください」

そう言って、お土産のお菓子が入った包みを圭介に渡し、背中を向ける理緒。
そこで圭介は、しゃがんで汀の脇に置いてあった箱を取ると、理緒の肩を叩いて振り向かせ、それを渡した。

「持っていくといい。中に、ソフトも何本か入ってる」

それは、3DSの箱だった。
まだ新品と見れるものだ。

「そ、そんな……こんな高額なもの、いただけません……」




412: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:23:09.85 ID:ic+McGmT0

「そうでもないさ。別に気に病むことはない。汀が、君とやりたいゲームがあるって言ってたから、買ってきただけなんだ。あいつからのプレゼントだと思って、受け取ってやってくれ」
「…………あ、ありがとうございます……」

肩をすぼめて、小さな声でお礼を言う。
そこで彼女は、思い出したように圭介に聞いた。

「あの……」
「ん?」

柔和な表情をしている彼に少し安心したのか、理緒が続ける。

「私達が治療したあの患者さん……DIDは、治ったんですか?」
「……」

圭介は一拍置いてから、何でもないことのように言った。




413: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:23:43.15 ID:ic+McGmT0

「治ってるわけないだろう? その治療までは頼まれてない」
「え……」

絶句して、理緒は言葉を失った。
固まっている彼女に、圭介はにこやかに笑いながら言った。

「DIDをマインドスイープで治療するのは無理だよ。君達は、頼まれていた通りに、自殺病を完治させた。何か、問題があるかい?」
「で、でも……それじゃ、患者さんは……」
「理緒ちゃん」

理緒の言葉を遮り、圭介は言った。

「自殺病にかかった者は、決して幸せにはなれない。そういう病気なんだよ?」




414: 天音 ◆E9ISW1p5PY 2017/05/10(水) 21:24:13.67 ID:ic+McGmT0

言葉を返せないでいる理緒の前で、ドアを空け、彼は続けた。

「暑いだろうから、タクシーを呼ぼう」
「え……大丈夫です。それにお金が……」
「いいんだ。請求書は大河内にツケといてくれ」

圭介はそう言って、ニコリと笑った。

「それくらい別に、保護者ならしてくれてもいいだろ」

笑顔の奥に、どこか暗い場所がある表情だった。
理緒は何か言葉を発しかけたが、やがてそれを飲み込んで、小さく微笑んでコクリと頷いた。
汀のベッド脇で丸くなっていた小白が、大きくあくびをして、また目を閉じた。




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